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    mbq_udon

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    mbq_udon

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    美術教師×高校生

    羨望入学式。

    毎年のように行われる、平凡な入学式のはずだった。
    色めき立つ女子生徒。喧騒を響かせる男子生徒。その中に一人、目立つ生徒がいるのを彼が見つけたのは、入学式も終わりかけの時だった。
    髪は柔らかそうな麦の穂のような色。肌の色も髪に倣うように白い。髪よりも幾分か濃い色の瞳で、まっすぐ前を見て壇上の教員の話を聞いている。
    彼の心中は、新しく始まる生活に輝かしい期待の光を湛えているのだろうか。
    定例どおりの入学式が終わり、新入生はまだ緊張を残した表情で体育館を出て行く。例年よりもずいぶんと遅咲きの桜が、風に遊ばれは散ってゆくのが見えた。
    体育館から続く渡り廊下を歩く彼の姿に目が留まる。焼き付いた光景は、濃い紺色のブレザーから覗く、うなじの白さと襟足の毛に絡まった桜のひとひら。彼の指が拭うように髪を鋤いた。薄紅色の花弁が瑞々しい白い指に捕らわれる。
    襟を擽るものがなんなのか気付いた彼は、それを少し見つめた後、ふぅっと息を吹き掛けて散りゆく桜の波に花びらを戻した。
    汎用な日々に鮮烈に焼き付いた光景は、羨望という以外に他ならなかった。


    入学式。
     
    真新しいブレザーと、糊のきいたワイシャツ。しっかりとアイロンのラインが入ったスラックス。新品の、制服の匂い。
    外はまだ少し肌寒いがいい陽気で、散ってゆく桜に春の光が差している。校長の凡庸な、それでいて少々長い祝辞にあくびを噛み殺そうとした時だった。
    体育館の壁際に立っている教員らしき者たちの中に、一際目立つ人物がいた。
    背が高く、体尽きもがっしりしている。何よりその人相が最悪だった。入学式なので、その教員ももれなくスーツを着ているのだが、黒いスーツに身を包んだ彼はまったく堅気に見えなかった。どこかの若頭だと言われれば信じてしまいそうな雰囲気だ。
    普通ならきっと恐れるのだろうが、霊幻は何故だかおかしくて、ふっと小さく吹き出してしまった。それを不審に思われたのか、隣の新入生に見られてしまって慌てて前を向く。
    彼はいったい、何を教えるのだろう。
    平凡な入学式で発見した、ほんの些細な事であったが、彼はこれから始まる新生活に、わずかながら心を弾ませるのだった。







    窓際に座る一人の生徒が、寒風吹きすさぶ窓の外を退屈そうに眺めていた。
    昼休みの終わった午後の授業など退屈極まりない。しかも授業は話し方に抑揚のないと評判の古典教師の授業で、寝ている者も一人や二人ではない。
    その生徒は、授業を聞きつつ、空を流れる雲を、ぼんやりと見つめている。
    現在、平凡な高校生である彼──霊幻新隆が、特別な何かになれると思っていた日々から、ずいぶんと時間がたった。
    そろそろ、自分が特別な何かではないと気づく頃だった。高校に入った時こそ、もしかしたらこれから何か非日常的な何かが起こるかも知れない、と多少の期待もしたのだが、その細やかな期待も空しく、平々凡々な日々が過ぎ初めての冬を迎えようとしている。
    いや、一つ、平凡ではないことがあった。

    男子高校生同士のふざけた遊び。
    思えば、その性質の悪い下卑た遊びに付き合ったのが間違いだった。
    しかし、先輩にやれと言われれば後輩に断る術はない。学校という特殊な環境において、わずかな歳の差というものは絶対的な力を持っていた。
    そして、元来流されやすい性格も相まってか、霊幻はずるずるとその遊びを続けてしまっている。
    それは男子生徒何人かで下品なふざけあいだった。
    最初は思春期特有のプライドで、くだらない事を競っていたのだが、やがて、男であっても女子より危うい魅力のある、同年代の男子がいることに気付いたのだ。男同士である分、羞恥心とプライドが良くない方向に働いた。
    今年入学した生徒の中で、白羽の矢がたった一人が霊幻だった。
    この学校は教室棟とは別に、もう一棟、校舎あった。そこの一階の奥まった所に、美術室関係の教室が密集していた。美術室を挟むように、美術準備室と美術倉庫がある。
    真ん中にある美術室と、隣にある準備室は教室内でも繋がっているので、直接の行き来ができる。しかし、一番奥の美術倉庫だけは独立していて廊下からしか入れない。鍵も簡単な物しかついておらず、現在でも比較的自由に出入りができて、人気の無い場所だった。霊幻たちはいつもその奥まった美術倉庫で如何わしい悪ふざけを続けていた。

    一通り稚拙で下品な遊びが終われば、霊幻は一刻も早く連中から離れたい。
    作り笑顔を浮かべた霊幻はなんでもないことのように振舞った。
    「俺が片付けておくんで、ここもう大丈夫ですよ」
    「え? まじかよ。サンキューな、霊幻」
    「じゃ、お疲れー」
    そう言って、口々に出て行く二人の生徒を見送った。
    ガラガラと引き戸が閉められると、霊幻は軽く舌打ちをする。
    「はぁ……くそ……」
    決定的な事はされていないものの、気持ち悪くてしょうがなかった。
    まだエアコンで暖まりきっていない部屋で、しばし、ぼんやりとする。
    いつまでこんな事を続けるのだろうと思う反面、下手に抵抗して学校というコミュニティからはじき出されてしまうのが恐ろしいのも事実だった。
    考えても一向に解決策が思い浮かばず、なにもかもどうで良くなって、緩慢な動作で動いてしまったものなどを調えていく。
    やっと部屋が暖まり始めた頃、霊幻は備え付けのエアコンのスイッチを切り、美術倉庫を後にした。






    冬枯れの木々が寒風に吹かれ揺れている。花曇りの空は柔らかな灰色で満たされている。昼休憩の後の退屈な授業。選択科目で複数のクラスの生徒が合同で集まっているおかげか、少し広い教室はざわざわと落ち着かない。
    「おい、注目しろよ。ほれほれ」
    パンパン、と手を叩いて、絵の具で汚れた白衣を着ているやる気の無さそうな教師が注目を促す。
    ざわざわとした美術室が幾分か落ち着き始め、霊幻はだるそうに顔を上げた。
    視線の先にいる教師は、あの入学式で一際目立っていた教師──強面の彼だった。

    当初、あの人相の悪い教員の彼――エクボの教える教科が美術だと判明した時、霊幻はおかしくて吹き出す寸前だった。
    あの顔であの体格で、よりにもよって美術とは。しかも適当に選んだ選択授業は美術だった。霊幻はてっきり体育か何かの教員だとばっかり思っていたのだが、あれだけ長身でしっかりしている体形をまるめ、ちまちまと筆を持って絵を描いている姿を想像しては、笑いが漏れていた。しかし、それを想像するのも、半年を過ぎればいい加減飽きてしまった。
    しかも、結婚をしているらしい。というのも、左手の薬指に、銀のシンプルな指輪がいつもしっかりと収まっているのだ。こんな人相の悪そうな人間と一緒になるのは、いったいどんな心の広い女性なのか。いや、クラスの女子が彼をカッコイイと言っていた気がする。背も高く、若すぎる事も、年配過ぎる事もない彼は、女子高生たちにとっては憧れの的だろう。
    しかし、そんなことは霊幻には関係ない。
    そして、今日もまた、退屈な授業が始まるのだった。

    「今日の…… っつーか、今日からやんのは、三学期終わりまでの課題だかんな。
    教科書出せー」
    そう言ってエクボは教科書を全員に見えるように掲げた。
    「この中から、自分の好きな絵を模写すんのが課題だ」
    課題の発表に、えーっ、と不満を漏らす者、既に興味深々で教科書をめくる者と様々だった。
    「好きな絵でいいからな。ボード配るから後ろに渡せよー」
    厚紙よりも丈夫そうな絵画用のボードをまとめて前の席の者に渡していく。
    ざわざわと落ち着かない教室内で、霊幻は興味の無さそうに頬杖をついて片手間にぺらりぺらり、と教科書のページをめくっていた。
    入学当初、彼はいったいどんな面白い授業をやるのだろう、と意気揚々と挑んだものの、すぐにその気持ちは萎んでしまった。
    というのも彼のする授業は平凡そのもの。特に熱心な様子もなく、やる気のないような態度を見せつつも無関心すぎる事もない。
    不真面目な生徒にはそれなりの評価。真面目な生徒には正当な評価。生徒にとっては実にまともな教師だった。すぐにそれに気付いた霊幻はきっと不真面目な生徒にされている事だろう。
    霊幻はあくびを噛み殺しながら、できるだけ面倒でないものがいい、などとページを捲っていると、一つの絵に目が留まった。
    それは、黒い背景に浮かびあがるように描かれた女性。いや、少女だろうか。じっと何かを訴えるように見つめる瞳、物言いたげな口元。教科書のページの四分の一もない大きさに印刷されたそれに、酷く引き付けられた。
    白い指先が教科書のつるりとした紙を撫でた。きっとそんな事は出来ないけれども、直に触れば筆のタッチが感じられそうだ、と考えているといきなり背後から声をかけられた。
    「お、霊幻。それにすんのか」
     生徒の様子を見に、席の合間を歩いていた件の美術教師だった。いきなりかけられた声に、霊幻はびくっと体を震わせて振り返る。
    「え、あ、いや……」
    「俺様もその絵けっこう好きなんだよな。難しいけど頑張れよ」
     そう言ってエクボは、ぽんぽんと霊幻の肩を叩き、また机の間を歩いていってしまった。思わず否定しそびれてしまって、溜息をつきながら机に開いた教科書にまた視線を落とす。
    紙面に印刷された絵画の彼女が何を訴えたいかは、わからなかった。





