ノンフィクション■恋愛小説
教会内にある資料室にはナーヴの過去から現在にいたるまでの様々な書物が保管されている。
書物、といっても膨大な数のそれらを本の形状で残しているのはそれだけで歴史的価値のある一部のものだけで、それ以外のほとんどはデータ化されている。所属や階級によって閲覧できるものは厳しく制限されているが、エーテルネーアはここにある記録の全てを読むことのできる唯一の権限を持つ人間でもあった。
そんなエーテルネーアが、最近特に気に入って読んでいるものがある。
(確かこの辺りに最新シリーズが……)
司書に頼めばすぐにでも目的のものを出してもらえるのだが、どうしても頼みにくくてエーテルネーアは自ら室内を歩き目的の端末を探す。
「あった!」
しばらくさ迷ってから目的のものを見つけると端末から読書用の端末へとデータを読み込む。
ずっと楽しみにしていたそれを無事入手し、浮かれた気分でその場を離れようとしたところで、
「おや、エーテルネーア様じゃないですか」
「!」
まさかこんなところで声をかけられることがあるとは思わず、エーテルネーアは驚きに小さくその場で飛び上がる。
「ろ、ロイエ隊長……?」
そこにはユニティオーダーの隊長であるロイエの姿があった。
「ど、どうしたのですか、こんなところで……」
「前々から読んでいた小説の最新刊がここに置いてあると聞いて資料探しのついでに来たんですよ。わざわざ街まで買いに行くより便利なので」
「そうですか。では」
短く会話をして、逃げるようにその場を去ろうとする。しかしこの日に限ってなぜかロイエはエーテルネーアのあとをついてきた。
「ちなみにエーテルネーア様はどのようなものを読まれるのですか?」
「それは、まあ……いろいろと……」
「なるほど。教会のトップとしてアークで流行っているものはひとおおり把握しておきたいと」
「そうですね」
今入手したものをなるべくならロイエに知られたくないのと、帰って早く読みたい気持ちで返事がおなざりになる。
「この辺りは大衆文学のコーナーですよね。エーテルネーア様がこのような本も読まれるだなんて意外だな」
「そういう貴方は自分の目的は済ませたのですか?」
「あ、そうだった」
強引に話題を逸らして、ロイエが端末の方に向かった隙にその場を離れようとする。
「……おや。最近街で流行ってる恋愛小説の新刊も出たんだ」
「!! 貴方もそれを読んでいるのですか!?」
つい今しがた入手したものの話題に、離れかけた足を止めてエーテルネーアは勢いよくロイエへと詰め寄った。
「い、いや、私は読んでいませんが、女性隊員の間で結構話題になっていたので……」
「そうですか……」
愛読書仲間ができるかと思って喜んだものの、ぬか喜びで終わってしまいエーテルネーアはがっくりと肩を落とす。
その間にロイエは目的のものを入手し終わり、エーテルネーアも今度こそこの場を去ろうとしたのだが。
「最新刊、結構過激らしいですね。確か主人公の男友達が死ぬって、」
「え!?」
何気なくロイエの口から出た言葉に、再び足を止める。
「し……ぬ……?」
「と、聞きましたけど」
呆然として、それ以上の言葉が出なかった。
今入手したばかりの、楽しみにしていた話の思わぬネタバレにエーテルネーアの肩が小さく震える。
「エーテルネーア様?」
「……っ、」
このままここにいると何も知らないロイエのことをなじってしまいそうで、エーテルネーアは歯を食いしばりながら足早にその場を去った。
「どうしたんだ、一体……?」
取り残されたロイエは、ただ茫然とその後姿を見送る。
急いで自室に戻ったエーテルネーアは、もやもやとした気分になりながらも結局小説を読みそれはもう怒涛の展開に盛大に泣いた。
