百代の過客としても(三暮)1.兵どもが夢の跡
生ぬるい夜だった。夏特有のまとわりつくような湿気をはらんだ風が首筋を撫でる。昼間ほどの暑さがないせいかどこか締まらない感じがする。気の抜けた炭酸水みたいだ、と三井は思った。あるいは、今の自分たちのようでもあった。劇的な勝利のあとに待っていたのは言い訳しようのない大敗だった。全国制覇をぶちあげて乗り込んだ割には、あまりにあっけない結末だ。トーナメントとは得てしてそういうものだと負けてから思い出した。この夏はなにもかもが上手く行きすぎたから、すっかり忘れていたのだ。いきなり引き戻された現実に気持ちだけが追いつかずに、意識はじめじめした空気の中を浮遊している。
人気のない道路を歩く。アスファルトと靴底の擦れるぺたぺたという音と、遠くに聞こえる虫の鳴き声だけが聞こえる。ぽつぽつと立つ電柱に設置された街灯の頼りなさが不安を誘う。街灯を辿るように歩いていると、ガードレールの途切れたところに座る人影を見つけた。木暮だ。切れ目から下に伸びる階段に腰掛けて、頬杖をつきながら空を見ているようだった。
「木暮」
「……なんだ。三井も出てたのか」
声をかけると、いつも通りの穏やかな声がかえってきた。柔らかな響きがぬるい空気を揺らす。
「おう。宿に残ってるやつのほうが少ないと思うぞ」
「消灯までにちゃんと全員戻ってくるかな」
「平気だろ、さすがに。……あ、1年はフロントの隅で車座になってた」
「あはは、なんだそれ。かわいいな」
木暮のまぶたが緩いアーチを描く。こんなときまで部員の心配をするのだから、副主将の肩書きが相当染みついているようだ。だが、それもあと数日で後輩に引き継がれる。
「そこ座っていいか」
「どうぞ」
狭い石段は大柄な男がふたり並ぶには少し窮屈だった。互いの肩がぎりぎり触れない、だがうっすらと体温が伝わる距離では隣を見ることが憚られて、三井は木暮にならって空を見上げることにした。薄曇りの夜空に、ちらほらと星が浮かんでいる。月はちょうど雲に隠れて見えなかった。
「終わっちまったなあ」
試合が終わってから今に至るまで、考えることはほとんどこれだった。この数ヶ月走ってきた道がぷつんと途絶えて、どうすべきか戸惑っている。ちらりと目線を横に向けると、木暮は飽きずに月のない空を見ているようだった。横顔からは表情がよく読み取れない。
「ああ。……いろいろあった」
いろいろ、に含みを感じて三井は鼻を鳴らした。木暮の声は変わらず穏やかだ。
「引退試合がインターハイの本戦になるなんて夢にも思ってなかった」
「全国連れてってやるって言ったろ。信じてなかったのかよ」
「赤木はともかくとして、お前は一回裏切ったからなあ」
「言ったなテメエ」
「あはは、ごめんごめん」
ふたりでじゃれて笑いながら、三井の胸は鈍く疼いた。こうして笑える思い出話になったことに安堵する一方で、うっすらと不安を覚えるからだ。いつか今日のことも思い出になってしまうのではないかと思う。
「夢を本当にしてくれて、ありがとう」
全てを片付けてしまうような言葉に無性に腹が立った。物分かりのいい感謝の台詞を聞きたいわけではなかった。そんなのは酒が飲めるようになってから、酔ったついでにやればいい。
「お利口なフリしてんじゃねえよ」
「いいだろ。ちょっとくらいカッコつけさせてくれないか」
「嫌だね。カッコ悪いとこ見せるまで帰さねえ」
三井が少し不機嫌になったのを察したのか、木暮が困ったように笑う。わがままを言って困らせている自覚があるから、逃げられないように手首を掴む。そんなことをしなくても木暮は立ち去ったりしないと知っていたけれど。
「……ずっと不安だった」
おずおずと木暮が口を開く。何をどこまで話していいのか探るように手のひらがぐっと握りしめられるのを、掴んだ手首から感じた。
「このままやって本当に全国行けるのかって、行けなかったらオレはただのひどいやつだって、ずっと。うまくいくって確証がほしかった。そんなものどこにもないのにな」
