……カタカタと扉を軋ませる吹雪の夜。
冴え勝る敷闇にしろくその姿を浮かび上がらせて、一人の少女が屋敷を訪ねてきた。
ぽうと彼女の姿を照らしていたのは、よく見るとましろな雪のつのかくし。
「……鶴なら助けた覚えはねぇぞ」
昔噺に擬えて告げると、きょとんと目を見開いたあと、ぶんぶんと首を振った。
「鶴女房でも、きゃっちせえるすでもございません!……私、名を幻……浅霧、幻と申します」
そこで、一度言葉を区切って。
姿勢を正すと、ぺこりとまるいあたまを下げた。積もった雪が、玄関先に重い音を立てて落ちる。
「千空様のお嫁さんになるために罷り越しました。……なにとぞ、よしなにお願いいたします」
嫁。……ああ、そう言えば実家の父がそのようなことを言っていた。こんな山奥の別宅に、わざわざご苦労なことだ。
「……ぁ。とりあえず雪が吹き込むから中に入れ。外套(コォト)はそこに衣紋掛け(ハンガァ)があるから脱いで掛けとけ」
そう言って招き入れると、少女は遠慮がちに外套を脱いで、側の衣紋掛けに掛けた。
「幸い、ここには俺しかいねぇし、部屋はいくらでもある。……好きなとこ使え」
廊下を歩きながらそう告げると、少女は縮こまったままあとをついてくる。
……それにしても、あれだけ雪が積もっていたところを見ると、この吹雪のなかどれだけ歩いてきたのだろう。このあたりは交通も不便で、碌に車も走っていない。この天気では駕籠担きすらおるまいに。
「……ところで、こんな雪の中どんだけ歩いてきたんだ?」
「三十町(3キロ強)ほどでしょうか…… 」
カチカチと歯の鳴る音が微かに聞こえて、すっかり凍えているのだとわかる。
ひとつ、息をついて。
振り返ると、着ていた羽織を肩からかけてやった。
「バカか。風邪ひくぞ。……とりま、荷物置いたら風呂入れ。湯殿は好きに使っていい」
そう声をかけた瞬間、夜色の瞳にきらきらと星が宿ったように見えた。
「えっ…あ!それなら私が薪を起こします!身の回りのことはひと通り…… 」
「〜、必要ねぇ。そういうのは、ちゃんと別にしてくれるヤツがいるんだわ」
一人暮らしのはずなのに、と首を傾げる少女に、一旦荷物を置かせて。
屋敷内の案内かたがた、湯殿まで案内した。
……この時代、一般的な風呂は薪で火を起こして湯を沸かす仕様のものだったが、ここでは違う。蒸気で水を加熱し、温水を製造する蒸気式温水製造器を使用している。
「……ジーマーで?」
ぽつりとこぼした言葉の意味はよくわからないが、ぽかんとした表情から驚いていることは察せられた。
「まあ、自家製だから技師の作ったヤツよか性能は落ちるだろうが、湯沸かしのためだけに人雇うのも、こんな雪の中作業させんのも合理的じゃねぇ。……一応、ちゃんと使えてるから問題ねぇはずだ」
まあ、こんなことばっかしてっから、麓の村の連中からは妖術使い扱いだがな。
クククと皮肉げに笑うと、キラキラと目を輝かせながら幻がこちらを振り返った。
「ゴイスー!!これ、千空様が作ったの!?お一人で!?」
予想外の反応に、今度はこちらがぽかんとしてしまう。
「〜、時間なら腐るほどあったからな」
……もう一年ほど前のことになろうか。
分限者(富豪)の家に生まれ育った彼は、家族からの愛情以外は、幼いころから何不自由なく育った。
それが、ある日。
乗っていた車が事故に遭い、諸々を失った。
同乗していた母。……そして、右手の自由。
父からの期待。
利き腕の自由を失った彼を、父は役立たずと判断し放逐した。家族は誰も彼を看る気はなく、見事な手のひらの返しぶりにいっそ笑いが込み上げたほどだ。
養生しろと山奥の別宅を貰い受けたのをいいことに、もとより父の事業を継ぐことに関心の薄かった彼は、思う様学問と研究、探究に勤しんだ。
主に関心を惹かれたのは、化学(ばけがく)。
そうして得た知識でひとまずの義手を拵え、神戸で医者をしている叔父の助けを得て、どうにかある程度動かせるところまで実用化した。十全ではないにしても、両手が使えることは大きい。
そうして絡繰を作り、面妖な機械に囲まれて過ごす彼を、麓の村では妖術使いだの鬼の仔だのと呼んでいた。
先端だけが緑がかった白髪に赤い目と言う風貌が、それに拍車をかけて。
主だった村の者たちはこの屋敷に近づこうとしなかった。
「まあそんなわけで、テメーはめでたく鬼子の嫁に選ばれたわけだが、身の回りのことはこのとおり一人でもどうにかなる。……風呂入ったら好きに過ごしてろ」
淡々と告げると、幻はきょとんと目を見開いた。それはそうか。
定めし父から自分の身の回りの世話をするようにと申しつけられて、ここに来たのであろうから。
「鬼子、ですか?」
「 〜、こんな髪と目だからな」
「……こんなに綺麗なのに?」
「?」
何だか今、聴き慣れない言葉を耳にした気がする。綺麗?誰が?