そして後日、こっそりとロイエの端末にもこの小説のデータを全て流し込んでおいた。彼が読んでくれるかは分からないが、いつかロイエと感想を話し合えたらいいなとひそやかに願いながら。
■恋愛小説送られたロイエ
とある休日。自室のベッドの上で自堕落に過ごしていたロイエは読みかけの小説の続きを読もうとして、ふと見覚えのないものがあることに気付く。
それは最近流行りの恋愛小説で、ロイエもタイトルと簡単な内容だけは噂で聞いた程度に把握していた。しかしロイエは恋愛小説などには興味はなく、自分でこれを入れた記憶がない。
となると入れたのはこの端末を直接ロイエの部屋から持ち出せる身内のシャオくらいだが、彼の性格を考えるとおそらくそんなことはしないだろう。
なぜこんなものがあるのかは分からないが、別に問題があるわけでもないので一旦それは無視してロイエは読みかけの小説の続きのページを開いた。
翌日の仕事終わりに、シャオを見かけたのでロイエは声をかけた。
「ねえシャオくん。君、恋愛小説とか読んだりする?」
「は? あなたの教育方針の中にそのジャンルはなかったよね?」
「だよねぇ」
ロイエが読まないのでその手の本はシャオに買い与えたこともない。特に読む本の強要も制限もしてこなかったが、シャオはロイエ以上に現実的でファンタジーを好まなかった。
「もしかして、最近はやりのアレのこと?」
「シャオくんまで知ってるなんて、そんなに有名なのかアレ」
「知ってるも何も、次は映画化するって最近ずっとCMが流れてるじゃない」
「そうなの? ここのところ忙しかったから、初めて聞いたよ」
まったく興味はなかったのだが、そこまで話題になるのであればよほど面白いのだろうか。少しだけ気になってロイエはその日の夜、端末の中に勝手に入っていた恋愛小説を試しに読んでみることにした。
「それぞれ別組織に所属している男女が、戦いの中で愛に目覚め……って恋愛してる場合じゃないでしょ」
あらすじを読みながらツッコミを入れつつページを繰ってゆく。とりあえず一話目を読み切ったところで深いため息を吐きながらロイエは端末を落とした。
「緊迫感のある戦いや駆け引きの部分は面白いんだけど、やっぱりこれ恋愛要素邪魔じゃない?」
そもそもキャラクターに対して感情移入をあまりしないタイプなので揺れる恋心を細かく描写されたところでなんとも思えず、感想としてはそれだけだった。
続きを読むような気にはならなかったのでその日のはそのまま眠りについた。
「ロイエ隊長に似ていると思います」
「え?」
一仕事終えて、休憩室に入ると同じく休憩中の女性隊員たちの間から突然聞こえてきたのがその言葉だった。
「わかる~! ひょっとしたら意識してるんじゃない!?」
「そりゃ何も知らない一般女性からしたらロイエ隊長って理想の男性像って感じだもんね」
「なんの話……?」
困惑するロイエをよそに、女性隊員たちが盛り上がっている。
首をかしげながら近づくと、彼女たちの中心に一冊の雑誌が置いてあることに気付く。そしてそこには見覚えのある名前があった。
「ああ、今流行りのやつね」
最近よく見る恋愛小説のタイトルを読み上げると、話に夢中になっていた女性たちがロイエの方へと振り向いた。
「え、隊長恋愛小説とか読むんです!?」
「読むように見える?」
「読むわけないですよね~!」
即座に否定され、不可抗力とはいえ実は一話だけ読んでいるとはとても言えそうになくて苦笑いを浮かべる。
「ていうか、僕に似てるってなに?」
「ヒロインの恋人ですよ! あきらかにロイエ隊長を意識してると思うんですよね」
言われて、読んだ本の内容を思い返す。ロイエが読んだ部分はほんの序盤で、出てきた男はまだヒロインの恋人ではなかったがとても自分に似ているとは思えなかった。
男はロイエよりもずっとロマンチストでロイエよりもずっと正義感がありロイエよりもずっと勇敢だったのだから。