    「………先生。ぜんっぜん描けねぇ……」
    美術室の傷だらけの机につっぷして霊幻は、ぼそりと呟いた。
    時刻は午後四時過ぎ。黄昏の色混じりの光が、二人だけの美術室を穏やかに満たしている。
    描き始めた頃、窓の外で寒風に揺れていた枝は、ふっくらと芽吹き始めている。課題は三学期いっぱいということだったが、すでに期限はギリギリだった。
    美術教師の彼──エクボは苦笑混じりに、霊幻がつっぷした机の向かいに座った。
    「ははっ。まぁ、それを簡単に描かれても困る。悩めよ、少年」
    生徒の弱音にも、やる気の無さそうな美術教師はケラケラと楽しそうに笑いながら大きなマグカップのコーヒーを啜っている。
    霊幻は課題に納得いかずにいまだ絵が提出ができていなかった。放課後に美術室に残って模写をしているのだが、余計に迷走してしまったようでエクボに弱音を吐いたのだ。授業で出した課題は、模写の得手不得手を判断するだけでは決してない。事実、霊幻はよく頑張っている。エクボとしてはこのまま提出されてもいっこうに構わなかったのだが、霊幻自身がもっと描きたいと申し出たので、今に至っているにすぎない。
    「もう、提出したらどうだ。別に悪い出来じゃない。お前さんの頑張りはちゃんと評価してやるさ」
    「………うん」
     どうにも納得いかないような返事にエクボは少し苦笑をもらした。
    この課題以前の霊幻は、ここまで熱心に美術の授業に取り組む生徒ではなかった。どんな授業もそつなくこなすタイプの彼の心の琴線に、この模写という課題の、いったい何が響いたのかはわからない。しかし、ここまで悩み、足掻く生徒を助けないわけにはいかなかった。
    「………じゃあ、美術部入って、油彩でやるか」
    「……え?」
     思わぬ策を提示されて、霊幻は顔を上げた。
    「これは、元々、油彩の絵だしな」
    「……… 俺、絵の具とか持ってないけど……」
     霊幻は元々、美術に特別な感心を持っていたわけではない。学校で購入した以上の画材は当然、持っていなかった。
    「描きたいなら最初は道具貸してやるよ。続けたいなら買えばいい」
    「……油絵ってそんなすぐ描けるもんなの?」
    少し眉を顰めながら霊幻が怪しむ。絵をまったく描かない者からすれば、油彩は難しく思える事も多いので、仕方ないかもしれない。
    「まぁ、油彩自体はそんな難しくねぇよ。ちょっと絵の具が乾くのに時間はかかるがな」
     知らない物事に対しての興味は人一倍ある方だ。描いてみたくも思うが霊幻には少々気がかりな事があった。それは、隣の美術倉庫での出来事である。しかし、もしかしたら美術室にいれば、逆に彼らは避けてくれるかもしれない。
    「……難しくないなら、やってみたい」
    「よし。じゃ次までに入部届け用意しとくからよ」
     霊幻の心中など知りもしないであろうエクボはニッと笑った。
    純粋ではない動機が混じる事に、少々申し訳なく思いつつも、帰宅部の霊幻は美術部に入る事になったのだった。



    広い美術室内が、油絵具とオイルの匂いが混じった、独特の香りに満たされている。その広い空間で、ぽつんと一人の生徒がキャンバスに向かっていた。彼は鮮やかな碧い絵の具を少量のオイルで溶いて、パレットからキャンバスに乗せた。
    「お、出来てきたな。いいじゃねぇか」
     後ろからエクボが覗き込んで、感心したように声を上げた。
    「まぁ、だいぶ先生に教えてもらってだけど」
     世辞も混じっているとはわかりつつも、褒められて悪い気はしない。霊幻は少し照れくさそうに笑った。
    「ああ、そういえば前に話した映画、見たか?」
    「うん……これって、ああゆう絵なの?」
    「まぁ、あれは絵画をテーマにしたフィクションだからな。結局、どういう関係かはわかってねぇんだよ」
     エクボに先日教えられたのは、今、模写をしている絵画が大元となった映画だった。せっかく模写をするし、と思って見てみた映画は、高校生の彼には少々難しい物だったが、流石に絵画が元となっているだけあって、とても美しい映画だった。
    「絵画に対してはな、色んな解釈があるんだよ。創作を知っておくだけでも得るモンはあるからな」
    エクボからは映画も強く勧められたわけではなかった。興味があるなら見てみたらいい、というくらい軽いものだったのだ。ネットで検索すればプロモーション用の画像が出てきてそれに引かれたから見た、というだけだった。
    ただ、映画を見て気付いた事があった。
    知らないことを、知っていくということは、実は恐ろしく、また、それとは裏腹に、とても甘美なものであるのはないかということだった。
    知らなかった頃には、戻れない。
    きっと、あの映画に対してこんな感想を持つなんて、自分だけだろうな、などと考えながら、霊幻はまた、絵筆を握った。



    初夏を迎える頃に、霊幻は模写を完成させた。といっても決して完成度が高いものでは無かったが、霊幻は他の絵を描いてみたくなったのだ。
    引き続き描いたのはやはり油彩画だった。そう高価な物ではないが、油彩の道具も一式買い揃えた。油絵の具は最初にエクボが言った通り乾くのに時間がかかる。
    一階の美術室の大きな窓から見える木々は、季節の移り変わりがよくわかった。
    顧問のエクボといえば、たいがいは隣の美術準備室にいた。ただ、霊幻が絵を描いている時は必ず一度は出てきて、何某か話をしてまた戻っていった。
    エクボから教えられたのは油彩を描く上での手順や手法だったがそれも模写をしていた最初のみだった。他は霊幻から助言を求めない限り、アドバイス的なものも無い。その求められたアドバイスも必要最低限で、霊幻の発想や手法に口を出さないよう勤めているようだった。今、話すのは雑談ばかりが主だ。
    エクボは、たまにマグカップにコーヒーを入れて持ってきてくれる事もあった。他の生徒には内緒な、と笑う顔は、授業では見ることのない顔だった。
    最初に煎れてもらったのはブラックで、霊幻は慣れないそれをチビチビと飲んでいたのだが、次に差し入れてくれたコーヒーには、ミルクと砂糖が入っていた。何だか子ども扱いされたようで少し悔しかったが、ミルクと砂糖の入ったコーヒーは美味かった。
    少しづつ、少しづつ時間をかけて、霊幻は絵筆を持つこと、美術室にいることに馴染んでいった。



    今日も霊幻は、美術室の空いたスペースにイーゼルを立てて、描きかけのキャンバスを置く。筆を準備し、オイル壺の蓋を開ければ特有の匂いが立ち上がる。折りたたみのパレットを広げて、あらかたの準備はできた。制服が汚れないよう、エクボにエプロンを借りている。霊幻はいつもエクボのいる美術準備室に顔を出した。
    「先生、エプロン借りたいんだけど……」
    「おう。わかった。ちょっと待てな」
     美術準備室に顔を出した霊幻を見てエクボは立ち上がる。手には絵筆が握られていて、机の上には絵の具とスケッチブックが置いてあり、どうやら何か、描いていたらしかった。
    「あ、なんか描いてたなら、場所教えてもらえたら……」
     邪魔をしてしまったろうか、と遠慮がちに口を開いた霊幻に、大丈夫だ、と言いつつエクボは絵筆を水入れに突っ込んだ。
    机に置いてあるスケッチブックには、鉛筆で描かれた線に、絵の具で着彩がしてある。どうやら窓の外に植えられた青々とした木々がある。それを描いていたらしい。
    絵を描かない霊幻でも、一目でそれが上手いという事がわかる絵だった。鉛筆線も乗せられた絵の具も、さらりとしたタッチであまり描き込まれたようにも見えないが複雑な色が乗せられ、妙に艶のある絵だった。
    「……やっぱ先生だから上手いよな。プロの画家みたいだ」
     それを聞いていたエクボが予想外の言葉を吐いた。
    「いや、俺様の本職は画家だが」
     後ろを向いたまま、何でもないことのように言うエクボに霊幻は目を剥いた。
    「えぇ!? じゃあ何でこんなとこにいんだよ」
     この高校自体、美術などの分野にはまったく力を入れていない。美術部など所属人数も少ないし、実質帰宅部のようなものだった。その証拠に現在、美術室に残っているのは霊幻だけだ。
    「んんー…… まぁ、この仕事も知り合いの伝でな。安定してるし教員免許も持ってたし、ここをアトリエ代わりに使わしてもらってるしよ」
     『安定している』という芸術家らしからぬ物言いに、霊幻は妙に彼らしいな、と納得してしまった。美術が盛んでもないのに、関係する教室以外の別室が二つもある謎が解けた。
    「人を教えるってのにも、興味あったしな」
    ニヤリと笑う顔が、悪戯をする子供のような顔だった。初めて見るその表情があまりにも意外で思わず口をついて出たのは随分と失礼な言葉だった。
    「………変なの」
    出てしまった言葉に、マズイ、と口元を押さえたものの、エクボはそれを気にした様子もなく、笑っている。
    「ははっ。俺様もそう思う」
    そう笑いながら、エクボは少し絵の具汚れのついたエプロンを差し出した。
    美術部に入って、霊幻は少しエクボの事を知ることができた。
    授業ではあまり見たことのない笑顔が子供っぽいこと。
    強面の顔に反して、意外に声が柔らかいこと。
    やる気のなかった美術部に入部して気付くことができた事は、霊幻の退屈な高校生活に少しだけ、意義をもたらしたような気がした。


