うれしはずかしやまし(三暮) 秋晴れの昼下がり、木暮は閑静な住宅街の一角にいた。植栽で囲まれた低層マンションはできて5年かそこらの新築だ。エントランスにあるモニター付きのインターホンに驚いたのも今は昔、木暮は慣れた手つきで部屋番号を押して家主の応答を待つ。数秒響いた呼び出し音が止まると、来客が名乗るよりも早く「おう」と気の抜けた声がスピーカー越しに聞こえた。エレベーターで部屋のある階に着くと、部屋の前でもう一度インターホンを鳴らす。すると、今度はぱたぱたとスリッパの足音が聞こえてきた。あいつスリッパなんて履いていたっけ、と首を傾げているうちに玄関のドアが開く。
「木暮くん、いらっしゃい」
「あ、おじゃまします」
木暮の目の前に現れたのは三井ではなく、その母だった。保護者が在宅でも何の不思議もないのだが、今日は両親ともに不在と聞いていたので驚いてしまった。彼女の背後から息子のほうがひょっこりと顔を覗かせる。
「おう」
「眠そうだな、三井」
よれたTシャツとスウェット姿の彼を家で見るのは案外珍しい。教育方針なのだろうか、木暮が三井家を訪れると、たいてい三井はアイロンのかかったシャツを着ている。
「さっき起きたところなのよ。木暮くんが来る前に着替えなさいって言ったのに」
「それは言うなよ」
三井は後頭部を搔きながら母に抗議している。鼻筋がそっくりだな、と木暮はこのふたりが並ぶところを見るたびに思う。
「ごめんね、もう出掛けるところだから」
三井の母のあとを着いてリビングダイニングへ向かう。座ってちょうだいねと椅子を勧められたが、外出前特有のなんとなく忙しない空気の中で一人で座るのは気が引けた。
「これ、うちの母からです。いつもお世話になってます」
狭く見積もっても木暮家の1.5倍はありそうな空間の端で、木暮はかるく紙袋を掲げた。母親が持たせてくれた手土産だ。包装からすると近所のケーキ屋の焼き菓子だろう。
「こっちの台詞よお、いつもありがとうね。お母さまによろしく言ってくださいな」
すでに支度は終えているらしい三井の母が、ダイニングテーブル越しに木暮に向き直る。それから彼女は少しかしこまった表情をした。
「バスケ部のことでもお世話になりっぱなしだったのに、勉強の面倒まで見てくれて。ほんとにありがたいのよ」
三井が不良をやっていた頃の両親の心労がうかがえて、木暮はすこし眉を寄せた。かなり裕福そうなこの家で、スポーツマンの息子が不良になるなど考えもしなかったのだろう。
「こちらこそ、三井が戻ってきてくれてよかったです。ほんとうに心強い選手ですよ」
「もう木暮くんったら。しっかりしてるわよねえ、うちの子に爪の垢煎じて飲ませてやって」
そう言われている三井のほうは、ソファの中央にでんと陣取って居心地の悪そうな顔をしている。偉そうなポーズと表情のアンバランスさに木暮が思わず笑い声を漏らすと、うるせえやい、とそっぽを向いてしまった。
「木暮くん、夜も食べてくでしょう。ごはん冷蔵庫にあるからね。足りなかったらパスタ茹でてもいいから」
「何から何まですみません」
親が不在の間に子供ふたりで置いてもいいと思われる程度には、木暮は三井家からの信頼を勝ち取っているようだった。それがありがたくもあり、同時に申し訳なくもある。
「寿、聞いてるの?お客さまに洗い物させちゃだめだからね、あなたが洗うのよ」
「わーってるよ」
三井は顔を背けたままひらひらと片手を振っていた。それから、母親が出ていく気配を察したのか、ソファから立ち上がって玄関のほうへと歩き出した。
「それじゃ、仲良くね。寿、ちゃんと勉強してよ」
「おーう」
なんだかんだと言って出掛ける母親を玄関先まで見送るあたり、三井はいい息子なんだろうと思う。ごとん、と低い音を立ててドアが閉まった。
「中間の範囲でまずいとこあるか?」
「んー」
玄関の鍵をかける三井に背後から声をかけるが、気のない返事が返ってくるばかりだ。この様子だと、冬の大会前にも勉強合宿は避けられないだろう。ご愁傷様、と他人事のように心の中で彩子に手を合わせる。などと、呑気にしていられたのもつかの間だった。正面から来た三井が、そのまま覆いかぶさるように木暮を抱きすくめたからだ。
「なあ、木暮」
肩口に三井の息がかかって、こそばゆさに小さく身をよじらせる。あるいは、流されまいとする抵抗かもしれなかった。
「だめだぞ」
「なんで」
抱きしめる力を強くして、三井は駄々っ子のように頭を木暮の首筋にうずめる。短い髪がちくちくと皮膚に刺さる感触と、いつの間にかシャツの下に侵入していたかさついた手の動きが、いつかの夜半の記憶をよみがえらせる。駄々っ子はそんなことしない。あのなあ、と木暮は三井の手に自身の手を重ねて声をあげる。
「今日は勉強しに来たんだ。お母さんの話聞いてたか」
「言われたとおり仲良くしてるだろ」
するりと腰を撫であげられて、木暮はいよいよ流されそうになっていた。そんな心中を知ってか知らずか、三井が得意げにささやく。少しずつ三井の声がかすれていっているような気がして、それが余計にだめだった。
「ばか、勘弁してくれ......」
腰が砕けそうになるのをなんとかこらえて、木暮はもう一度抵抗を表明する。すると、さしもの三井も何かを察したのか、腕の力がゆるめられたのを感じる。それでも完全に手を放そうとしないあたり諦めが悪い。
「ンだよ、気分じゃないのか」
「気分になるから困るんだよ」
至近距離から覗き込んでくる顔を直視できず、木暮は三井の鎖骨あたりに目を落としながら言葉をつづけた。頬が熱い。顔がちょっと赤くなっているかもしれない。
「お前のお母さんが俺のこと信頼してくれるの、ありがたいと思うんだ。裏切りたくない」
表向きはいい友人の振りをして影でやることをやっている以上、こんなのは言い訳にすぎないとわかっている。それでも、やり場のない罪悪感とどうにか折り合いをつけたかった。木暮はゆっくりと両手をあげて、三井の形のよい頭を包むように撫でる。
「だから先に勉強しよう、な」
「……おう」
母親を盾にされたからか、三井は(渋々といった様子ではあるが)素直に引き下がってくれた。大人しく頭を撫でられながら、あとでな、絶対な、とちいさく唇を尖らせるのが子供のようでかわいくて、思わずついばむように口づけた。すると今度は三井の顔が赤くなったので、木暮は満足した。
「おまえなあ!」
三井のお母さん、すみません。息子さんの友達は、そんなにいい友達ではないんです。木暮は心の中でちいさく詫びた。