「まあ正確に言うとロイエ隊長の中身をものすごくいろいろ美化した感じ…?」
「そういえば彼もなんかの部隊のリーダーなんだっけ」
「ですです! 私たちはロイエ隊長のロクでもない部分も知っているのでそこまで夢見てませんけど、一般の女性から見たらあんな風に見えるのかな~って」
「なるほどねぇ……いやロクでもないはちょっと傷つくんだけど」
ロイエの最後の言葉は無視して彼女たちは楽しそうに笑っている。彼女たちのこういう逞しいところが頼もしくもあり、だからこそ仕事上で恋愛感情なんて湧きはしないとなおさら思う。
「じゃあ君たちもああいう恋愛に憧れて小説を読んだりするの?」
「まさか~! ああいうのはフィクションだからいいんじゃないですか」
「実際ロイエ隊長に口説かれたら怖いですし」
「ええっ、なんで……?」
「高嶺の花は遠くから見てるくらいがちょうどいいんですよ」
「そういうもん……?」
小説の中の男はヒロインだけではなくほかの女たちからもモテモテだったのに、モデルになったかもしれないロイエ自身がこの扱いだ。一体何の差なのかと腑に落ちない気分を味わいながら休憩時間は過ぎていった。
■映画館デート
休日の繁華街はどこもかしこも人であふれかえっていた。
そんな中、すれ違う人一人一人を警戒しながらロイエは歩いている。
「街に出るのは久しぶりです」
ロイエの隣にはこのアークを統べる、ナーヴ教会のトップであるエーテルネーアが歩いている。
常に緊張感を持ちながら進むロイエとは打って変わってエーテルネーアの足取りは軽く、心なしか浮ついているように見えた。
「少し来ない間に、ずいぶんと様変わりするものなのですね」
いつも仮面をつけて過ごしている彼の素顔を知る者はほとんどおらず、こうして街を歩いていても誰もロイエの隣を歩く青年がエーテルネーアだとは気付きもしない。実際にいつもよりもずっと簡素な格好をしたエーテルネーアは、ロイエから見てもどこにでもいるようなただの青年にしか見えなかった。むしろユニティオーダーの隊長として人前に立つこともあるロイエの方が住人に顔が割れているので、長い髪は帽子の中にしまいサングラスをかけて顔を隠している。
しかし彼がどれだけ普通の青年に見えても、間近でその顔を見れば瞳に浮かぶ深い慈しみの色合いに、この人は間違いなくエーテルネーアなのだと思わざるをえなかった。
万が一正体がバレればとんでもない騒ぎになってしまうし、正体がバレなくてもなんらかの騒動に巻き込まれてしまえばロイエの首が飛ぶ。戦場に立つときよりも慎重にロイエは進んでゆく。
「それで、映画館はどこに……?」
「こっちですよ」
今日の目的はエーテルネーアと映画を見ることだ。
なぜこんなことになったのか、原因は数日前にさかのぼる。
その日ロイエは必要なデータを取りに行くために教会へと向かっていた。
「まったく……自分たちはこちらにデータの提出を必須にするくせに、向こうからは言っても送ってこないのがほんとクソムカつくな」
ぐちぐちと教会に対する文句を言いながら、資料室へと入り目的の端末へと向かう。普段ならこの程度の仕事部下に任せるのだが、今回は閲覧権限が隊長のみなのでロイエ自身が足を運ぶしかなかった。
必要なデータを入手し、その場で中身を確認する。
「……あ、数字が入ってない部分がある」
肝心な部分に一部入力漏れがあることに気付きさらにロイエの苛立ちは募ってゆく。
「誰だよここの担当……げっ」
名前を確認して、なるべくなら顔を合わせたくない上司であることを知り気が滅入る。それでも確認しないわけにもいかないのでロイエは渋々ミゼリコルドの執務室へと向かった。