    「なぁ、霊幻。今日の放課後、空いてんだろ?」
    ぽん、と肩を叩かれてかけられた言葉に霊幻は内心うんざりと溜息をついた。
    かろうじて疑問符がついているものの、それは有無を言わせないような内容だからだ。霊幻は勤めて冷静に振り返り、形だけの申し訳なさを滲ませた。
    「すみません、俺、これから部活なんです」
    「あれ? お前部活なんか入ってた?」
     意外そうな声に、霊幻はにっこりと余所行きの笑顔を作る。
    「はい。この間から。じゃ、失礼します」
    「……っおい! お前最近付き合い悪いぞ!」
    追っては来ないものの、文句を投げかける輩に内心舌を出しつつ、すみませーん、と気のない返事をして、霊幻は今度こそ嘆息を吐いた。
    もう、あんなくだらない遊びに付き合いたくはない。思わぬ事で美術部に入ることになったのだが、断る理由ができた事は霊幻にとっては大きかった。
    ただ、完全に断りきる事は難しく、半分、脅しめいた事を言われ、月に一度は付き合わされた。そろそろ終わりにしたいが相談できる相手もいない。
    そう思った時、一人の教師の顔が思い浮かんだ。あの強面の美術教師だ。
    しかし、霊幻は頭を振ってその考えを振り払った。解決するために手を貸してもらうには、経緯を話さねばならない。それだけは絶対にしたくない。
    霊幻は学生カバンを抱えると、逃げるようにして美術室に向かった。



    今日、エクボは珍しく準備室にこもらずに、霊幻の絵筆を持つ後ろ姿を、大きなマグカップを持ちながらじっとそれを見ていた。行儀悪く机の上に座っているがそれも慣れたもので猫背のまま、時折、ズズッとコーヒーを啜っては、霊幻とぽつぽつと他愛のない話をしていた。
    エクボの口から、霊幻の予想外の話題が飛び出したのは、外の太陽が黄昏混じりになろうか、という時だった。
    「……ああ。そういやお前さ、三年とかと倉庫に入って、なんかやってんだろ」
    エクボの言葉に霊幻は文字通り心臓が跳ねた。ぶわりと冷や汗が吹き出す。
    まだ、まだ全てがバレている訳ではない、と自分に言い聞かせたが残念ながらその望みは無残に打ち砕かれた。
    「……まぁ、お前らがお互いにちゃんとわかってんなら、口を出すような野暮はしねぇよ」
    教師にしたらあるまじき発言だったが、霊幻はそれどころではなかった。
    そもそも、いくら美術室を隔てているとはいえ、管理担当の教師が気付かないはずは無い、ということを失念していた。それを、あろうことかエクボに知られてしまっていた事に、酷い恐怖を覚えた。停学や退学の文字が頭の中をぐるぐると回る。
    「………… わかってる、に…… 決まってんじゃん……」
     ドクドクと鳴り止まない心臓に叱咤しつつ、迷った末の返事を返す。あれを知られてしまっている以上、余計な詮索をされないためには、そう答える事しか思いつかなかった。
    声は震えていなかったろうか。変に上ずった声ではなかったろうか。
    俯いたまま、濁った思考がぐるぐると脳内を駆け巡っている。そんな霊幻の内心を知ってか知らずか、エクボはずずっとコーヒーを啜った。
    「ま、なんかあったらちゃんと言えよ。俺様も一応、教師の端くれだからよ」
    そう言うとぽんっと軽く肩を叩いて、霊幻の側を離れていった。
    あの事を相談する、最後のチャンスだったかもしれない。
    それにやっと気付いたが、もう後の祭りだった。
    霊幻は千載一遇のチャンスを逃してしまった。
    次第に落ち着ついていく鼓動とは裏腹に、胸中は鉛を飲んだように重い物がいつまでも残ったままだった。

     エクボに例の件を聞かれてから、霊幻はしばらくは足を遠ざけようとしたのだが、代わりにまたあの遊びに誘われる機会が増えてしまった。結局はまた美術室に入り浸る生活に舞い戻ってしまった。
    エクボがその事を聞いてきたのは、その一度きり。その話題がエクボから出ることは二度となかった。







    夏の暑さがすっかり緩んだ初秋。相変わらず入り浸っている美術室来た霊幻は、いつもの通り準備室の顔を出すと描きかけの絵画に目を止めた。
    「先生が今、描いてる絵って、それ?」
    「ん? ああそうだな」
    イーゼルに置かれたそれは静物画のようだった。目の前のテーブルには暗い赤色の布が敷かれ、花瓶と、小さな果物がいくつか置かれている。キャンバスにはそれが暗めの色彩で描かれていた。窓から差し込む光がまだ描きこまれていないので全体にまだのっぺりとした印象だ。ここからいったいエクボがどう描き込んでいくのか、霊幻には酷く興味が湧いた。
    「……どうした?」
    「…………俺もさ、同じもの描いていい?」
     言ってしまってから、もしかしたらよくなかったかもしれない、とエクボを見ると、そんなに気にもとめていなさそうな様子だった。
    「ああ、まぁいいぜ。まったく一緒のものは貸せねぇけど、たしか美術室に同じようなのあったろ。それ使いな」
    その言葉に、霊幻はほっと胸を撫でおろした。もう、今描いている絵も完成が近い。次の絵の構想が決まって、すでに描いている絵がおろそかになってしまいそうなのをぐっとこらえる。ならさっさと完成させてしまおう、と美術室に戻ろうとした霊幻が、急に足を止めた。
    「………あ、先生……」
    「……ん? どうした?」
    「あのこと……なん、だけど……」
    俯いた顔を上げて、向き直ったエクボの顔を見た瞬間、言おうとした言葉が喉につっかえたように詰まってしまった。
    「いや、なんでもない………準備してくる」
    そう言って霊幻は、今度こそ振り向かず、小走りで美術室に戻っていった。
    なんでも言え、と言われたが、実際自分からそれを言い出すのは酷い恐怖だった。全貌を話さなければならないのは必至だろう。自身の知られたくない傷を暴かれる恐怖と痛みを想像するとどうしてもそれができなかった。
    考えてみれば、美術部に入ったおかげであんなことをする回数も減らせたのだ。何も、自分から問題を大きくすることはない。そう、自らに言い聞かせて、キャンバスの立てかけてあるイーゼルに向かった。


    「……あれ? 同じようなの、無いな……」
    霊幻は美術室の後ろにある壁際にある棚の中をごそごそと探しまわる。
    描いていた絵を完成させた霊幻は、あの静物画を描こうと、絵のモデル用のレプリカを漁っていた。紅い布と造花、小さな桃はあったものの、もう一つが見つからない。
    「あー…… あっちかな……」
    霊幻はうんざりと天を仰いだ。
    例の美術倉庫。嫌々ではあるが、よく出入りはしていたので、なにが置いてあるのかは、多少わかっている。たしか、絵を描く用のレプリカの入ったダンボールもいくつか見かけた。
    まぁ取りにいくだけだし、と霊幻は漁った物入れを片付けて隣の倉庫へ向かう。それが、事態を動かす事になるとも知らずに。


