守衛の猫「今どんくらい溜まってる?」
裸のまま埃っぽい床に転がりながら、新堂のかすれた声に鼓膜をゆすられた日野はそちらに顔を向けた。新堂は先ほどまでの火照りの余韻を皮膚の上に浮かべたまま、天井を見つめている。ひとりごとのような声色だった。
「性欲の話じゃないよな」
「バカか。今やったばっかじゃねえか」
「はは、だよな」
さきほどまで日野の世界を落書きのように歪めていたドラッグは、射精と共にすっかり抜けていた。これこそがダブルミーニングってなもんだな、という日野渾身のジョークは、以前言ってみたら容赦ない肘鉄を受けたのであれ以来言わないようにしている。
新堂が言う所の『溜まってる』ものは、ふたりで共有しているビニールポーチの中身のことだ。猫のキャラクターが守衛をするそれは、これまで新堂や日野が懸命にかき集めた全財産が納められた、ふたりの共有金庫になっていた。
貯金を始めたのはたしか、新堂と出会った日だ。今日とは打って変わって、熱せられたマンホールの上にミミズの死体が張り付く真夏だった。まだ青年というには青さが足りないような子供だったが、そのころにはもう日野はひとりで生きる術を身に着けていて、日課のスリの最中だった。夏は人々が薄着になるから、スリが簡単になる。
表通りでサラリーマンの尻ポケットからいくつか財布を抜き取り、じりじりと照りつける日差しから逃げるように路地裏に滑り込んだ。すり減ってしまいすっかりぼろきれの様相になったスニーカーでは守り切れなかった足の裏を冷やすため、スニーカーを脱ぎ捨てて室外機からの排水でじとりと湿った土の上で一息つく。
物量を減らすため、財布のガワから現金を抜き取っていく作業を行おうとしたとき、自分がいるより更に奥から、猫の鳴き声が聞こえた。発情するにはすこし遅いし、ずいぶんとブサイクな声の猫だった。
「げぇ」
どんだけブサイクなツラした猫なんだろう、と思いながら覗き込んだその先、毛むくじゃらの男の尻をみて日野はつい声をあげた。どうやら猫の声はその巨体の下から聞こえてくるようだった。日野の声に気付いた男はびくりとしてこちらを振り返ったものの、日野の薄汚れた貧相な風体を見て安心したように目を逸らす。男が揺れるたび猫がうぎゃ、うぎゃと鳴くので、日野はなんだか面白くて、黙ってその様子を観察し続けた。
だいたい十分がたって、男が全身を硬直させ、尻を深く落とした。その頃には日野はもうすべてを理解していた。ブサイクな声の主は猫ではなく、それなりに小綺麗な顔をした少年で、男はその少年を犯している真っ最中だったというわけである。少年はもううぎゃ、うぎゃと鳴かなくなっていた。途中一度大きな声を出した際に男から殴られたからだ。自分の鼻血で溺れかけて酸欠なのか、視線が定まらず顔は真っ白に青ざめている。血と精液に塗れながら地面に転がる少年を足で小突いて、男は日野に目を向けた。
「おい、お前」
「え?」
「駄賃やるよ」
男は、見られると興奮するんだよ、と黄ばんだ歯を見せて笑って、路地裏から消えた。
受け取った札を一枚、先ほど整えた収穫に織り交ぜながら日野は少年に近づいた。微動だにせず転がる少年は、この世の地獄みたいなにおいを全身から立ち昇らせながらも、虚空を見つめる瞳がキラキラとかすかな光を反射させていて、日野はなんだかその瞬間、世界一綺麗な存在に見えてしまった。
だから、自分だけの城に連れ帰った。ため込んでいた大事な雨水を使って体を洗ってやり、お気に入りのソファに寝かせた。寝息を立てるその姿はやはり、日野が生きてきた世界では見たことのない色をしていた。薄い皮膚の下に虹色が広がっていて、髪は夜が怖くなくなるぐらい暗くて、瞼を指で持ち上げてみれば、その向こうの瞳は眼が眩むほど眩しかった。
日野は生まれて初めてのキスをした。
「だいたい九割くらい溜まったかな」
あれから何度キスをしただろう。日野は新堂の問いに正しく答えてやりながら、またひとつキスをする。
「じゃああと少しだな」
「そうだな」
「楽しみだ、あのクソ野郎を殺すの」
「楽しみだな」
この城を手放すのは少し惜しいけれど、日野にはこの腕の中に収まる人間さえいればよかった。
人を殺してなお逃げ延びられるだけの金を、今日も猫が守り続けている。新堂はその柄を嫌っているようだったが、日野はひどく好んでいた。その理由を、死ぬまで言うつもりはないけれど。