部屋に着き扉をノックする。この時間ならいつもここにいるはずなのになぜか返事がない。普段であればあきらめるなり引き返すなりするところだが、今日のロイエはすでにかなり頭にきていた。なので再びわざとらしいくらい大きなノックをして、遠慮なく扉を開く。
「失礼しまーす」
どう転んでもこの後小言を言われることには違いないのだ。ならばもうどうにでもなれと踏み込んだのだが、
「……ロイエ隊長? 今は取り込み中なのだが?」
「あ……」
「おや、何か急ぎの用事ですか?」
そこにはミゼリコルドだけではなくエーテルネーアの姿もあった。
来客中の可能性がすっかり抜けているなど、やはり苛立つと判断力が落ちてよろしくない。反省しつつロイエは謝罪しながら後ろへと下がってゆく。
「申し訳ありませんお邪魔してしまって。私の用事はあとで構いませんので……」
「お待ちなさい」
逃げるように部屋を出ようとすると、それをミゼリコルドに遮られる。
「ちょうどいい、もうロイエ隊長で良いでしょう。構いませんよね、エーテルネーア様」
「……構わないよ」
「なんの話です……?」
勝手に話を進められてロイエは困惑する。そんなロイエに、ミゼリコルドは真面目な顔で告げた。
「貴方にはエーテルネーア様が街に出る付き添いをしてもらいます」
「は?」
「突然ですまないね。いつもなら教会の者に付き添ってもらうのですが、今は皆手が空いていなくて……。どうしようか悩んでいたのです」
「何か街で特別な行事でも……?」
わざわざエーテルネーア自ら赴くともなれば、それなりの大仕事なのだろうかとロイエは表情を引き締める。それに対してエーテルネーアは照れ臭そうに笑って、
「いや、これはプライベートなことで……」
「プライベートとはいえエーテルネーア様を一人で出歩かせるわけにはいきませんからね。頼みましたよロイエ隊長」
「はあ……」
「では、詳しい話は僕の部屋でしようか」
こうして、ロイエはエーテルネーアについて街に出ることになった。しかもその理由を聞いて驚いたものだ。
『映画館で映画が観たい』
映画なんてエーテルネーアほどの人であればわざわざ映画館まで赴かなくても自室で上映してもらえると思うのだが、その話をすると彼はどうしても映画館で観たい作品があると言う。
そして作品名を聞いて流行りの恋愛小説であることを知りさらに驚いた。
まさかエーテルネーアがわざわざ映画館にまで観に行きたいと言い出すほど恋愛小説にハマっていることが信じられない。そんなロイエの考えがそのまま顔に出ていたのだろう、エーテルネーアは恥ずかしそうに俯きながら、
「似合わないのは分かっていますよ」
「似合わないというより、意外ですね。貴方がまさかあんなチープなフィクションが好きだなんて」
「……読んだのですか?」
「最初の方だけ少し。でも残念ながら私には合わなかった」
「フィクションは嫌いですか?」
「というより恋愛小説に興味がないですかね。すべての恋愛小説がそういう話ではないのでしょうけど、仕事の最中に色恋について考えるなんて私には共感できない。例えそれが現実の話でなくとも」
「なるほど、さすがロイエ隊長は随分と真面目なのですね」
真面目、というわけではなく単純に恋愛そのものに興味が薄いだけなのだが、あまりこちらのことを詮索されてもうまく答えるのが面倒なのでロイエはわざと話を逸らす。
「そういう貴方こそ、ああいうのに憧れでもするんですか?」
「どうだろう。そもそも僕自身は恋愛というもの自体に縁がないから、だからこそ楽しめるのかもしれないね」
そう言うエーテルネーアの姿は少し寂しげだった。
確かに教会のトップともなれば自由恋愛などありえないのだろう。
「なるべく早く観に行きたかったのですけど、興味のない貴方を付き合わせるのも悪いですね。残念ですが日を改めれば……」
「付き合いますよ」
「え?」
