マイハン♀が父親を闇討ちする話「……どうだった」
「死んだらしい。親族の話によればな」
「馬鹿な。そんなわけがあるまい」
「ああ。既に別の女と暮らしておる」
「……」
「そのような話を聞かせるな。見ろ、……おお、目が開いたゲコ」
「ほう」
「……橙か。タタラ場の焔の色だ」
「そうだな。カムラの子だ。我らの愛し子だ。ミズホのことは残念だったが、……残されたこの子はなんとしても育て上げよう」
「父親はどうする」
「捨て置け。無理やり連れ戻したところで使い物にならん」
「そうだな。……哀れな子だ」
「名付けはどうなった?」
「ミドリと」
「良い名だ。強く育て、ミドリ。母親の分も」
百竜の淵源に挑む前のこと。猛き焔と呼ばれる狩人は里長に願い出た。
「父に会う許可を」
里長はそれを許すつもりだった。この娘のわだかまりの根幹が父親の存在であることはよく分かっている。死地に赴く前に、それを解消したいと願うのは当然のことだ。
しかし懸念はある。
「会って何とする」
「一発殴ります」
即答だった。娘は先に答を用意していたものらしい。
身重の母と自分を捨てた父に恨みを持つのは、当たり前の成り行きだろう。しかしそれだからこそ、一発で済むものだろうか。幼い頃から感情の抑制を不得手としているのに。
それでも、これから里を救わんとする英雄のたっての願いだ。叶えてやりたい気持ちはあった。来し方を思えば余計に。
「……」
「一発だけです。済めばすぐ帰ります」
娘の真摯な眼差しを、里長は正面から受け止める。
「……案内を同行させる」
「はい。それも、お願いしようと思っていました」
狩人は笑った。狩りに赴く前のような表情で。
「やあ愛弟子!」
愛弟子は時間通りに来た。武器は下ろし装備も外し、里でよく使われる平服を身に付けている。武装解除と案内役の同行が、父親に会う為の条件だった。
「……やっぱり教官かあ」
「うん、俺だよ。お目付役だね」
万一この娘が激昂したとして、それを留められる者はそうはいない。ウツシが任されるのは必然だった。
「よろしくお願いします」
いつになく殊勝に頭を下げる愛弟子に、一瞬師匠は気圧される。珍しいものを見た、とパチパチ瞬いた。
「……。ああ、もちろん」
雲はない。丸い月は明るかった。灯りを持たずとも道を辿ることができるほどに。
「ねえ、あの人、娘がいるんだって?」
「そうだよ。君の一つ下だ」
「……はーん。歳の近い姉妹だわね。お盛んだこと」
目を細めて笑う様は猛禽の怒りを連想させる。された仕打ちを思えば当然の反応だ。
「恨んでるかい?」
「恨むわよそりゃ。大っ嫌い。一回でいいから面と向かって言ってやりたいのよね、嫌いって」
ウツシは彼女の怒りに呼応するように、長く心に秘めていた凝りを口に出す。
「俺も嫌いなんだよね、あの男」
驚いて狩人は目を見開く。この太陽燦々クソポジティブ男がまさか、と。
「……めっずらしい、教官がそんなこと言うの」
「俺も1発殴っていいかなあ」
「……私のに勘定しといてあげるわ」
人の気配に気付き師弟は口を閉ざす。目的の人物ではなかったが、人里は近い。
「……」
「……」
無言で師弟は歩みを進める。何か込み上げてくる感情を堪えるような、そっくりの無表情で。
「……」
先に決壊したのは、意外なことに師匠の方だった。
「……く」
「やめてよ、ふっ、アハハ」
つられて狩人も相好を崩す。張り詰めていた空気が一気に解けた。
「くくく……」
「ふふ……アハ」
「はー……」
しばし息を整える。いつの間にか二人は足を止めていた。
「……休憩にしよう」
教官が適当な倒木に腰掛け促すと、弟子は素直に従い隣に座った。行儀悪く足を組むが、今日は止めないでおいた。
「……見た?あの顔」
「見たとも」
「腰抜かして……」
未だ込み上げる笑いを堪えて、語尾は小刻みな吐息にすり替わった。それほど標的は驚いて、無様にすっ転んだのだ。
「君は本当に、母君にそっくりだからね」
母の名を叫んで腰を抜かし、怯えて許しを乞う男を、宣言通り狩人は1発だけ殴った。その後4回蹴った。骨を折らないよう加減したし、後遺症が残らない場所を選んだ。それでも2、3日は動けないだろう、何せその後で教官にも殴られていたのだから。
「はーあ。あー。スッキリしたー」
「良かったよ。俺も気分が良い」
「ね」
最後に襟首を掴み上げて、「安心してよ『お父さん』、もう二度と会わないから」と宣言した後、頭突きして勘弁してやった。今までの恨みの全てが晴れたわけではないが、まあ少しの気分転換にはなったものだ。
「帰ろうか」
「うん」
返事はすれども、愛弟子は立ち上がらず。察した教官は先に戻ることにした。里はもう近い。
夜闇の中、門の前で待っている師匠を見つけて、狩人の娘は嫌そうな顔をした。正直今は会いたくない。腫れた目を見られたくはないのに。何ゆえ最後まで気を使い切ることが出来ないのだ、この男は。