    「っはぁ……もう、本当に最後にしてくれるんですか……」
    いつもの上級生に後ろから押さえ込まれて悔しげに呟いた。
    霊幻が物を探しに倉庫に入ったとたん、ドンと背中を押されて木製の床に倒れこんでしまった。気付いた時には一つしかない引き戸の古びた鍵を閉められ、二人の男子生徒が悠然と立っていた。
     もう、こんなことはしたくない、と言ったものの、これで最後にしようと結局は押し切られ、いつもの流れになってしまった。
    明らかに不貞腐れた霊幻の質問に、答える気のない口元が歪んだ笑みを浮かべる。
    「………霊幻さぁ……」
    男子生徒が、霊幻の名を呼び、ゴクリと喉を鳴らした。
    「………な、ん…すか……」
    「……お前さ、ほんとは色々期待してんじゃねぇの?」
     そう指摘されて、霊幻は色素の薄い目を見開いた。
    「は…? んなことあるわけ……」
    その台詞にギリッと睨み付けた。いったいどういう思考回路なのか、だから女にもモテないんだろうが、と吐き捨ててやりたかった。
    「お前さぁ。最近、美術室ばっか行ってんじゃん。もしかしたら、あの先公とそういう関係なんじゃねぇの?」
    「!? そんなわけ……っ」
    その言葉に霊幻は激昂したように相手を睨む。目の前にいる彼らに、自分の大事にしている物を汚されたような気になったのだ。
    しかし上級生は怯んだ様子もなく霊幻を押さえ込む。もう一人の生徒が腕を掴んで、大きなテーブルに縫いとめた。
    「………っや、いやだ……」
    二人の生徒に押さえ込まれ、怒りが一気に恐怖に変わる。その恐怖は脳にこびりついて、抵抗する力を鈍らせた。
    見下ろしている男子生徒が、歪に口角を上げたその時、バキンッと金属の折れたような音が室内に響いた。
    直後に古びた引き戸が、壊れそうな程に激しい音を立てて開かれた。廊下には、その引き戸を開けたであろう人物が立っている。
    それはこの倉庫の管理者――美術教師のエクボだった。
    突然の乱入者に二人の男子生徒はそこかかしこに身体をぶつけてて後ずさる。霊幻は入ってきた人物を呆然としながら見ていた。
    「…………いい加減にしろよ、クソガキども」
    上級生二人に、地を這うような声が降りかかる。それを聞いて二人は縮み上がった。
    開いた扉からの逆光で、表情が見えないのが余計に恐ろしい。
    「っあ、ぅ…こ、これは……」
    「グダグダ言ってんじゃねぇぞ。
    てめぇらがやってることを、知らねぇ俺様だとでも思ってんのか」
    彼らは愚かにも、浅はかな言い訳を口に上らせようとしてしまった。しかし、そんなものが通じる相手ではない。教師とは思えぬ物騒な声色に、後ずさった二人は蒼白になった。言い逃れる言葉も見つからずただ、ただ頭が真っ白になる。
    今更、後悔をしても、もう遅い。
    彼らはやっと知る事になる。性質の悪い遊びの代償は、あまりに大きかった。


    霊幻は、エクボの何時も居る美術準備室の丸椅子に座って、じっと湯気の立つマグカップを握っている。そこに、エクボが一人で戻ってきた。
    「………大丈夫か……?」
     そう言った後に、我ながら酷なことを聞いてしまったと気付いた。
    「なわけなぇか……」
     じっと動かない霊幻に、先程と同じ人物とは思えないほど、柔らかな声がかけられる。
    「隣いいか……?」
    霊幻は沈黙したままだったが、小さく頷いた。それを見てガタリ、と背もたれのない椅子を寄せて隣に座る。霊幻はじっと、両手で持ったマグカップを見つめたままだった。
    「もうちょっと早く、気付いてやれりゃよかったな……」
     その言葉に霊幻は緩く頭を振った。事を言うチャンスはあったのだ。そのチャンスをふいにしたのは自身だという自覚があった。
    「…………俺も……悪いんで……」
     か細い声で、ぽつぽつと話す背中が痛ましかった。教師であってもこんな時に気のきいた慰めの言葉も見つからない。
    「…そんなわけねぇだろ……あんま、我慢すんな…」
    少し迷いながらも薄い肩に手を置いた。抵抗はされなかったので、肩を抱くように引き寄せて、大きな手で慰めるように擦ってやった。そのじんわりと温かい手の感触に、薄い色素の瞳からぽろっと一粒涙が零れると、堰を切ったように嗚咽が漏れ出した。
    「……………っふ……ぅ……」
     霊幻の胸に、押しつぶされそうな感情が押し寄せた。
    包まれる腕の温かさと優しさに、恐怖と安堵がない交ぜになったものが溢れてしまった。柔らかな色の髪をエクボの肩口に押し付ける。霊幻を守るように抱いた手が、労わるように擦ってくれるのが、まだ心の奥底に凝った恐怖を溶かしてくれるようだった。
    準備室が茜色の光に満たされるまで、エクボは飽きることなく、霊幻の肩を慰めるように撫で続けていた。




    あの一件から二週間あまり。事件から、霊幻は何日か学校を休んだ。学校での処理はエクボがしてくれたらしい。休んだ後に学校に行くのは勇気がいったが、エクボの、いつでも美術室に来ていい、という言葉が大きかった。
    霊幻は空いた時間は、逃げるように美術室に入り浸っている。件の生徒には避けられてはいるものの、霊幻の生活は至極穏やかなものになった。
    問題の二人の生徒を処分するには、事の詳細を明らかにするしかない。しかし、それは返って霊幻を苦しめる結果にもなりかねなかった。
    エクボは、彼らをどうしたいか、かなり気遣いつつ霊幻に話を聞いた。結論は誰にも話さないのであれば公にはしない、ということで決着はついた。
    エクボは、教師として、それが間違った行動であるということは重々承知している。本来ならば全てを学校に報告して、関係していた生徒には然るべき処分を与えるのが妥当だろう。
    しかし、それが霊幻に及ばない保障もなく、公になり好機の目に晒されないとも限らない。何より霊幻がそう望んだことだった。
    もしかしたら登校したらおかしな目で見られるかもしれない、と覚悟していたが、意外なことにそれも無かった。エクボから、彼らには何も話さないと確約はとった、と聞いてはいたものの、学校という狭いコミュニティの中での出来事だったので、霊幻は多少の噂は覚悟していたのだ。
    件の生徒たちは、廊下でエクボと擦れ違う度に酷い怯え方をしていたので、いったいどんな叱られ方をしたのかはわからない。霊幻とすれ違う時ですら小走りになる程だったので、相当に酷い叱られ方をしたのだろう。
    エクボは問題の生徒たちに、今回の事を口外しないよう、よくよく言い含めた。ただ、その方法は少々荒っぽいものであったが、それを霊幻が知ることは最後までなかった。



    放課後、いつもの美術室に顔を出した霊幻を、エクボは何時も何事も無かったかのように迎えてくれた。それが霊幻には何より嬉しかった。
    ただ、その日の帰り際はいつもと少し違った事があった。
    霊幻は帰り際、エクボに呼び止められた。
    「霊幻。お前さん、週末空いてるか?」
    「……? 空いてるけど……」
    週末に何かあったろうか、と不思議そうな顔をする霊幻に、エクボは何か悪巧みをしているような笑顔を向けた。
    「先生と一緒に、いいとこ行こうか。霊幻」


    大きなロータリーのある駅前にある時計の下で、霊幻はパカンと携帯を開けて連絡がないかを確認する。時刻は午前十時五十分。少し早く来すぎたか、と考えていると、ファンっとクラクションが鳴った。そちらを見ると、少しコンパクトな車に待ち合わせの人物が乗っていた。
    「待たせたな、霊幻」
    小走りに近づいた車はあまり見ない車種で、色が鮮やかな若草色だった。近づくといっそうコンパクトな車なのだとわかった。ナンバープレートの上についている、赤いロゴのエンブレムが若草色の車体とよく合っている。助手席に座るよう促され、ドアを開けた。流石に窮屈そう、とまではいかないが、体格のいいエクボには少々可愛い印象の車だったのが霊幻には意外だった。
    カチッと霊幻がシートベルトを締めたのを確認すると、エクボはシフトレバーを握った。ゆっくりと発進してロータリーを走る間、霊幻は今乗っている、見たことのある車が何処で見たのか思い出そうとしていた。
    「………これさ、先生の車?」
    「ああ、そうだ。あんま物にはこだわんねぇんだが、どうしても、これだけは欲しくってなぁ」
    エクボは機嫌が良さそうに、窓から流れてくる風に前髪を遊ばせている。それを見ながら、あっ、と霊幻は思い出した。
    随分前のアニメの主人公達が乗っていた車だ。小型の丸いフォルムとは裏腹に、華麗なカーチェイスが印象的だったのをよく憶えている。
    「この車って、もしかして……」
    「ははっ、よくわかったな。ご名答」
     霊幻の意図を汲み取ったらしく、エクボは晴れやかに笑った。
    「まぁ、まったく同じ車は手に入らなくてよ。後継車種だがな。色はこれが欲しかったんだが、無くってなぁ。わざわざ塗装に出しちまったよ」
    珍しく流暢にしゃべりながら、慣れた手つきでハンドルを握るエクボの、教師以外の顔に少しドキリとする。
    「こんなしょっぺぇオヤジとのデートだが、今日一日、我慢してくれや」
    そうは言いつつも、今日の服装もグレーのVネックのシャツにブラックジーンズで、学校にいる時よりは若く見える。どこか楽しそうなその横顔に、霊幻も楽しみと緊張で胸が高鳴った。
    軽快に吹き込む風を楽しみながら、霊幻は外の流れる景色を見つめていた。