「ナーヴ教会のトップとユニティオーダーのトップ、そんな二人がそろってお忍びで映画館に行くだなんて最高にフィクションじみてて面白いじゃないですか」
こんなことはきっとこれが最初で最後だ。
それこそフィクションじみたことがノンフィクションへと変わる瞬間に立ち合えるなんて、自分で口にしておきながらあまりの現実感のなさに笑ってしまいそうになる。
「……確かに、なかなかない設定だね」
「でしょう? これが恋愛小説なら上司である貴方とデートすることになった私は貴方と付き合うことになるし、そのまま貴方にプロポーズされ私は教会のトップの嫁で、将来が安泰すぎて困ったな」
わざとらしく神妙な顔をするロイエに、エーテルネーアが小さく吹き出す。肩を揺らしながら笑う彼に、ロイエはさらにおどけてみせた。
「エーテルネーア様、どうか私とデートしてください」
「そんな台詞はありませんよ」
「残念。こんなことならもう少し読んでおけばよかったな」
「そもそもプロポーズもまだ彼らはしていないし、昨今の恋愛小説にはもう少しリアリティがあるね」
そこまで言われると、今更だが話の続きが気になってくる。幸い手元に最新刊まで揃っているので、ロイエはエーテルネーアとの約束の日までに結局全てを読破することになるのだった。
迎えた当日の映画館は人気作品の映画化ということで人が溢れていた。
その大半が女性グループかカップルで、あきらかに成人男性二人のロイエとエーテルネーアは浮いている。周りからの視線を感じながらも、なるべく隙を見せないように気を付けつつ奥へと進む。
「そういえば、小説の中にもヒロインが映画館にいく話がありましたよね」
「ああ、一人で恋愛映画を観にきたら仕事で映画館にターゲットの尾行をしていた上司と一緒に映画を見ることになるという、そのモデルになった映画館がここだよ」
「へぇ、もしかしてそれでこちらにわざわざ?」
「……おかしな話でしょう」
「いいんじゃないですか。話のモデルになった場所に行ってみたくなる気持ちは私にも分かりますよ」
会話をしながら指定された席へと向かいそこに座る。ロイエ自身もわざわざ映画館にまで観に来るのは久々だった。大昔、当時付き合っていた恋人にねだられてやってきた映画館で、いったい何を観たのかももう覚えていない。
隣に座るエーテルネーアは目に入るものすべてが楽しいのか、ずっと落ち着かない様子であちこちを見回している。
「映画館は初めてですか?」
「そうですね。街に出ること自体ほとんどありませんから」
「別に貴方は顔が割れているわけではないのだから、もっと自由にしてもいいのでは?」
「……」
ロイエのその言葉に、エーテルネーアは少し寂しげな表情を浮かべる。
「僕にその資格は……」
エーテルネーアが話しかけたところで、開幕を告げるアナウンスが流れる。自然と会話は止まり二人の視線がスクリーンへと向かう。
映画の内容自体は小説の序盤を綺麗にまとめた話になっていた。美男美女が主演を務め、小説にはない視覚的な要素は面白くもある。しかし内容には少しも共感できないのでロイエにとっては退屈な時間だ。
隣に座るエーテルネーアの様子を盗み見ると、彼はキラキラと目を輝かせて楽しそうに見ていた。
今日のロイエの仕事はエーテルネーアの護衛だ。彼の大切な時間を守るためにも、ふかふかの椅子の座り心地の良さによって訪れる眠気に必死に耐え続ける。
(ヤバい……眠い……寝そうなんだけど……)
ロイエがうつらうつらしていると、ちょうど映画はさっき話題にも出した映画館のシーンへと差し掛かっていた。
並んで座った男女の、映画に夢中になる女の手に男の手が重なる。甘い恋の始まりかと思いきや、男がそのまま手を引いて身をかがめた瞬間銃声が鳴り響く。内容を知らなければハラハラするシーンだが、知ってしまっているため残念ながらそれもない。
