静かに、確かに――これは恋なのか。
そう思ったのは、ふとした瞬間だった。
特務部の任務終わり、夕方の事務所。
窓の外には橙の光が差し込んでいる。
その中で、オーナー代理――弥代衣都は、いつもと変わらぬ顔で、書類の束を淡々と処理していた。
なかなか感情を見せない弥代の表情。
彼女のことを余り知らない他の誰かなら「冷たい」と思うのかもしれないが、俺にはそれが、安心する静けさに見えた。
感情が顔に出にくいだけで、人並みの喜怒哀楽はあるのだろうと理解はしている。
怪我を負う恐怖心も、美味しい物を食べた時の喜びも、観察していれば何となくはわかるが、少なくとも俺の前では朗らかに笑った顔を見たことが無い。
他のスタッフの前では、度々表情が緩んでいるのを見かける。回数は多くないし、ささやかな笑みではあったが、それでも、初めて見かけた時に彼女はそうやって笑うのかと、何故か無性に瞼に残ったのだ。
「……恩田さん、これを確認していただけますか?」
弥代は手を止めずに俺に書類を差し出す。
何の抑揚もない声。それなのに、胸の内に微かな波が立った。
何だこれは、と内心で問いながらも、それが不快ではないことに気づく。
書類を確認し終わり、諸々の片付けを終えた頃には夜になっており、弥代を寮まで送ることにした。
エレベーターで並んで立つ、彼女と自分。
沈黙が続いても気まずくはなかった。むしろ、それが心地よかった。
「……弥代、お前はいつも、そんな風に感情を隠しているのか」
珍しく俺から問いを投げた。
答えはすぐに返ってきた。
「……隠しているわけではありません。ただ、出にくいだけで」
そうか、と俺は目を細めた。
それがお前の素だと知っていた。
だからこそ、そのままのお前が、良かった。
その夜、眠れずにベランダに出た。
煙草に火をつけ、夜の街を見下ろしながら、ようやく自覚する。
誰かの仕草一つ、声一つに、自分の中で波が立つこと。
気が付けば視線で追い、隣にいると安堵し、離れると少しだけ不安になること。
……これは、仕事仲間に抱く感情ではない。
今まで、誰にも向けたことのなかった想い。
感情を表に出せないお前と、それに似た俺。
似ているようで、違う。だから惹かれたのかもしれない。
「……弥代。これは……恋なんだな」
小さく、誰にも届かないように呟いた。
煙が夜の中に溶けていった。
――この感情を、いつかお前に伝える日は来るのだろうか。
それはまだ、わからない。
それでも、お前の表情に、俺は、心を動かされた。
静かに、しかし確かに。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『その感情に名前を付けるな』
「任務」――それだけのはずだった。
だが、思考は明瞭にそうは割り切れていなかった。
豪奢な会場、シャンデリアの下。
花が咲くようにドレスを纏った人々の中に、ひときわ目を引く姿があった。
深いネイビーのロングドレス、背中が大胆に開いたデザイン、腰に沿う布の流れ。
宇京と御門が施したというヘアメイクと、変わらぬ無表情。
弥代衣都は、あの財閥の息子の隣に立っていた。
今回の任務は、とある財閥の一人息子の警護だった。
何かと恨まれる立場にいるという彼は、あまり大勢の前には出ないようにしているそうだが、今回ばかりはパーティーに参加しなければいけない事情があるのだという。
身の安全の為、知人を経由してAporiaに依頼してきたが、そこでもう一つ頼みたいことがあるのだと相談してきた。
それが、弥代をパートナーとして同伴させてほしいとのことだった。
「突然すみません、こんなお願いを」
「いえ。……パートナーの件ですが、私よりも相応しい方がいるのでは?」
依頼主はどこか落ち着かない様子で、弥代を見ながら続きを話す。
「もちろん、恋人はいないので誰かを代理で連れて行く予定でしたが……貴女を見た瞬間、もう貴女しかいないと感じたのです!」
顔を淡く染めながら、熱のこもった瞳で弥代を見続ける彼。
これは所謂、一目惚れというやつなのだろうか。こういうシーンを、綾戸から借りた映画で観たことがある。
「弥代、お前の好きにしていい」
「皇坂さん……では、お引き受けいたします」
「本当ですか⁉︎ ありがとうございます!」
弥代が答えた瞬間、依頼主は飛び跳ねんばかりに喜びを露わにした。
こんなに明らかな好意を見せているのに、弥代は意にも介さず、いつものように無表情だった。
パーティー当日、助っ人として宇京と御門が弥代のヘアメイクを施しているそうだ。
弥代に荒事を任せるつもりは微塵もないが、依頼主の側にいる分、なにか気付くこともあるだろうと、俺達と連絡が取れるイヤホンを付けることになっていた。
上手く装着出来ているか確認する為、彼女のいる部屋に入った途端目に見えたものは、傷一つない真っ白な背中だった。
「……なんだ、その服は」
「あ、恩田さん。お疲れ様です」
「あぁ、灯世か。イヤホンどう?一応髪で隠せるようにスタイリングしてみたけど」
「……それは問題ない。上手く隠れている」
イヤホンより、服の方が問題だ。という心の声が、顔にも出ていたのだろう。
弥代は首を傾げて、何か問題があるのかと言いたげな目で俺を見る。
「……その服は?」
「あぁ、これですか?依頼主の方が用意してくれました」
「依頼主が?」
「はい。是非、このドレスを着てくれと」
そう言った彼女のドレスは、背中がパックリと開いたデザインだった。