    車で一時間ほど走って到着したのは大きなショッピングモール。エクボに連れられて真っ直ぐに向かったのは、中に入っている大型のシネコンだった。受付前のロビーには様々な映画のポスターが立ててある。
    「お前さんは、何、見たい?」
    「……ぇ!?」
    突然連れてこられた上に映画館で何が見たいか、と問われてさすがに面食らう。キョロキョロとポスターを見回すとテレビのCMで見かけた、気になる映画を発見した。
    「……あれ」
     指差したのは、超能力を使って世界を救う、といったアクションものだった。
    「よし、わかった。じゃ、俺様のアイスコーヒー買ってきてくれるか? お前さんも好きな飲み物も買っていいからよ」
    そう言ってエクボは札を渡すと、さっと受付に行ってしまう。霊幻が二人分の飲み物を買っている間にエクボはチケットの用意ができたらしい。
    「先生、あの、これ……」
    「ん?」
     飲み物と一緒に霊幻が渡そうとしたのは、映画のチケット代だった。
    「なぁにしてんだ。俺様が連れてきたんだからいいんだよ、お前さんは」
    「でも……」
     確かに連れてこられたが、そうは言っても霊幻が見たいと言った作品だ。どうしようと、少し途方にくれたような表情に少し苦笑すると、エクボはぐしゃぐしゃと霊幻の髪を掻き回す様に撫でた。
    「うわわわわっ、こぼれる、こぼれるっ」
     あまりに激しく撫でられたために、持っていたドリンクを零さないよう霊幻がその大きな手から逃げた。
    「なにすんだ、もうっ!」
    「ったく。いいんだよ、高校生は大人しく甘えてろ」
    そう言って笑う顔が眩しい。
    霊幻にはわかっている。エクボはあの一件を忘れさせようと、今日、霊幻を誘ったのだ。それがたとえ、一教師の義務感からの行動であったとしても、嬉しかった。
    自分が、彼にとって特別な何かになれたようで。
    ぐしゃぐしゃの頭のまま、霊幻は頭を下げる。その優しさに、胸の中がじんわりと温かくなるのを感じていた。


    座席は少し端ではあるものの、前過ぎず後ろ過ぎず、ちょうど良い場所だった。二人で上映時間まで仲良く座っていると、ふっと照明が落ちる。
    その時、微かに鼻腔を擽る香りがあった。映画館特有の座席の匂いではない。その香りの主が、隣に座るよく知る人物からであると、すぐに気付いた。いつもの油絵具の匂いではない、少し甘く渋みのある香りだった。恐らく、香水か何かを付けているのだろう。それに酷く胸が高鳴った。
    そっと隣を見ると、スクリーンからの光に端正な横顔が浮かび上がる。
    いつものエプロンでもくたびれた白衣でもない。油絵具の匂いもしない。
    今、教師ではない、一人の男性としてのエクボと、一緒にいる。
    その事実にかっと顔面が熱くなった。頬の熱さは上映前の予告が終わるまで収まることは無かった。

    映画が始まると直前の感情は、すぐに興奮に押し出されてしまった。
    上映時間はあっという間に過ぎ去って、エンディングまでをしっかり見た二人は興奮ぎみにショッピングモール内のレストラン街に向かう。
    二人で入ったのは霊幻には少し高めのハンバーガーショップだった。どれも千円を越えるものばかりで、高校生がファーストフードにかけるにしては少し戸惑う金額だ。けれど、エクボは好きなものを頼めよ、さらり念を押してきた。少し迷ったものの、ここで悩んでも仕方がない、とたっぷりチーズの入ったトルネードチーズバーガーなるものを頼んだ。
    出てきたバーガーは食べ方がわからないほど具材が挟まれていて、ポテトにピクルスまで添えられている。大口をあけてガブリと噛みつきながら頬張っていると、目の前に座っているエクボと目が合って、何故だか爆笑された。なんだろう、と思っていると、口の周りにソースやらパンくずやらが子供みたいについている、と指摘され、腹を抱えて笑われた。
    あまりに笑われるのが悔しくて、霊幻は食べ終わった後も、口元を一切拭かなかった。しかも、店を出る時までそのまま出ようとするので、エクボが根負けしたように、自分が悪かったから口元を拭いてくれ、と紙ナプキンを差し出した。
    その間も、ふざけあっては笑って過ごすのが楽しい。
    霊幻は、ここ最近では感じたことが無いほどはしゃいでいた。
    ああ、今日が終わってほしくないな、などと考えて、思った以上に女々しい自分に気付く。そんな感情を認めたくない反面、ただ思うだけは自由だろう、と霊幻はその思いを、そっと胸中にしまい込むのだった。


    遅めの昼食も食べ終わり、さらに一時間ほどかけて二人は海沿いの道路を走っていった。やがて少し小さな砂浜にたどり着く。夏の終わった人気のない海岸で、少し湿り気を帯びた潮風が、さらりと前髪をさらっていく。
    「人がいないから、気持ちいいな」
    防潮堤沿いの道路に車を止めて、二人は車を降りた。霊幻はコンクリートの防潮堤の上に腰かけて黄昏色の空を眺めた。
    映画館のあった施設の喧騒とはうってかわって、浜辺は人っこ一人いない。おそらく、シーズンには賑わっていたであろう小さな海の家も閉まっていて、浜辺には寂しげな風が砂浜を撫でているだけだった。
    古ぼけた自販機からエクボは缶コーヒーを買ってきて霊幻に差し出した。エクボはブラック、霊幻のはカフェオレだった。いつもされていることだが、何だか今日は、特別に悔しかった。
    「……ブラックって、やっぱ旨い? 先生」
    「……飲むか?」
    それに気付いた様子のエクボは、少し苦笑して自身のブラックを差し出した。それにぱっと顔を輝かせた霊幻を、エクボは少しニヤニヤしながら見守っている。パキッとプルタブを開けて、ゴクゴク二口ほど飲んだ所で、霊幻の形のいい眉が盛大にしかめられた。
    「ははっ。そんなゴクゴク飲むもんじゃねぇだろ」
    エクボはカフェオレの缶を開けてやって差し出す。霊幻は少し悔しそうに受け取ってそれをあおる。缶コーヒーだからなのか、ちっとも美味しいとは感じなかった。
    「やっぱさ、ブラックとかは大人になったら、美味しくなるんだろうな」
    きっと飲み慣れていないせいもあるのだろうが、やはりコーヒーを嗜むのは大人という印象が、霊幻にはある。その言葉にエクボは飲みかけのブラックを一口飲んで少し遠くを見た。
    「……さぁ、どうだろうな」
    意外な答えに、霊幻は驚いた。
    好んでいないのなら、何故飲んでいるのだろうか。
    「美味しくないのに、飲むもんなの?」
    不思議そうに聞く霊幻に、ニヤリと笑いながらエクボは答えた。
    「……大人のふりをしたいから、かな」
     禅問答のような答えに、また霊幻の眉間にいぶかしげな皺がよる。
    「………先生は、大人だろ」
     霊幻からしたら、エクボは至極落ちついた大人に見える。彼が大人でないのなら、いったいどんな人物が大人だと言うのか。
    「まぁ、お前さんよりは長く生きてるが、大人かどうかと聞かれりゃあ、疑問だな」
    そう言ってエクボは少し自嘲ぎみな笑みを零した。こんなに落ち着いて見える彼であっても、大人である事を煩わしいと思う瞬間があるのだろうか。
    ブラックのコーヒーを持つ薬指に、銀の指輪が夕日を受けながら穏やかに光っている。
    「………そういや先生、子供いんの?」
    「いや、なんでだ?」
    それ、と指差した指輪に、ああ、とエクボは声を上げた。
    「これか。まぁ、できる予定もねぇよ」
     そうは言っても相手はいるのだ。その事実にちくりと胸が痛んだ。
    「……いいのかよ、先生……せっかくの休みなのに、こんな生徒の世話ばっかり焼いてて。待ってる人が泣くよ」
    思わず少し嫉妬めいた事を言ってしまって、はっと気付いた時には、ニヤニヤと人の悪い笑みが視界に飛び込んできた。
    「なんだ。ヤキモチみたいな、可愛いこと言いやがって」
    「はぁ!? なに言ってんだよ、先生がさっきデートとか言うからだろ!」
    変にノッておかしな事を言い出した教師の肩をバシッと叩いた。エクボはそんなことは気にせずに笑っている。ひとしきり笑ってから、ふっと何かを思い出したように金色に光る地平線へ、緩んだ視線を投げた。
    「ああ、でも、そうだな…… 待ってる奴は、いるかな」
    霊幻にはそれが愛しい者に向ける視線に、他ならないように見えた。
    その優しげな黒い瞳を向けられるのは、いったい誰なのだろう。
    どうしたら、その視線を向けられる事ができるのだろう。