「千空様のおぐしも目の色も、とても綺麗だと思います!」
やたらとぐいぐい来る。……おどおどして見えたのはなるほど単に寒かったのか。
「んなこたいいからさっさと風呂入っちまえ。……風邪引くだろうが」
そう言った瞬間、くしゅん、とちいさくくしゃみが漏れて。
それ見た事かと幻を湯殿に押し込んだ。
そうして部屋に戻ろうとして、ふと。
あることに気づいて踵を返した。
「おい、着替えと手拭いここに…… 」
ガラッと湯殿の扉を開けたところで、湯気の向こう側の幻はばっと両手で身体を隠した。
「わっ!だ、ダメ、千空様!見ないで〜!」
ハッとして、慌てて戸を閉める。
……そうだ、あまり気にしていなかったが、相手は年端もゆかぬ少女だった。
いずれ妻になるとは言え、そう言ったけじめは必要だろう。
湯気の向こうに見えた、雪よりしろい肩に、なんだか常にない感情が込み上げて。
がしがしと面倒くさげに髪を掻き上げると、ひとつため息をついた。
「千空様っ!先ほどはお見苦しいモノをお見せしてしまい、めん…ごめん、なさいっ!」
縁側で重苦しい暗雲を見上げていると、身繕いを整えた幻がやって来て、深々と頭を下げた。流石に恐縮している様子だ。
「別に気にすんな。湯気のせいでぼんやりとしか見えちゃいねぇよ」
素っ気なく返したが、それでも幻はほっとした様子で胸を撫で下ろしている。
「それはようございました。……早速、お食事の支度をいたしますね!」
「〜、いいわ、そういうのは。食欲もねぇし、今日中に片付けてぇ作業がある。厨房にあるモンはなんでも好きに使って好きに食っていい。俺は好きにするからテメーも好きにしてろ」
淡々とそう告げると、幻に背を向けた。
……父に自分の嫁(つがい)として、金で買われてきた少女。ゆくゆくは祝言を挙げることになるが、嫁と言えば聞こえのいい、生涯の世話係……虜囚と言ってもいい。
それは不憫ではあるし、彼女自身の落ち度ではないが、これまでの自分の生活のリズムを乱されたくない。
……事故で役立たずと見做され、放逐されたこと自体は気にしていない。
むしろ父の後継から外れることで得た自由が、有難いくらいだ。
効率と合理性を重視する父は、全てを自らの掌中で管理せねば気が済まない人物だったから、これまではその事業に関係のない分野を好きに学ぶことなど出来なかった。
山奥の別邸を与えられたことも、外界の騒音から切り離されたと思えば気にもならない。
それから、科学、化学にのめり込むのに時間はかからなかった。何しろ、ここでは一日のすべての時間が己の自由に使えるのだ。
……そうして彼は、父の期待とは裏腹に、引きこもりの研究者へと成り果てた。
そんなふうに、気がつくと幻がここに来てから、ひと月ほどが経過していた。
幻は好きにしろ、との言葉どおり、好きに食事を作り、掃除して家を整え、簡易な家事用に作った絡繰を器用に使いこなしながら生活している。使用人ではないのだからと言っても、好きにしてるだけですと笑顔で返されて毒気を抜かれてしまった。
それでも、作業中や研究中には決してこちらを妨げることはなく、測ったようなタイミングで食事を差し入れに来たりする。
まったく、調子が狂う。
そのせいか、らしくもなく気に入らない、などと言う感情が込み上げてきて戸惑ってしまう。
「あっ、千空様!お風呂ですか?でしたら手伝います!」
「お気遣いおありがてぇが、風呂くらい一人で入れるわ」
無邪気に駆け寄ってくる幻に、ややげんなりしたようにいらえを返した。
「千空様のお世話をするために来たんです!どうか存分にお使いくださいまし♪」
「 〜…… 」
嫁として与えられたと言っても、入浴の手伝いなどに使えるわけもない。
「好きにしてていいっておっしゃいました!千空様のお役に立ちたいんです!」
「……気持ちだけでいいわ、それは」
「それでは私の気がすみません!」
