トマトとカボチャとマトリッツォトマトとカボチャとマトリッツォ
白壁が続く、旧市街地にその店はあった。
数十種類のスパイスが空間いっぱいに漂う、その店の名は、『月と矢』。もとは使用人用の長屋だった建物をリノベーションした内装は、店名でもある月と矢のモチーフを散りばめたインテリアともども好評で、先日は東京から〝リノベーション〟を主題にした雑誌の取材も受けたほどだ。
まぁ――
内装で注目されるのはしゃーないとして。
カレーの味のほーをメインにして欲しいんだけど、にゃ。
本当は。
「南くん、カレー」
そんな『月と矢』の本日イチバンの客が、言った。
「や、姫鶴の兄貴、南くんはやめてくれにゃ」
蜜色の金髪の長めの襟足を白いゴムで縛った、店主が答えた。
カレー専門店『月と矢』の店主の名は、南泉一文字。
大学を卒業して三年になる彼は、現在二十代半ばで、南泉の金緑の瞳に映るのは――カウンター席に浅くこしかける姫鶴一文字で、正真正銘血の繋がった南泉の兄であり、けぶるような銀髪の名の通り姫のような容姿をしているが二十代後半の男性である。
「どうして? 南くんはオシメをしてたときから、南くんでしょ」
「……カレー、バターシュリンプカレーでいいか?」
「ダメ。気分じゃあない」
「なら、どんなカレーが本日のお好みなのでしょうか?」
昨夜――
ちょっとした出来事で不機嫌になって、一晩姿を見せなかった姫鶴は、ふさり意味深に長い髪をかきあげた。
「アイスチャイ」
「あー、ひよこ豆のカレーでいいか? にゃ」
「嫌い」
「ん、じゃ、トマトとカボチャのチキンカレーはどうにゃ」
「んーんー、まぁいいかなぁ」
そんな会話の間にも、南泉はアイスチャイを用意する。
Am10:30
南泉の店のオープンは正午ちょうどである。
一家揃った朝食にすがたをみせなかった姫鶴が、南泉が仕込みをはじめるオープンの1時間半前にやってきた事情など、手に取るように明白である。まぁ言わねぇけど――。
「お頭に顔見せてやれよにゃ」
「悪いのは、あのひと」
「……美味かったんだよ」
「うちの人数知っていて、1ダースしか買ってこなかったあのひとが悪い」
マトリッツォという――
話題の菓子を、一家の家長である山鳥毛が買って帰った。
南泉が3個。御前が5個、日光が1個、山鳥毛が3個ペロリと完食した深夜23時――
ようやく帰宅した姫鶴の分は残っていなかった――
「あのひと、3個食べた」
「オレも食ったし、御前なんて5個食ったぜ、にゃ」
「日光くんはさすがだね」
「お頭。すんげー落ち込んでたし、きょうは2ダース買ってくるって言ってるし、にゃあ……」
「ダーメ」
甘い声。甘い容姿ながら、姫鶴は案外容赦がない。
バーサーカーかよっ。
南泉は溜息をつきつつ、刻んだトマトを鍋に放り込んだ。
まぁ、なんていうか。
御前はもとより。山鳥毛にしても、日光にしても、姫鶴にしても――、南泉の兄たち、親族は、これで身内にめたくそに甘いのであるが。
「兄貴、出来たぜ」
オーブンで焼いたカボチャをトッピングして、カウンターに置く。
姫鶴にとっては朝食になるだろうから、体を先にあたためてもらうためにも、エノキとニンジンの玉子スープも即興で付けた。
そして、
「これだから南くんは、嫌いだ」
コソっと置いたデザートは、南泉と山鳥毛が朝イチでコンビニで買ったマトリッツォ。
「ダーメ? 兄貴がどんなにオレを嫌っても、オレは兄貴が好きだぜ、にゃ」
「南くん絶対に将来後ろから刺される、予言してあげる」
ははっと笑う南泉に、ふふっと笑顔をみせた姫鶴。
「兄貴?」
「なぁに?」
「まだ、ちょっと居られるよにゃ?」
「うん。南くん」
「……」
「カレー、一緒に食べない?」
本日。カレー専門店『月と矢』のオープンは、
店主の事情で、
正午、十五分を過ぎてからのこととなったが、それはまた別の話しである。
[トマトとカボチャとマトリッツォ]