    ………羨ましい。

    霊幻はとうとう、気付きたくない感情に、気付いてしまった
    ――ああ、そうか。 俺は先生が、好きなんだ。
    夕日に照らされる横顔から、思わず顔を背けた。
    ただ肘がほんのわずか触れ合っているだけで、胸は酷く高鳴っている。
    決して始まることはないのだと、始めてはならないのだと、わかっている。あの絵筆を握る、武骨な指に修まった指輪がそれを証明している。
     彼には待ち人が、自分ではない愛しい人が、居るのだから。
    「………どうした?」
    「……なんでもないよ、先生」
     笑った顔は、我ながらよくできた笑顔だと感心してしまう。
     こんな時に、嘘が上手くて助かった。
     びゅうっと強い風が、二人の間を分かつようにすり抜けていく。
    「おお、寒みっ。やっぱ海沿いは冷えんな…… よし、そろそろ戻るか」
    「……うん」
     すぐ側の車に戻り、来た時と同じ助手席に座る。霊幻がシートベルトをしたのを確認して、また車は、ゆっくりと走り出した。
     霊幻の中にはもう、今朝のような胸の高鳴りは無かった。
     エクボはただ、傷ついた生徒を慰めるために、今日を過ごしてくれたのだ。霊幻に恋情があってのことではない。わかってはいるが、うっかりすると泣き出してしまいそうで、霊幻は目を閉じて寝たふりをした。
     これからまた、美術教師と美術部員という日常に戻る。
    その日常に戻るために、この想いだけは、絶対に悟られてはならない。
     霊幻はそのまま、地平線に沈む夕日を見ることはなかった。



    「は? 秋の展覧会に出す?」
    珍しく頓狂な声を上げて、いつもの準備室で、エクボは座っている椅子を回した。
    「……うん、最近、美術部らしいこと、そんなできてないし……」
    事務机に座ったエクボは、訝しそうに眉を上げた。ギッと椅子に沈み込んで少し考える仕草をする。
    「つってもなぁ…… 展覧会まであと一ヶ月もねぇぞ。できんのか?」
    「…………」
    そう聞かれてはっと口をつぐんだ。確かに、油彩は時間がかかる。完成できるかは怪しい。
    ただ、霊幻はエクボに目をかけてもらって、美術室に入り浸る理由が欲しかった。邪な理由でエクボを拘束してしまうのが酷く卑怯に思えたが、それ以外に方法が思い付かなかったのだ。
    「……描くモンは決まってんのか」
    「あれ……の続き……」
     そう言って指差したのは、例の描きかけの静物画だった。まだ、木炭でとった下描きが見えるほどにしか絵の具がのっていない。やはり難しいか、と顔を上げた霊幻に飛び込んできたのは、立ち上げるエクボの姿だった。
    「よし。そこまで決まってんなら、もう今日から、続きを描き始めちまおう」
    「……え?」
     予想外の言葉に霊幻は大きく目を見開いた。
    「……描いて、いいの?」
    「描きたいって言ってる奴を、止める理由はねぇからな」
     それを聞いて霊幻は、ああこういう教師だった、と思い出した。生徒がしたいと思ったことを、簡単に否定するような人物ではないのだ。
    面倒くさがりのようで実は面倒見がいい。凶悪そうに見えて、実は優しい。
    だから、霊幻は好きになった。しかし、その想いを告げる事は叶わない。
    ならば、諦める区切りが欲しかった。それに利用したのが展覧会なだけ。
    そんな動機で絵を描くのは申し訳ない限りだったが、今は少しでも側にいたい。霊幻は白衣を翻して美術室に向かうエクボの背中を追った。


    その日から、エクボは暇さえあれば霊幻の絵画の様子を見に来て、進み具合はどうだ、と聞いてきていた。
    エクボと描いているのはほぼ同じ絵だったが、それに気を使ってかエクボの描きかけの絵は頑なに見せなかった。ただ、アドバイスを求めれば丁寧に答えてくれるし、距離も近い。霊幻は度々アドバイスを求めるようになっていった。
    「先生。影が、上手くいかないんだけど……」
    すでに、だいぶ厚くなった絵の具の層と格闘しながら、エクボに助け舟を求めた。霊幻が悩んでいるのはどうしてものっぺりとしてしまう影の部分だった。オイルで溶いた絵の具を筆で重ねていくが、どうにもぼんやりとして立体感が出ない。
    「ああ、影はな、もっと思い切って絵の具を置いて大丈夫だぜ」
    それを聞いて、霊幻は緩く溶いた絵の具にさらに色を足す。しかし、少量ずつのため今一つ濃くならない。何度もキャンバスの絵の具を拭きながら繰り返し描き込んでいる霊幻を、エクボはしばらく眺めていたが、霊幻がイラつき始めたのがわかると、少し苦笑して立ち上がった。
    「ちょっと、これ貸りるな」
    そう言ってエクボは、道具箱の中から小さめのペインティングナイフを手に取った。そして、そのナイフでパレットに出された黒を取る。それに茶と赤を混ぜて、さらに少量のオイルで練っていく。
    「……ん」
    エクボは、その絵の具がついたナイフを霊幻に持つよう促した。思いの他、重く濃い絵の具の色に戸惑いながらもそれを握ると、その白い指を覆うように大きな手が添えられた。
    「……っ」
    「はは、悪りぃな。ちっと我慢してくれ」
    エクボはそう言って笑いながら、霊幻の手を誘導していく。手を持たれているので普段よりも一層、声が近い。思わぬ僥倖に、霊幻の胸の動悸が激しくなるばかりだった。そんなことなど構わずに、エクボは説明をしながら、霊幻の手を動かしていく。
    「これくらい、絵の具を置いてな。こうやって、ナイフで量を調節しながら、動かすんだ」
     されるがままに手を動かされて、霊幻は絵を描くどころでは無い心境だったが、エクボが影を描き込んでいくそれを見て、驚愕した。
    たった数回、ペインティングナイフでキャンバスを撫でただけ。なのに、霊幻には絵画の中に、唐突に光が出現したようにしか見えなかった。
    「影はしっかり入れてやれ。そうすりゃ必ず光が前に出る」
    彼の目にはこの影と、光が見えていた。霊幻には見えなかった。
    それこそが、自分とエクボの差なのだと思い知らされた気分だった。さっき自分が抱いた感情が酷く恥ずかしいものに思えて仕方がなかった。
    「まぁ、これは一つの技法だから、消しちまってもいい。好きにしな」
    そう言って、エクボの大きな手が離れていった。
    もう少し触れ合っていたかった、という感情は無理矢理、押し込めた。今はただ、この絵画に真剣に向き合わねばならないような気がする。それをしなければ、きっと後悔する。
    準備室に帰って行くエクボを振り返らずに、霊幻は、たった今、光を知ったキャンバスに向かい合った。


    結局、美術展にはギリギリまで粘って絵を完成させた。エクボのペインティングナイフの使い方を真似してみたものの、やはり経験不足からかうまくはいかなかった。しかし、完成した絵を霊幻は随分と気に入っていた。特に桃と布の部分が自分好みに描けたと思う。
    出展した美術展は学生限定ではあったが、一応の審査もあり、優秀者には賞もついた。しかし、霊幻の描いた絵に、賞はつかなかった。
    残念だったな、とエクボは肩を叩いてくれたが、霊幻はなんとなく結果を察していたのだ。絵を描いた最初の動機は、エクボとの時間が欲しかったからだ。真面目に描いていなかった、というわけではないが、そんな不純な動機で描き始めた絵が、他の出展者に敵うとは、到底思えなかった。
    展覧会が終わったら、美術部をやめよう。
    そう、霊幻は決意していた。これ以上居ても、ただ未練が残るだけだ。
    美術展が終われば、絵は引き取っても破棄してもかまわない、という事になっていた。少し大きな絵だが、気に入っているので持って返りたい旨をエクボに伝えると、放課後いつでもいいから取りに来い、と言ってくれた。
    ちょうどいい、その時に部を辞めたい、と伝えようと決めた。エクボは残念がるだろうか。それとも、あっさりと見送るだろうか。そのどちらであっても、寂しい事には変わりないが、また後に引き伸ばせば、きっと後悔する。
    霊幻は、覚悟を決めて、放課後の美術室に向かった。


     最近、居ることの多い美術室に、エクボは居なかった。広い教室を見渡し、霊幻はすぅっと息を吸った。教室に置かれている少し埃っぽい、木製の机の匂いと、まだ残る油絵の具の匂い。これを感じることも、もう無いだろう。ふと見ると教室の奥に薄茶色の紙で梱包された板が見えた。よく見るとそれは霊幻の描いた絵を梱包したもので端に少し癖のある字で『霊幻』と走り書きされていた。
     この教室で見る何もかもが、切なく、愛しい。まだ辞める意思をエクボに伝えていないにもかかわらず、感傷的なってしまった頭を振って、気持ちを切り替える。ここに居ないということは、隣の準備室だろう。霊幻は少し遠慮がちにそこへ繋がる扉を開けた。
    「……先生?」
    小さく呼んでも返事が無い。ここにも居ないのか、と中へ入ると、いつもの椅子に、沈み込むようにして身体を預けているエクボがいた。腕を組んでいる身体は微動だにせず、かすかな寝息だけが聞こえてくる。午後の、色味の緩んだ金色の光が精悍な顔を照らしている。
    まるで、そこだけ時が止まってしまったような、静謐さだった。
    「……いいのかよ。先生なのに、昼寝なんかして……」
    呆れたように小さく呟いて、エクボの近くに立っても、ぴくりとも動かない。椅子なんかで寝づらいだろうに、随分と熟睡しているようだった。眠っていても少し皺の残る眉間や、静かに上下する胸元。間近でこんなに無防備な姿を見たのは初めてかもしれない。
    気付いたのは、組んでいる腕からはみ出た指に納まった銀の指輪。長く付けているであろうそれは、西日を反射して、鈍く光っている。