自分がいなかった2年間のバスケ部の話を三井は聞いたことがない。聞くべきでないと思ったからだ。だが、伝え聞いた噂や復帰したあとの様子からおおよそ察することはできる。その間木暮が置かれた立場についても、三井の想像はあながち外れていないだろう。
「今年になって流川や桜木が入って、宮城が戻って、それからお前も。部員みんなが全国を目指して本気でやってた。悔しいなあ!せっかくいいチームになったのに……」
そこで木暮は押し黙って下を向いた。消え入る語尾がうっすらと震えていた。その先の言葉を継がないのが彼の善さであり矜持だとわかっていたから、三井も黙って待っていた。どこからか聞こえるコオロギの鳴き声がやけに響く。
「……ごめんな」
取り乱したことか今日の試合のことか、何を謝っているにせよ、三井は返す言葉を持たない。思いつくどんな言葉も陳腐な気がして、ただ手首を握る力を強くする。ここに自分がいると示したかった。隣からは深く息を吸いこむ音が聞こえてきた。それから息を吐くのに合わせて、固く握られた拳が少しずつ緩められる。
「でも嬉しいのも、感謝してるのも本当だ。一緒に全国に来られてよかった」
木暮が上半身をひねって、自分の右手首を掴む三井の手に左手を重ねた。下から覗きこむように目を合わせて、三井に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。根っから強くて優しい男だ。だから弱っているところを見たいし、できればそこを支えてやりたいと思う。
「泣いてもいいんだぜ」
「うーん。涙が出ないんだ」
「ウソつけ。お前ロッカーで目頭抑えてたの見てたからな」
「あれは……泣くに泣けなかったというか、出そうで出なかったというか」
逆にすっきりしちゃったんだよな、と木暮が照れくさそうに笑う。
「なんだそりゃ」
「泣きたくなったら三井の胸を借りるよ」
空いたほうの手で肩をぽん、と叩かれる。さりげなく気を遣われたのを察して、三井はなんとなくいたたまれなくなった。この男を支えたいなんて傲慢だったかもしれない。むしろ助けられてばかりで、いつか愛想を尽かされるのではないかと不安になる。そもそも木暮とはただのチームメイトだから、尽かされる愛想もなかったらどうしよう。そう考えているうちに、思わず口から言葉があふれていた。
「木暮よお、ひとりで勝手に大人になるな。オレばっか置いてかれてるみたいだろ」
「そんなこと……どうやってオレがお前を置いていくんだ」
さっき肩を叩いた木暮の手が背中に添えられる。まるで駄々っ子をあやすような仕草に、結局いつものパターンだと思った。三井にきらきらした視線を向ける一年の頃の木暮が忘れられなくて格好いいところを見せようと思うのに、コートの外ではどうにも情けないことばかりだ。だが、一緒に走ってきた夏に終止符を打たれた今に限っては、普段通りなことに安心する自分もいる。
「だってお前、これで引退なんだろ。毎日勉強して、バスケなんか知らねーみたいな顔して、オレのことだって……」
「引退はするけど、たまには部活に顔出すし。これでお別れなんてことないさ」
「ウソじゃねえだろうな」
今の三井にはバスケしかない。バスケで大学を決めるつもりだし、それで飯を食っていけるようになるつもりだ。それを間違いだと思ったことはないが、『ふつう』に大学に入って4年間勉強して、いつか背広を着る未来を選択した木暮を見ていると、時々自分だけがモラトリアムに取り残されるような気がした。
「ウソじゃないよ」
ウソじゃない。木暮はもう一度同じ言葉を繰り返した。そうやって肯定されるだけで救われるような気がした。離れがたくて、もう少し一緒にいたいから子供みたいな真似をする。
「ん」
「小学生か」
指切りなんて何年ぶりにするだろうと思いながら手を差し出す。案の定木暮は呆れたような笑い声を漏らした。視線で催促すると、汗で湿った小指がおずおずと絡められる。この離れがたさがどこから来るのか、今はまだわからなかった。