なんとか大きな欠伸をすることだけは耐えたロイエの、右手に不意に別の手が重なった。
「?」
隣に視線を向けると一瞬だけエーテルネーアがいたずらげな笑みを浮かべながらこちらを見て、すぐに視線をスクリーンに戻す。
寝るなということなのだろうか。意図がよく分からなくて、ロイエは大人しくじっとしていた。
その後もエーテルネーアの手のぬくもりを感じながら、おおよそ二時間ほどの映画は終わった。
「やはり退屈だったようですね」
「いや、その……」
映画が終わって、ロビーまで戻ったところでエーテルネーアに指摘されてしまう。
お世辞にも面白かったなどと胸を張って言うこともできず、ロイエは言葉を濁した。
「気を使わなくても構わないよ。元々乗り気ではなかった貴方を連れてきたのは僕なんだから」
「すみません……」
「本当に、今日はありがとう。おかげでとても楽しかった」
ロイエの方こそまさかこんな機会が訪れる日がくるだなんて思いもよらなかった。
いつもあの堅苦しい教会の中で、優しげな笑みを浮かべている姿だけがロイエにとってのエーテルネーアだった。それがどうだ、今日はロイエの横でどこにでもいる普通の青年と変わらない姿で並んでいる。
まるで現実味のない出来事は、それこそ一歩間違えれば夢だったのかと勘違いしそうなくらいだ。
「ところで貴方に聞いてみたいことがあるのですが……」
「なんです?」
「貴方は溺れるようにに誰かを好きになったことがありますか?」
「ええっ?」
予想外の質問に、ロイエは目を見開いて驚く。
すっかり恋愛映画にあてられたのかなんなのか。そんなことを聞く意味が分からなかったが、残念ながらロイエはエーテルネーアが喜びそうな答えは持ち合わせていない。
「ありませんね。残念ながら」
「そうですか……」
「それが、一体何か?」
「もし知っているのだとしたら、それがどういうものなのか興味があっただけです。教会にはこんな話をできる人間はなかなかいませんから」
「ふぅん……」
溺れるような恋、なんてそれこそ都市伝説だろうとロイエは思う。
ロイエ自身はもちろん周りでだってそんな大恋愛をしている人間なんてそうそう滅多に見ない。みんな堅実な恋愛を重ねて、いつしかそれが日常になってゆく。しかしエーテルネーアにとってはそれすらも非日常なのかもしれない。
「……まあでも、溺れるようにだなんてのは、経験しないに越したことはないと思いますけどね」
「なぜです?」
「それが幸せだとは限らないからです」
「……」
何か思い当たる事でもあるのか、エーテルネーアは押し黙った。
「溺れた結果それを手に入れることができたら幸せかもしれないけど、そうじゃなかった場合は不幸でしょう」
「そう、かもしれませんね……」
「恋愛小説で満足しているくらいがちょうどいいと思いますよ」
改めて、なぜこんな話をエーテルネーアとしているのか、不思議な気持ちだった。
恋愛指南なんて正直勘弁してほしかったし、教会内部のそういった事情に詳しくなりたいわけでもない。面倒なことには絶対に巻き込まれたくないとロイエの内側で大きく警鐘が鳴り響いている。
それなのに。
(この人の溺れる姿を見てみたい)
不意に、そんな欲求に襲われた。
一体どんな風に心をときめかせて、どんな風に溺れて、どんな風に愛を囁くのだろう。想像もつかない。
「ロイエ?」
映画館を出て、少し歩いたところで突然足を止めたロイエをエーテルネーアが怪訝そうに見る。
――こんなことはきっとこれが最初で最後だ。
「エーテルネーア」
小さく名前を呼んで、その手を引く。大人しくついてきたエーテルネーアと共に人気のない路地までやってきた。
「どうしたのですか突然」
「溺れたことのない人を、溺れさせてみたいと思っただけです」
「え?」
ロイエはその場で身をかがめ、エーテルネーアに顔を近づける。