    ――神様がくれた、最後のチャンスかもしれない。

    霊幻はそっと、指輪の納まった手を、覆い隠した。
    始まる前に、終わってしまった恋だ。せめて綺麗なまま終わらせたかった。
    「………先生……俺さ。先生の事、好き、だったんだ……」
    絵を描いている時、一心に真摯な熱い視線で見つめられ続ける静物たちが
    羨ましくて仕方がなかった。
    海沿いで見た、あの愛しげな視線を注がれた人が羨ましくて仕方が無かった。
    どうして、それらの視線を受けるのが、自分ではないのだろう。
    「先生に、待ってる人がいることも知ってるし……
    言っても、困らせるだけって、わかってるから……」
    ただ、今ひと時だけは、どうか許して欲しいと願った。
    届かぬ告白をすることを。
    「…………好きだよ、先生……」
    きっと、もうこれほど近づくことは、無い。――できない。
    ふわりと香る、髪と油絵具の匂い。情けなくも、じわりと涙が滲んで視界を歪ませた。流石にこのままエクボを起こす事はできない。少し美術室に戻って気分を落ち着けよう、と踵を返した時だった。
    「………っああ、くそっ」
    極々小さな悪態が聞こえたかと思うと、霊幻は後ろから強く腕を引かれた。抵抗する間もなく、気付けば大きな身体に包まれるように抱き込まれていた。
    「………っえ…せん」
    「もうちょっと段取り踏んで、俺様から言おうと思ったのに……」
    今までに無いほど近くから囁かれる悔しげな声に、心臓が破れてしまわないのが不思議なほど高鳴った。混乱する頭で、必死に考える。エクボから言おうと思ったと言う事は、エクボもまた、霊幻を想っていたということだろうか。では、あの海で話していた、待ち人は――。
    先に零れてしまったのは、歓喜よりも両目にたっぷりとたまった、涙だった。
    「…………ごめん、先生……」
    もしこれで、エクボが築いてきた、霊幻の知らない待ち人との関係が、破綻してしまったら。
    言ってしまった後悔と、彼の人への申し訳なさと ――結ばれる、歓喜。
    他人を不幸に陥れてまで、喜ぶ自分に腹が立つ。霊幻には、ただただ泣きながら謝ることしかできなかった。
    「……先生の、こと……好きになんか、なって……ごめん、なさい……」
     緩く抵抗してみるも、エクボはしっかりと後ろから抱きしめて放さなかった。
    「いいんだ。お前が謝る事なんざ、なんもねぇんだよ」
     霊幻を抱きしめた大きな手に、いくつも熱い雫が落ちてくる。
    「これは、お前さんに話してなかった、俺様が悪い」
     霊幻にはその意味がわからなかった。もうすでに離別しているのだろうか。それとも初めからそんな人物は存在しなかったのだろうか。
     ではなぜ、あんなにも愛しげな視線を、地平線に向けていたのだろうか。
     混乱しているであろう彼を察してか、エクボが形のいい耳に唇を寄せる。
    「……お前が、俺様の事を知りたいのなら、家に来な………」
     後ろから抱きしめられ、囁くように告げられた言葉に、霊幻は抗う術を失ってしまう。腕がぱたりと落ちて腕の中に身体を預けた。
     秋の午後の金色の光に満たされた室内。
    床には、二人混じりあったような影が、長く落ちていた。



    霊幻はその日、エクボの家に寄る事になった。名目上は、美術展に出した大きな絵を、家まで持って行ってやるというものだった。
    一度、乗ったことのある車の助手席に腰を下ろす。前と同じように、霊幻がシートベルトをしたのを確認して、エクボはシフトレバーを握る。ゆっくりと車を発進させて、駐車場から出ていった。長い距離ではなかったが、黙っているのも気が引けて、ぽつぽつと喋りだす。そして、エクボは思い出したように霊幻に尋ねた。
    「なぁ、お前さん、今日どうしたい?」
    その声色はあまりに平熱で、その裏の意図までは、到底読みきれなかった。しかし、こんなチャンスはもうめぐって来ないかもしれない。
    「………先生んち…に泊まりたい…」
    極々小さな呟きもエクボにはしっかり聞き取れたようで、了解、と言ってハンドルを切った。
    「親御さんにはちゃんと連絡しとけよ」
    「……うん」
    西の空は随分と茜色が濃くなっていく。窓を開けると照った頬に当たる風が気持ちいい。それっきり、二人は一言も話すことなく、窓から流れる風に身を任せていた。

    エクボの住まいは五階建てのマンションの一室だった。
    重い金属扉を開けると、シンプルな玄関に靴が何足か。霊幻にも上がるよう促した。下駄箱の上の小皿にチャリっと鍵を置いて、エクボは靴を脱ぎ様に室内の誰かに声をかける。
    「帰ったぞー……って出てこねぇかな、やっぱ」
    どくっと心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
    やはり、やはりいるのではないか。待ちわびている人が。
    霊幻にはエクボが何を考えているかがわからない。そんな事など構わずにエクボはリビングのドアを開ける。人影はいまだみえないにも関わらずエクボが振り返った。
    「こいつが、俺様の大事な奴、な」
    「……え?」
    開けたドアの向こうにいたのは、一匹の真っ黒な猫だった。
    ピンと立った大きな耳に金色の瞳。
    ミャア、と鳴いた拍子にピンクの舌がちらりと見える。霊幻の姿を見てすぐ逃げはしなかったものの、興味が無さそうにぴゅっと奥の部屋へ走っていった。
    呆然としながら、霊幻は黒猫が姿を消してしまった方を震える手で指差した。
    「……だっ……て……先生、奥さん……いるんじゃ……」
    「……俺様は、結婚してるなんて、一言も言った事はねぇぞ」
    ニンマリと笑う顔が憎たらしい事この上ない。霊幻は怒りを突き抜けてへなへなと座り込んでしまった。
    「……っじゃあ、なん……で、指輪なんか……」
    「……悪かったよ。だから言ったろ? 話さなかった俺様が全面的に悪い」
    謝っているとは思えない声に、沈下した怒りが込み上げてきてガバッと起き上がる。しかし、その憎たらしいはずの顔を見て、霊幻はまたその怒りを削がれてしまった。その表情は、あんなにも欲しかった、柔らかく愛しげな視線に他ならないものだったのだから。
    「俺様も、お前さんのことが、ずっと好きだったよ、新隆」
    正面から初めて抱きしめられて、エクボの肌の匂いを感じる。もうそれだけで全てがどうでもいいことのように思えた。
    「ずるいよ、先生……」
     言葉だけの非難など意味は無い。ただ、少しは言ってやらないと気が済まないだけだった。霊幻はやっと、大きな背中に腕を回す。
    「…俺も、好き……」


    衝撃の事実が判明した後、霊幻は多少の事はしてもらおうと抗議すると、夕飯は何でも好きなものを頼んでいい、との確約を得た。
    霊幻はまとめてあるデリバリーのメニューを広げて、あれでもないこれでもないと思案してやっとのことでピザに決めた。詳しいメニューもエクボに決定権は無い。四つの味が楽しめるというピザのLサイズが二枚に、サイドメニューからデザート、さらには飲み物までを追加しはじめた。いくら男性二人といえども、一度に食べられる量ではない。何より金額が宅配ピザにしては見たことの無い額になっている。流石にそろそろやめたらどうだ、と言うと、霊幻は意地の悪い笑みを浮かべて、黙っていたことに自分は酷く傷ついた、と大げさに言ってみせた。そんな事を言われてエクボは反論のしようも無い。
    おおせのままに、と溜息をついて、財布が軽くなるのを受け入れるしかなかった。




    大騒ぎの夕飯が終わり、霊幻は風呂をもらった。エクボはしっかり湯船まで張ってくれた。さすがにそこまでされて先に風呂をもらうのは気が引ける。一番風呂は、エクボに譲った。
    空いたぞ、と風呂から上がったエクボにドキリとする。まだ濡れた短い髪に石鹸の香り。霊幻は急に恥ずかしくなって逃げるように風呂場に駆け込んだ。
    肩まで湯に浸かって、今日はどうする、と聞かれた意味を考えてみる。ただ、霊幻は男で高校生だ。エクボがどこまでを考えているのかはわからなかった。
    「…………………っはぁ…どうしよ…」
    我ながら女々しいな、と考えながら湯気を眺める。ため息まじりに口元まで湯につかりながら、煮え切らない考えと一緒にブクブクと息を吐き出した。