……いい加減、わかれ。
千空は眉間を押さえて天を仰いだ。
如何にそう言った即物的な欲が薄いとはいえ、十七歳(としごろ)の男子として、年端もいかない女子に世話を焼かれるのは気恥ずかしいし、どうかと思う。
「〜……いいから、ほっとけ。それでもどうしても申し訳ねぇっつーんなら、あとで作業の手伝いでもしてくれ」
そう言い置いて、足早に浴室に駆け込むと、ぴしゃんと扉を閉めた。
……ふう。
あたたかい湯に肩まで浸かって、ようやくひと息つくことができる。
幻にも困ったものだ。
ただの使用人なら、暇を与えて追い出せばいい。然りとて、父が嫁として買ってきた彼女はそうはいかない。
父が寄越したことで、おおよその事情は見当がつく。十中八九、借金の形だ。
ここを追い出されたら、行くあてとて無かろう。……そう言う意味では、自分も似たようなものだった。
つまらないことを考えてしまった。
そう自嘲して、湯船から上がったところで、元気のいい声と共に、ガラリと扉が開く。
「お邪魔しま〜す♬」
「ぁ⁉︎」
顔を上げると、襷をかけ、着物の袖と裾を端折った幻が目の前に立っていた。
「やっぱりお手伝いさせてください!」
……頭のネジ飛んでんのか、コイツ。
そんなこちらの様子など意に介さず、風呂用の檜の椅子を据えて手招きをしてくる。
「さ、千空様、こちらへどうぞ♬お身体、洗いましょ♪」
「……いや、いい。構うな」
精一杯平静を装うが、相手はまるで聞いてはいない。
「構います♬」
「……うわっ!」
少女とも思えない力で手を引かれ、半ば強引に椅子に座らされた。
そして、手ぬぐいを桶に浸すと、丁寧に背中を流し始めた。
……何なんだ、コイツ。何を考えてやがる。それとも、何も考えてねぇのか。
さっぱりわからねぇ。
すっかり思考を乱されて、そう独白する。
まあ、口調や立ち振舞いからすると、定めし元は中流程度に裕福な家庭で育ったお嬢様なのだろう。己が言うのも何だが、世事に疎い無垢な少女。……かと思えば時折驚くほど大人びて、落ち着いて見えることがある。
よくわからない。わからないが。
「……テメーには悩みなんざねぇんだろうな」
思いがけず口に出てしまい、ハッと口を覆った。よく知りもせず決めつけるのは、まったくもって理が通らない。
すると、幻はむっとしたようにずいと此方に身を乗り出した。
「まあひどい!私にだってありますわ!」
そこで一度言葉を切って。指を二本立てると言を継いだ。
「ふたつも!!」
「〜……そりゃすまねぇな。けど、ふたつしかねぇならいいじゃねぇか」
宥めるように言うと、幻はいつもの快活な表情を曇らせる。
「……でも、ふたつとも私にとっては大きな悩みなのです…… 」
あの鷹揚な幻をそこまで悩ませる悩みとは何なのか。……知的好奇心が疼いた。
「……テメーがそこまで悩むご大層な悩みたぁ、何だ?」
訊いてもいいか。
問いかけると、両手で頬を覆って恥じらう素振りを見せた。
「ダメです!絶対人に云いますでしょ!」
「……麓の村には言いふらすような知り合いは一人もいねぇが?」
「……友達いないんですか?」
「わざわざソコにツッコんで来るたあ、いい性格してんじゃねぇか」
皮肉げな笑みを返すと、メンゴメンゴ、とまじないのような謝罪を述べて。
「……では、ひとつだけですよ」
幻は重い口を開いた。
「ちょっと失礼しますね」
そう言って後ろに束ねていた髪を解くと、木桶に張ったお湯で洗い流し始める。
もくもくと張った湯気の帳の向こうにぼんやり透けて見えたのは、左半分が白髪、右半分が黒髪と、一風変わった色の髪だった。
「?……何だ?」
「え?」
「そんで、テメーの悩みとそれはなんか関係あんのか?」
問い返すと、幻はきょとんとしたあと、鏡を見て顔を覆った。
「生まれつき、こんな奇矯な髪で……よ、妖怪みたいでしょう?」
「やっぱりヘンですよね!?