いっそのこと逃げてくれればまだ思いとどまれたのに、彼はその場から動かなかった。
「っ……」
二人の唇が重なる。
こんなものはキスのうちに入るのだろうかというくらいの軽い接触の後、すぐに離れる。
間近にあるエーテルネーアの瞳は揺れていた。
いきなり部下かからキスをされたら困惑するのも仕方のないことだろう。からかうなと怒られる覚悟もしたが、エーテルネーアは何かを言おうとしてはすぐに口を閉じてしまう。
「……嫌、ではなかったですか?」
「そんなことはありません……」
自分で仕掛けておいてなんだが、怒るでもなく照れるでもなく静かな反応が返ってくるとどうしたものかロイエまで困惑してしまう。
「これでは……」
小さく何かを言いかけて、エーテルネーアは彼自身の指で感触を思い出すかのように唇の上を撫でた。
「僕はいつか貴方にプロポーズしなければいけないね」
「リアリティがないって言ったくせに」
軽口で返しながらも、エーテルネーアの様子から目を離せなかった。
ここが屋外で本当によかったと思う。もしも屋内で、二人きりの空間だったらロイエはもっとひどいことをしてしまっていたかもしれない。
「……だから、せめて今だけは」
きっと明日になればエーテルネーアはいつもの憂いを帯びた静かな笑みでロイエを迎えるだろう。
溺れるような恋愛に興味があると言ったその口から出るのはアークの永劫の平和と繁栄を願う言葉ばかりだ。
それが二人にとっての現実であり、変えようのない関係でもある。
わずかな時間をただの恋人同士のように二人は街を歩いた。
まるで現実感のない時間だからこそ、それこそ小説の中の登場人物のように自由に振舞える。
叶えられるはずのない願いをここに閉じ込めて、たとえ報われることがなくても、いつか失われるものだとしても、この想いは確かに存在していた。
おまけ(モブ男の懺悔を聞くエーテルネーア。エーテルネーアが恋愛小説を読むきっかけになった話。カップリング要素的なものはほぼない)
■懺悔室
「私は、好きになってはいけない人を好きになってしまったのです……」
それはとても悲痛な声だった。
教会内には自身では抱えきれなくなった罪を告白するための懺悔室という施設が存在していた。
とはいっても、昔と比べ情勢が落ち着いた今となっては犯罪などの大きな罪ではなく、どちらかというと日常の悩み事やちょっとした愚痴を吐き出すための場所でしかない。ミゼリコルドなどは今の時代にもはやこんな場所は不要だと言っているが、市井の人々の声が直接聞けるこの場所がエーテルネーアは好きだった。立場上頻繁に足を運ぶわけにはいかなかったが、それでも時々顔を出している。
今日も人の入りはまばらで、確かにミゼリコルドの言うように時代遅れなのかもしれない。少し寂しく思いつつもエーテルネーアは今日の担当者に頼んで席の一つに座らせてもらった。
小さなブースはきっちりと防音されていて声が外に漏れることはない。双方の間には顔が見えないように薄い壁が設置されていて、下部にある小さな隙間から声が聞こえて会話できるようになっている。
少しすると向こう側に人が座る気配がした。
あくまでもここは抱えたものを吐露するための場所なので、基本的にこちらは聞き役に徹する。
今回の相手は声から察するに二十代後半から三十代半ばくらいの男。少し硬い喋り方からとても緊張していることがうかがえる。男は簡単な挨拶を済ませた後、さっそく本題へと入った。
「私は、好きになってはいけない人を好きになってしまったのです……」
それはとても悲痛な声だった。
あまりにも苦しそうだったので、エーテルネーアは思わず口を挟んでしまう。
「……どうして好きになってはいけないのですか?」
「相手が、同性だからです」
「なるほど同性愛……」