    「あれ? 猫ちゃんは?」
     風呂から上がるとさっきまでいた、黒猫の姿が見えない。
    「お気に入りの部屋で、寝てるよ」
    エクボは本を読みながらリラックスした様子でそう答えた。
    ドキマギと霊幻が風呂から出た後も、別に普段と変わることは無かった。同じソファに座って少し距離が近いだけだがそれだけだった。
    それで、霊幻はもっとも気になっていた事を聞いた。
    「なんでさ。指輪なんか紛らわしいもの、してんの?」
    こんな物さえなければややこしい自体にはならずにすんだ。いや、教師と生徒というだけですでに随分とややこしいのだが。
    エクボはそれに事も無げに答えた。
    「面倒くせぇんだよ。学校なんて閉鎖空間じゃ、俺様みたいなのでも良く見えるんだろうな。高校生と色恋なんざ、する気もなかったしよ」
    しかし、現状はその面倒くさい事態に陥ってしまっている。
    「……今は?」
    あえて聞いてみせる霊幻にエクボは苦笑しながら答えた。
    「………高校生(おまえ)を、見くびってたよ」
    そんな柔らかな笑みを向けられてカッと顔面に血が上る。俯いたままエクボに寄り添うように身体を寄せる。
    「…あの、俺……先生…」
    高鳴る胸を必死に押さえてゆっくりと顔を上げた霊幻の視界に映ったのは、エクボの顔ではなく大きな手。
    いったいなんなのかと瞬きをしている間にべちっと指が弾かれた。
    「いっった!!…っ何すんだよ!!」
    予想外の痛さに額を押さえながら文句を言う霊幻を、エクボは楽しそうに笑いながら見ている。
    「ざーんねん。お前さんの期待には答えらんねぇよ」
    「……なんでだよ。家にまで入れといて…」
    まだじんじんと痛む額を撫でながら霊幻は不満を漏らす。
    「そりゃ、誤解を解かなけりゃなんなかったろう?」
    誤解とはきっと艶やかな黒い毛並みの、指輪の君の事だろう。
    それにしても、とじっとりとエクボを見返す。
    「……俺、子供じゃないんだけど」
    「子供じゃないならわかってんだろ。俺様が手を出さない理由」
    それを言われてしまっては霊幻にはどうする事もできない。
    深い溜息を零す霊幻の耳元にエクボは口元を寄せる。
    「卒業したら追々…な…」
    わざとらしいほどに深い艶やかな声を吹き込まれて、霊幻はばっと耳元を押さえながら身体を離す。
    「もう!!いい加減にしろよ!!」
    「はははっ」
    軽やかな笑い声といまだ不満げな吐息が明るいリビングに満ちていた。









    カーテンの隙間から差す光が目に痛くて、霊幻は目を覚ました。
    「……あ、そっか…せんせいんちか…」
     ぽそっと呟いた言葉は、細く差す暖かな陽光に溶けてしまった。薄ぼんやりと目を開けていると、その細い光の中をキラキラと埃が舞っているのが見える。室内は小さく響くエアコンの駆動音と、ベッド下から聞こえる静かな寝息で満ちていた。
    結局、昨日は良い雰囲気になる事もなく、大きなテレビでシリーズものの配信ドラマを見る事になった。時折、あの黒猫がエクボの膝に気まぐれにやってきてはしばらくくつろいでいく。霊幻がそれにそろそろと手を出そうとするとそれを察してかすっと立ち上がって去って行ってしまう。それを残念そうに見送る霊幻をエクボが微笑ましく見ながら、穏やかな時間が過ぎていった。
    思いの他面白かったドラマは日付が変わってもしばらく見ていたが、さすがに限界がきた。遠慮する霊幻をベッドに押し込み、エクボはその脇にマットレスをしいて、二人ともこの時間まで何事も無くぐっすりと眠ってしまったのだった。
    霊幻はひとしきりぼんやりした後、聞こえてくる寝息の主を見ようと、もぞもぞと動き出した。
    昨日まで、もう見る事もないと思っていた無防備な寝顔。少し生えた無精ひげと、眉間にうっすらと残ったままの皺。こんなに近くにいられることが、不思議だった。
    教師ではない彼の素顔を見られる事が嬉しい。
    腕を伸ばして短い前髪を梳いてやると、少し唸ったものの、また規律正しい寝息が聞こえてくる。それに、フフッと笑った時、カリカリと何かを引っかくような音が耳に入った。ンナァオという微かな鳴き声に霊幻はもう一人――もとい、一匹の同居人の事を思い出して、霊幻はそろそろとベッドから降りた。
    「…………ちょっと、待って……」
    借りた部屋着のサイズはエクボが着てもずいぶんとゆったりしているもののようで、霊幻が着ると腿あたりまで隠れてしまう。短パンもぶかぶかと大きくてずり落ちそうになるのをぐっと引き上げた。ドアの外の鳴き声とカリカリという音は一層強くなるばかりだ。
    カチャリとゆっくりドアを開けると、ぴゅっ、と一瞬逃げはしたものの、すぐに戻ってきた黒猫が霊幻を見上げて、ンナァ、と何かを訴えるように一声鳴いた。
    「ごめんな、遅くなって…… どうしたの…… って言ってもわからないか……
     うぅ~ん…… えっと…… ごはん、かな?」
    まるで霊幻の言葉を理解でもしているように、黒猫はもう一声鳴くと、キッチンの方に走っていって専用の皿の前に行儀よく座った。どうやら当たりらしい。しかし、食事の置いてある場所などわからない。少し考えた霊幻は、また寝室に戻って、控えめにエクボに声をかけた。
    「ねぇ、先生。えっと…… 猫ちゃんのご飯って何処に置いてある?」
    霊幻の問いかけに布団の塊がもぞもぞと動き出す。
    「………ん…… キッチンの…… 下の戸棚……」
     寝癖だらけの頭に、眠さのせいか開かない目。普段の教師らしい面影は微塵もない。エクボは、ボソボソとそう言うと、眩しさを避けるように布団を頭までかぶってしまった。
    霊幻はその様子を見て軽く笑いながら溜息をつくと、エクボに教えてもらった場所まで向かう。キッチンのシンクの下の戸棚に目的のものは入っていた。
    大きな瓶に入れ替えられたキャットフード。それを取り出すとカロカロっと中身が転がって音を立てる。それが聞こえたのか待ちきれないように、猫は霊幻の周りをうろうろと歩きまわっていた。ふと、落ち着き啼く上がった尻尾の下にふっくりとやわらかそうなものが見えて、この黒猫が『彼』であるということがわかった。
    「おや、お兄さん立派なものをお持ちですね。では、ちょっとお待ちくだ……
    ってああぁぁ、やばっ!」
     調子よく喋りながら容器を傾けて、彼の皿に中身を出そうした拍子に、一気にザララっとキャットフードが出てしまった。明らかに量が多いそれを拾う間も無く、彼は頭を突っ込んでカリカリと食べ始める。床に転がったものだけをどうにか回収して、霊幻はしゃがんだまま、少し微笑んだ。
    黒猫の丸見えの後ろ頭が可愛くて、食事中に申し訳ないと思いつつ、カシカシと掻いてやる。艶やかな見た目通り、滑らかな触り心地の良い毛並みだった。
    「………ふふ、そういえば、お前の名前も、きいてなかったな」
    そんな事を言っても、当然ながら猫である彼は、答えることができない。
    ずっと、彼はここでエクボと一緒に過ごしてきたのだろうか。
    教師の顔ではない、年相応のくたびれた姿を見てきたであろう日々が、霊幻には羨ましかった。
    頭を掻いてやっていた手を艶やかな背中の毛並みに滑らせる。そのまま優しく撫でていても、彼は嫌がる事も無く、されるがままだった。
    エクボはあの様子だと当分起きてきそうにない。
    そうだ、朝食を作って待っていようか。
    昨日食べたピザもサイドメニューも、まだ残っているが、それを温めるだけでは味気ない。まともな料理なんて作った事はないけれど、卵焼きくらいならできるだろう。ああ、けど勝手にキッチンを使っては怒られてしまうだろうか。
    そんな事を考えながら、霊幻はエクボの寝起きの顔を思い出しては、またフフっと笑いが込み上げてしまった。
    だらしなく生えた無精ひげ。眉間の皺に、眠そうに布団を引き寄せた、あの表情。
    「………なんか、普通の、おっさんみたいだったな……」
    今朝の姿を見て、エクボが前に言った、大人のふり、という言葉の意味が、少しだけわかった気がする。
    学校では誰も知らない顔を、霊幻は知っている。
    初めての部屋で迎える遅い朝の光は、霊幻には随分と眩しかったが、暖かくもあった。
    またこの部屋で、朝を迎えたい。
    陽光に輝く窓の外を、霊幻は彼の食事が終わるまで、穏やかに見続けていた。





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