この世界は幸福に満ち満ちている。少年は歳に見合わず誰よりもそれを弁えた子どもだった。
見よ、慈しみで大地を温めるエーギルの双眸。そのぬくい土を食む穏やかなジョーリアの獣たち。それらに引けを取らないほど優しく彼の名前を呼ぶ最愛の姉の声。
この幸せは決して当たり前のものではないのだという強迫観念は、常に彼の背をついて回った。彼にとっての人生はいつ崩れるともしれない薄い世界の殻を踏んでいるようなもので、その有り難みも知らずに日々を浪費する他人を蔑む老獪さが少年にはあった。……儚いものが全て尊いわけでもなく、アナクサゴラスが尊敬しているのは最愛の姉の得難い美徳だけではあるけれど。
風にそよぐ草原と赤土の匂い、吹き抜けるような青空ばかりの少年の視界の中で、美しい姉の心根だけが全ての支柱であると言っても過言ではなかった。生きることすらおぼつかない弟を献身的に看る姉の存在を当然のものと受け止めない良識が幼い少年にはあったし、若くして両親を失い重い仕事と役立たずの家族だけが残された娘が全てを捨てて逃げ出さなかった覚悟と愛を、彼は誰よりも尊んでいた。そんな荒れた手に金貨を降らせることはできなくても、出来る限りの好天と時折の慈雨で応える世界のことも。
だから少年は夜毎生まれつき片方しかない瞳を閉じて唯一神に祈るのだった。全知ではなく全能でもない父祖たるタイタンが、それでも人々の幸福のために苦心してくれている感謝を。
心の中で思うのは勝手だが、口に出してしまえば他人からの顰蹙は避けられない。一柱で世を支えるタイタンの全能を疑うとは、オクヘイマの司祭たちに知れたら袋叩きにされても文句は言えないだろう。とっくに神殿への出入りを禁じられて久しい少年は、かえって無為な時間を取られなくなってよかったとその日大樹の下で工作に勤しんでいた。
子を連れた大地獣がアナクサゴラスごと見守るように側で土を食んでいる。腹を見せて日を浴びる仔獣を眺めながら、少年は木材でできた小鳥をいじり始めた。既に事前にいくつか設定された囀りを響かせる機構は組み込めているが、これが一言でも伝言できるようになれば大層便利だろうという目論見である。大地獣の卵のための孵化装置、硬い地層を掘り起こす大きな器械、彼の発明は身体の弱い自らの代わりに姉の助けになるものばかりで占められている。
風が梢を揺らす音ばかりが耳に響いて、だから少年は町からやってくる騒々しい人々になかなか気づけなかった。大地獣の母親がぐるりと首を回し、転がっていた我が子を立ち上がらせる。そうして人間の子を促すようにぐう、と唸って、そこで初めてアナクサゴラスは辺りを見回して明らかにここを目的地にしている彼らに目を細めた。
立ち上がって背伸びをすれば、まだ小さくしか見えないがあの成金めいた衣装は町長である。司祭長とその弟子が二人、彼らに囲まれた白い人影に見覚えはないがその仲間であることは間違いない。アナクサゴラスが自由に神を批評する度に口を酸っぱくして叱りつけてきた面子に彼はあからさまに唇を歪め、「すぐに帰ってきて」の鳴き方に合わせた木の小鳥を姉の下へ飛ばす。と、そこで中心の人物も少年が気づいたことに気づいたようだった。
こちらに手を振り、引き留めようと泡を食う周囲の人間を蹴散らし、ずんずんと歩いてくる人影にアナクサゴラスは思わず隠れる場所を探したが、あいにく周囲はだだっ広い草原と赤土ばかりで、点在する樹木などなんの足しにもならない。走って逃げたが最後内臓がいくつか誤作動して倒れるのは目に見えているので、子どもはひとまず仔獣の傍にぴったりくっつくことにした。悪意のある人間なら母獣に踏み潰されて終わるだろう。
白いコートが乾いた風に翻り、陽射しに照らされた白髪もそれに劣らぬほど眩しい。長剣を下げた立ち姿はすらりと背筋を伸ばして、嫌味なほどに長い脚でどんどん距離を詰めてくる。慌てふためいた背後の男たちを見るのは痛快だったが、目的地がここであるのは油断ならない。
息も切らせずこちらに駆け寄ったその人は、間近で見ればまだ青年と言ってよかった。目には年若い輝きを宿し、屈託のない笑みを浮かべるとアナクサゴラスに目線を合わせて膝をつく。一縷の望みをかけて見上げた大地獣はひどく穏やかな眼差しで人間を見下ろしていた。
「――君がアナイクスだね?」
「……私のことはアナクサゴラスと呼んでください。どなたですか?」
そのときの青年の表情ときたら、なんとあらわすべきかわからなかった。寂しさ、期待、落胆だろうか。それでもその水面には満足感――喜びがあって、それもけして嘘ではない。まったくいじましい――この町にはアナクサゴラスより年下の子どもなどほとんどいなかったから、彼のその表現は常に年上に向けられるものなのだが。
「ケファレ様!」
ようやく追いついた司祭がほとんど絶叫じみた声で青年に呼びかけた。大慌てで少年の頭を無理矢理下げさせようとして、唸り声を上げる大地獣に怯えて飛び退いている。まったく度し難い愚かさだった。
「申し訳ございません、ケファレ様――私の力不足でございます、この子どもは神のなんたるかをなにもわかっておらず……哀れな子なのです、生まれついて身体が弱くて、いえ、いえ、けしてケファレ様のせいでは……神の与えたもうた試練です、それを乗り越えるのが」