しかし師匠の手に掲げられた名入りの瓶を目にした瞬間、鬱屈した思いは吹き飛んだ。
「里長からだよ」
「マジ!?これ!?」
大吟醸『黒狼』。ふくよかでありながらキレのある深い味わいと、その希少性によって名高い銘酒である。かねてより所望していたこの酒を、里長は何処からか手に入れ、そして譲ってくれたらしい。
「大盤振る舞いだねえ」
「やった……!ずっと飲んでみたかったの」
少女のように喜ぶ弟子を、ウツシは笑って里に迎え入れる。
「集会所で飲もうか。行こう」
オテマエが2人のために作り置いてくれていた肴に舌鼓を打ちつつ、念願の銘酒をちびちび大事に味わう。一口含む度に口中に広がる芳醇な香りが、胃に心に沁み入った。
言葉少なにしみじみ飲み、瓶が空になりかけた頃。ぼんやり遠くを見ている師匠がポツリと、呟くように話しかけてきた。何か、甘さの含まれた声色で。
「俺さ……君に言ってなかったことがあるんだ」
「……」
「今、言っておきたい」
聞いたことあるぞ、この声色。里の外で知り合いと遊んでいる時に、よく。
程良く酒の回った頭が、俄にピリリと引き締まった。本人は隠したがっているが、ウツシは酒に強くない。まさかこの愛妻家が、とは思うが、闇討ちの高揚と酒精に溺れているという可能性も考えられなくはない。何か共犯者同士の連帯感とかそういうのが変な方向に向かってしまっているとか、そんなやつ。
「内緒で頼むよ」
「……うん」
もし妙なことを口走ったら殴って止めるか。不倫は嫌いだし奥方に悪いし、好みじゃないし。密かに拳を固めながら続く言葉を待つ。
「俺の初恋さ、君のお母さんなんだよ」
「……」
「……」
まず、嫌な想像が空振りに終わった安堵と、余計な緊張を強いられたことへの苛立ちが先に来た。次いで、先程彼が見せた珍しい態度に納得する。恋した女を捨てた男だ、殴りたくもなるだろう。完全なる私怨ではあるが。
……それから。
「……ふふ」
「うああ」
師匠の照れ臭そうな笑い声を聞きながら、狩人は頭を抱えた。母と死に別れ父に捨てられた寂しさと怒りを、あたり構わず当たり散らすことで発散していた、そんな少女時代の黒歴史が脳内に蘇ってきたので。そんな自分が一番当たっていたのが、師である教官だった。だからもう、訓練中は滅茶苦茶に扱かれたのだ。『その甘えた根性を叩き直してあげるよ』と。そりゃそうなる。もし立場が逆なら殴ってる。殴らなかった師匠すごい。
「……怒るはずねー。あいつのことも、私のことも」
「そう。だから俺、最初君のこと嫌いだったんだよね」
思わず教官の顔を見る。彼は苦笑していた。過去の、弟子への怒りを抑え切れない未熟なウツシ自身へ向けた苦笑だった。多分自分も同じような顔をしているんだろう、と狩人もまた笑った。ちょっと泣きそうだ。
「ぶっちゃけるわね」
「今は自慢の愛弟子だよ」
「知ってる」
「ふふ。君は本当に強くなったねえ、愛弟子。俺は鼻が高いよ」
この人は……凄い人だ。改めてそう思う。初恋の人の娘を預けられたと思ったら、そいつは与えられた環境への感謝もせず自分勝手に怒り散らし、訓練中でも師へ歯向かうこと限りない、そんなクソガキだったというのに。受け入れ難かっただろうに、根気よく向き合い、知識と技術を教え、里の外の世界を見せてくれた。
この人がいなければ、自分はこんなに強くなれなかった。こんなに晴れやかな心持ちで大舞台に臨むことは出来なかっただろう。
里の皆もそうだ。甘ったれの小娘を、里への恩を仇で返した男の娘を、何くれと気にかけ、見守ってくれた。だから自分は、途中から自分の意思で力を求めるようになった。育ててくれた里に恩を返すために、皆を助ける力をつけるために。
感謝という言葉で表せないほどの大きな思いを、静かに寄せる。教官に、里長に、大人達に、友人達に、子供達に、アイルー達に、ガルク達に。そして何よりも、命と引き換えに産んでくれた母と、……ついさっき殴ってきたあの男にも、ほんの少しは。
集会所を出ると、もう空は白み始めていた。
「……頑張れそうかい?」
「もちろん。付き合ってくれてありがと、教官」
「里長にもお礼を言うんだよ」
「うん。お酒の分も」
「それと、ゴコク様が心配していたから顔を出しておきなさい」
「はあい」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
出発の予定は二日後の……いや、明日の朝だ。寝て起きたら装備の最終確認をして、修練場で身体を調整して、身辺整理と皆への挨拶を済ませて。そして次の夜明けには、ポリシー通り、涼やかに笑って旅立とう。今の私に出来ないことは何もない。
「そうよね、お母さん」
山間から朝日が差し込む。狩人は水車小屋へ向けて歩き出した。