両親とも普通に黒い綺麗な髪なのに…伸ばしてみてもダメで……だから普段はこうして染めてるんです」
徐々に小さくなる声に、どうやら本気で髪の色ごときのことで悩んでいるのだと悟る。
「ああああ〜……千空様に見せちゃった……あああ〜〜〜恥ずかしい〜〜 」
じーまーでばいやー……などとごにょごにょ言いながら羞恥に耳まで赤くなる婚約者に、そんなことで、と知らず笑いが込み上げてきた。この世の終わりのような顔をするから、どんな壮大な悩みかと思えば、髪の色とは。
そんなもの、ゆくゆくはみな白髪になるのだし、そもそも自分にしてからが人の髪をとやかく言えるような見た目ではない。
ククク、と声を潜めていたが、たまらなくなって声を上げて笑い出した。
その様子をどこか惚けたように一頻り見守ったあと、幻は白い花のような満面の笑顔を浮かべる。
「笑うとそんなお顔になるのですね」
うれしげな声にハッとして笑いをおさめた。
「 ……〜、悪りぃ。テメーにとっちゃ真面目な悩みだったな」
気遣う言葉に、幻はまたわらう。
「おかしいですもの。仕方ないですよ。……笑われるのは慣れてます」
「……いや、おかしいってより…… 」
適切な言葉が咄嗟に思いつかず、脳内を検索する。……ああ、そうだ。これだ。
「綺麗なのに勿体ねぇな、と…… 」
そこではたと、自らが口にした言葉を反芻して口を覆う。……違う。そうじゃない。これではまるで口説いているようではないか。
そっと視線を上げると、幻が赤面したまま固まっていて。
どうしたものかと途方に暮れる。こう言うことは専門外だ。
「〜……いや、そうじゃねぇ。わざわざ隠す必要もねぇって…… 」
しどろもどろになる千空を、幻は覗き込むようにして微笑みかけた。
「千空様!」
いつもの快活な声に、つられて顔を上げる。
羞含むような笑顔に吸い込まれそうだ。
「私…、この髪のこと少し好きになれました」
「……ぁ?」
意味がわからず、どこか間の抜けた応えを返したところで、腹部からぐう〜〜、と大きな音が響いてぎょっとする。
なにしろ、ここに来てから一度も腹が鳴ることなどなかったから、鳴るものだと言うことも忘れていたくらいだ。
幻は、それにふふっとわらった。
「……ひょっとして、笑ってお腹が空いたんじゃ?」
「笑うと腹が減るモンなのか」
ああ。言われてみれば久しく声を上げて笑うことなどなかった気がする。
「ふふ、じゃあ私、先に上がってお鍋作ってますね。……一緒に食べましょう?」
ね、と促されて、つられたように頷いた。
「……ぁ。頼むわ」
「はーい!ただいま!!!」
元気の良いいらえに、ふと、あることに気づいて言葉を継ぐ。
「ぁ、あと……ゲン」
呼ばれて幻はうれしそうにしゃんと背を伸ばした。……そうだ。そう言えば、きちんと名を呼んだのは初めてかもしれない。
「そんなガチガチに喋られんのも、様とか呼ばれんのもなんか据わりが悪りぃ。
好きに呼んでいいし、口調ももっと砕いて構わねぇ」
使用人じゃねえんだから、と言い添える。
「……じゃあ、あの……千空ちゃん、って呼んでいい?」
馴染みのない呼ばれ方ではあるが、時として兄妹間でそう言った呼称が用いられる場合があること自体は知識として知っている。
「ぁ」
頷くと、ゲンはやったあ!とうれしそうに笑った。良家の令嬢らしからぬ口調ではあるが、むしろ、今までより自然体に見えて好ましい。
ぱたぱた、と軽やかな足音が厨房の方へと消えていって。
もう一度湯船に浸かると、長く息を吐いた。
……ゲンは本当に気に食わない。せっかく得た自由を満喫して、思うさま研究に没頭する気でいたと言うのに。
ゲンが来てからは、調子を狂わされたり、笑わされたり。
「ハイ、千空ちゃん♬たくさん召し上がれ♪」
あたたかな湯気の立つ椀を手渡されて、口をつける。……ほっこりと身体の中まで温まるような、やさしい味。
差し向かいには、笑顔で相伴してくれる婚約者の少女。
それだけで、いつもの食卓が補給ではなく食事の場になったような気がした。
そして、如何せん。
腹が減るようになってしまった。
……その日は結局、茶碗に三杯もおかわりをしてしまって。腹がくちくなると同時に猛烈な眠気に襲われ、気がつくと居間で二人、布団にくるまって眠ってしまっていた。