「うん、うん」
司祭の妄言を軽くいなしながら、さりげなく子どもから距離を取るよう勧める手腕は只者ではない。どうにか青年を立たせようと周囲を回り続けるお偉方を二言三言で引き離し、改めて唯一神の名前で呼ばれた青年はアナクサゴラスと視線を合わせた。柔らかなベビーブルーの瞳。
「君のお姉さんから手紙を頂いたんだ。こんなところ――と余所者の僕が言うのは乱暴だね、小さな町にいるにはもったいない、とても賢い子がいますって。どうか弟の才能を見極めて、神悟の樹庭で学べるようにお計らいくださいってね」
「……姉には申し訳ないですが、無駄な手間でした。私はここを離れるつもりはありませんから」
「君はここが好きかい」
「姉の側が。役立たずの身体ではありますが、私の幸福のことを言うなら、それが前提条件なのです」
「……貴方は本当に、お姉さんのことを愛しているんだね」
さて、またその表情だ。眩しいものを見たように目を細めるくせ、そのおもてにはまるで黄昏のような翳りがある。その度に、アナクサゴラスは最初の年若そうな印象を少しずつ修正しなければならなくなる。
「……でも、よければお姉さんと話をさせて欲しいな。大切な君を送り出そうとするなんて、きっと並々ならない決意があったんだろう」
「私たちの家でよければ、どうぞ。先ほど姉を呼びましたので、すぐ戻ってくるでしょう」
「呼び戻したって、どうやって? もしかして手紙に書いてあった、自律して飛び回る小鳥の細工かい? ――すごいな、もう金糸もないのに、手紙より早くやり取りができるなんて」
怪しいといえばもの凄く怪しい。けれど大地獣たちは彼を警戒していないし、なんなら仔獣がその髪を食もうとすることさえ母獣は止めていない。どんどん顔色が悪くなる町長たちを尻目に、青年は「失礼」と声をかけてアナクサゴラスの矮躯を抱き上げた。
「軽いなあ。身体が弱いとお姉さんは書いていたけれど」
「内臓が少し足りないだけです。――貴方は本当にケファレなんですか」
この世界でケファレと言えばもちろん唯一神のことしか指さない。かつていた十二柱の神権を統合し、今はただ一柱で世界を背負っているタイタン。その勇姿を写した銅版画を昔さんざん見せられたものだが、もちろんこの青年とは似ても似つかない。
「そうだね。より正しく言うなら、僕はケファレから剥がれ落ちた人間性になるのかな。もちろん世界の維持をサボっているわけではないよ。どちらが主人格かは別として、端末……この言葉はもうできていたっけ……」
何事かをぶつぶつと呟き、青年は僅かに少年を抱く腕に力を込めた。少しばかり彼の緊張が伝わってくる。
「……よければ、君にはファイノンと呼んでほしい。タイタンではない、僕の名前だ」
世界を背負う神にしては随分と柔らかい響きをしている。そう笑ってやろうと開いた口から、何故か音は出てこなかった。
「……ぁ、」
蒼穹を映した瞳が見開かれ、とてもわかりやすく狼狽え始める。せめて唯一神を名乗るなら常に泰然としていなさいと思うのに、じわじわとその顔すら見えなくなっていく。
「え、ごめん、嫌なら無理にとは言わないんだ! 強制するつもりもない! ……あの、どこか痛むのかい? 具合が悪い?」
少年の世界にはいくつか前提条件がある。姉の側にいつまでもいることが自身の幸せであること。世界が優しいのは、全知でも全能でもない神さまの献身のためであること。
身体のパーツがいくつも足りない己が今日まで生きてこれたのは周囲の人間のおかげであることもきちんと弁えているように、世界がこのようなかたちをしているのは目の前の彼の尽力なのだ、という暴力的な実感が突然少年の胸に去来した。これまでのほんの僅かな人生を塗り潰すような情動が彼の胸と喉を塞ぐ。
「っ――ファイノン、ファイノン」
その瞬間、少年は確かにこの世の全てをわかった気になった。目の前にある青年の首を抱き、まだ分別もつかない子どものように泣きじゃくる。
「ファイノン……貴方が、私の幸福を組み立ててくれたのですね」
ひとつしかない瞳からぽろぽろと涙が溢れ、青年の襟を濡らした。戸惑ったように子どもの顔を覗き込んでいた双眸が、徐々に確信を帯びて歪んだ。
「……ごめん、貴方はいつも、なんでも知っているんだね」
片腕で軽々とアナクサゴラスの身体を支えたまま、大きなもう片方の手のひらがまるい頬を拭う。何故だかそれに更に嗚咽が溢れて、必死にその肩にしがみついた。優しい大地獣が身を寄せて二人の上に影が落ちる。
そんなつもりじゃなかったのに、と少年は瞬きを繰り返した。ただ、ひどく懐かしい気持ちになって、彼の顔をよく見たくなっただけなのに。
再創世をキメたはいいけど大事な友人たちをまたタイタンにして永遠に働かせるのが嫌すぎて「そだ!!!!!僕が全部やる!!!!!」と神話の最初に他の11柱から神権を奪ってしまい唯一神になったケファレ=ファイノン
なので前回黄金裔は半分くらい寿命で死んでるし、アグライアがいないからスマホもない
生まれ変わった友人全員の顔を見にいくことにしてたけど、なんとなく勘づいたのはトリとアグぐらい
先生も直感で気づきかけたけど「ケファレへの猛烈な感謝と好意」の出力にしかならなかった
という説明を本文にちゃんと書きなよ〜