弥代がこういったデザインの服を着たのは見たことがなかったが、彼女のスタイルならなんでも似合うのだろう。不恰好ではなく、とても綺麗だと感じた。
「そうそう、良いドレスよね!お嬢のメイクも、ドレスに合うようにしたわ!」
「はい、ありがとうございます」
御門も宇京も、弥代本人も気にしていないのか、話題は綺麗に整えられたメイクに移った。
「……露出が、多すぎないか」
「え?」
「……防御力に問題があるし、機動性も良く無い。動きづらいだろう」
「やだ灯世ちゃんったら、ドレスはそういうものよ」
「衣都に防御力と機動性を求めるような事態にする気?」
「いや、そうではなく」
「?」
弥代は、俺の言っていることがわからないという様子で、首を傾げる。
なんとなく、今自分の中に渦巻く感情を知られたくなく、弥代から視線を外し部屋を出る。
「……問題ないなら、行くぞ」
「あ、はい」
パーティー会場では、人目につかないよう気配を消しながら依頼主の周辺を観察する。
特にこれといった問題も無く、二人は他の参加者に挨拶をして回っており、演技なのだろう、綺麗に作られた笑みを浮かべているのが見える。
不意に依頼主が、弥代に手を伸ばし、その細い腰を抱いた。
その姿を見た瞬間、俺の中で、何かが静かに軋んだ。
「……何故、触れる必要がある?」
誰に言うでもなく、低く呟く。
思わず指が煙草の箱を探したが、この場で吸える場所など無い。
俺はただのボディーガード。
それなのに、他の男の隣に着飾って立っている弥代を見て、平静を保てない。
腰を抱いたまま、その男が笑いかけた時、彼女は表情一つ変えずに視線を返していた。
それが逆に――腹立たしい。
感情を見せないお前が、誰かの横に立つというだけで、これほどまでに視線を奪われるとは。
「……」
馬鹿らしい。仕事に集中しろ。
自分に言い聞かせるように、無言のまま警備網を確認する。
だが、視界の端に弥代が映るたび、意識がどうしても引っ張られる。
依頼主が、布の無い無防備な弥代の背に軽く手を添えた瞬間――
何もしていないのに、咄嗟に一歩踏み出しかけて、我に返る。
「……何をしている、俺は」
ただの任務。
弥代は演技としてそこに立っている。
それを理解しているはずなのに。
『灯世、どうした』
無線イヤホンから、問題があったのかと問う有の声にハッとする。
「いや、なんでもない」
『今日は少し様子が変だな。弥代がどうかしたか』
「……問題ない」
胸に広がるこの、説明のつかないざらついた感情は……何だ?
焦りでも苛立ちでもない。
ただ、誰にも触れてほしくないという、子供じみた独占欲のようなもの。
それを自覚した瞬間、喉の奥で笑いが漏れそうになった。
「……本当に、馬鹿だな」
彼女はただの仕事仲間であるはずなのに、独占欲を抱くなんて。
今までの人生で、誰かにそのような感情を抱くことがなかったから、気付かずにいた。
それはまるで――恋をしているかのようで。
「今日はありがとうございました」
「いえ……こちらこそ、貴重な経験ができました。ドレスも頂いてしまって、ありがとうございます」
パーティーが終わり、依頼主と合流し、不審な人物などは特におらず何も問題は無かったと報告をした。
今日すべきことは全て終わらせたので、依頼主が自宅の送迎車に乗り込むまで側について行く。
「ではまた、何かありましたらご連絡お待ちしております」
一礼し、車に乗り込もうとした時、依頼主は何かを思い出したかのように声を上げた。
「……あぁそうだ!貴女の連絡先を教えてくれませんか?」
「え?」
突然の言葉に驚きながらも、弥代は淡々と返事をする。
「申し訳ありませんが、それは……」
「仕事で連絡する可能性がありますので!」
……本当にそうだろうか。この男は弥代に好意を寄せているように見えたのだが。
依頼主は携帯を取り出しながら、弥代に一歩近づく。
その瞬間、俺は思わず二人の間に割って入った。
「申し訳ないが、それは許可できない」
「え、あ……ですが」
「仕事で用があるのなら、彼女個人にではなくAporiaに連絡を」
「……そうですか。わかりました」
男は一瞬弥代に視線を向けた後、諦めたように携帯をしまう。
「では、これで」
「はい。お気を付けて」
依頼主は軽く会釈し、そのまま車に乗って走り去った。
「あの……」と弥代が口を開いたのを遮り、俺は口を開く。
「……連絡先など必要ないだろう」
「そう、ですが」
「……何か問題か?」
「いえ、特には。恩田さんがそう言うのなら」
弥代は頷き、そのまま有の運転する社用車に乗り込んだ。
着替える場がなかったため、弥代の服装は変わらず、依頼主から貰った背中を魅せるドレス。
俺はその後ろ姿を見ながら、自分の中にあった感情の理由に気付く。
それは、嫉妬だ。
これも、綾戸から借りた映画で見たことがある。
他の男に触れられてほしくないという独占欲と……そして嫉妬心。
そんな感情を持つなど、自分らしくない。
自分は、守るべき存在を、特別な相手を作るべきではないとわかっているのに、何故。
「恩田さん?」
弥代が振り返り、俺を不思議そうに見上げる。
その澄んだ瞳に吸い込まれるように、無意識に手を伸ばしかけたところで我に返り、慌てて手を引っ込める。
「……帰るぞ」
「?はい」
今はまだこの感情の意味を知ろうとはせず、ただの仕事仲間としてこれからも彼女を守ればいい。
そう言い聞かせながら、俺達は帰路についたのだった。