アークでも時代によっては禁じていたこともあったようだが、今は特に罰則などは設けられていない。かといって同性での婚姻は認めてはおらず、肩身が狭い思いはするのだろう。そもそもエーテルネーアにとって恋愛というもの自体が縁遠く、苦しくてたまらなくなるくらい誰かを好きになるという感覚があまり理解できなかった。
「しかも、相手は自分の上司なんです」
「上司?」
「ええ。最初は単純に尊敬しているんだと思いました。でも気が付けばずっと目で追っていて、何をしていても気になってしまって、常にあの人のことを考えているんです……」
「ずいぶんと魅力的な方なのですね」
「それはもう! 見た目が美しいのはもちろんその仕草や立ち振る舞い、声、落ち着いた物腰なのにユーモアもあって、もちろん仕事には厳しいんですけどフォローは欠かさないし、上司のさらに上司がいるんですけどそこから無理なことを言われた時にも媚びへつらわずに毅然と返す態度! 憧れずにはいられません!」
長々とした語りを聞きながら、その上司とやらがどんな男なのか少し興味が湧いた。しかしこの場の決まり事として人物の特定ができるような詮索はしてはいけないし、もちろん口外してもいけない。この世に生まれたときから上司というものが存在しない立場のエーテルネーアにとっては少し羨ましい話だった。
「……憧れずにはいられないのであれば、やはりその想いは憧れなのでは?」
「実は、それだけではなくてですね……」
もごもごと男が言いづらそうに言葉を途切れさせる。少し待っていると意を決して、男は殊更声をひそめて告げた。
「……その上司に対して、性的興奮を覚えるんです」
「性的興奮」
「自分でも信じられませんでした。けれどあの魅力的な姿を思い浮かべるだけでも気分が盛り上がってきて、私は……っ」
困り果てた調子の相手に、エーテルネーア自身にそんな経験がないのでなんと言っていいかよく分からなかった。
けれども存在するだけで性的興奮を覚える存在とはいったいどんなものなのか、聞けば聞くほど興味がわいてしまう。
「万が一こんな風に考えていることがバレてしまったら私は……っ!」
「貴方の話を聞いている限り、そういったことで軽蔑するような方だとは思えませんが……」
「そう、ですよね。確かにそうです。きっとあの方なら醜い私の欲望も笑って許してくれるでしょう」
「……その想いを、伝えるわけにはいかないのですか」
「無理に決まっていますよ! 相手は同性で上司というだけではなく、結婚はしていないみたいなんですが子供がいるので……」
「それは複雑ですね」
「ええ……はなからこの想いはどうしようもないものなのです。でもせめて捨ててしまう前に誰かに聞いて欲しくて、今日はここに来ました」
「分かりました。あなたの行き場のない想いは例え報われることがなくても、いつか失われるものだとしても、確かに存在していたものだと私が記憶しておきましょう」
「ありがとうございます。これで新たな一歩を踏み出せるような気がします……」
そう言って男は去っていった。
来た時は苦しげな声をしていた男も、去り際は少しだけ吹っ切れていたような気がした。この先彼に良い出会いがあることを、エーテルネーアは心から祈った。
恋愛の話を聞くたびに、その感情に想いを馳せ、そしていつも上手く想像できずにあきらめる。
溺れるように好きになれるような相手がいるということはとても羨ましいことだ。エーテルネーアの周りに大切な人たちはいても、それは恋愛対象ではない。
(……僕には一生縁のない話だろうけど)
それでも少しだけ興味が湧いて、エーテルネーアはその足で資料室へと向かった。
それからしばらくの間、同性愛について調べたり恋愛小説や魅力のある上司とはなどというタイトルの啓発本などを突然読み始めたエーテルネーアを、ミゼリコルドが訝しむことになるのだった。