明日僕はただの犬になる。「……さようなら、彰人」
明日も会えるはずなのに、それはもう今日とは違う関係だと知っている。また明日なんていう約束はしてはいけないと知っている。──そんなこと知りたくなかった。
「……はぁ」
「彰人……」
「自分でどうにかする。だから気にすんなって言ってんだろ」
普段とは違う、憂鬱を溜め込んだ息が吐かれるのを見たのは何度目だろうか。そんな些細な違和感を感じ取りながらも、解決できる問題だと当人に言われてしまえばどうすることもできなかった。頼ってほしい気持ちはある。だが頼って欲しい時はちゃんと言ってくれている。当人がああ言っている以上強引に聞くのは憚られた。
──しかし数日経っても彰人のため息や、集中力の削がれ様が普段通りに戻ることはなかった。解決できるといった手前頼ることができない、そういうことならば助け舟を出すべきなのだろう。だが何度頼れと言おうと、それに彰人がその言葉に乗ることはなかった。それどころか日に日に食まで細くなっていっているのが目に見えてわかる。昨日まで食べていた量を今日は残し。そして明日は今日食べ切れた量を残すのだというサイクルが予想できるほどに、生気が薄くなっていた。
そんな状態ではやはり練習も集中できるなんてことはなく、それこそ最悪な仕上がりと言い切っていいほどに酷い有様だった。最低を更新していると彰人だって気づけないはずない。流石にこんな状態になってしまえば見逃すことなんてできなかった。
「彰人」
「…………わかってる」
「いや、わかってない」
わかっているのなら、何故頼ってくれないんだ。そう呑み込んだ言葉は言わなくても伝わっている。店内の室温はそこまで高くないはずなのに背中に汗が伝う。
「何があったんだ」
「何でもねえよ」
「頼ってくれと言ったはずだ」
「何でもねえって」
「何でもないなら何故俺を見ないんだ!!」
先程から一切こちらの顔を見ようとしないおかしさに気づかないわけがなかった。先程なんてものではない練習が始まってから、いやそれ以前から目を合わせた記憶がない。
「うるせえつってんだろ!!」
彰人の叫びが店内に響き渡る。ぽつぽつといた客たちも何事だとこちらを見ている。
「二人とも、外で頭冷やして来た方がいいと思うけど?」
白石の一言で頭に登っていた血が下がっていく。この店に迷惑をかけるのは互いに本意ではない。静まり返った店内では再び声を発するのも憚られ、白石の提案に従うのが最善策だった。
「すまない二人とも」
「ううん、気をつけてね。東雲くん、青柳くん」
「……っくそ」
彰人を連れ、公園まで歩く。夕方のこの街に吹く風は冷たく頭を冷やすのには最適だと言える。無言の時間が続く。どちらから話を切り出すべきなのかはわからない。だがきっと彰人から口を割ってくれることはないのだろう。冷えていく頭と自分はどうするべきかという焦燥感を感じながら乾いた口を開く。
「……話してくれないか」
「話したくねえ」
「苦しんでいるのをそのままにしておけないんだ、彰人」
「冬弥……」
少しだけ苦しそうな表情が緩む。
「ただ」
「ただ?」
「……お前と付き合えたら、幸せだろうなって思っただけだ」
「どういうことだ」
「そのまんまの意味だよ、オレにはそんなことできねえけどな」
陽の光に照らされた表情から目を離せなかった。ここが何処だか忘れてしまいそうなほどにその表情に惹き込まれたのと同時に、酷く胸の内を掻き乱される。
幸せになるために付き合うことが必要ならなぜその願いを叶えようとしないのだろう。彰人が必要とするなら、俺は何にでもなれる。友人でも、ライバルでも──恋人でさえも。同じ気持ちを返せるわけじゃない。偽りだと知っている。それでも彰人が必要とするのなら、恋人にだってなれるのに。
「彰人」
「んだよ、今のは冗談だ。忘れとけ」
「お前がそうなりたいのなら、俺はそうする」
「……は、なに」
「付き合うことが幸せになるのなら、苦しみを取り除けるのなら、俺は彰人と付き合うと言ってるんだ」
自分の考えがおかしいとわかっていながら、口から溢れるそれを止めることなんてできなかった。相棒の力になりたいという考えが行き過ぎている自覚は十分にある。それを制御する力を持っていない自覚もまたあった。
「お前っ……同情で付き合ってはい楽になりました、なんて言えると思ってんのか?」
胸ぐらを掴まれ息が止まりそうになる。しかしここで折れるわけにはいかなかった。
「同情、なのかもしれない……だが、俺は彰人が求めるならどんな関係にだってなれる」
「頭でもおかしくなったのかよ」
「何とでも言ってくれて構わない」
突き飛ばされ解放される。自分の相棒が言っていることが信じられないのか、彰人はずっと怪訝な顔をしてこちらを見ていた。こんな時になぜあの時を思い出すんだろうか。無意識に左頬に手を重ねる。あれは彰人の為と言って自分のやりたいことから逃げただけだった。だけど今は違う、隣に立てることが何よりも大切だと知った。彰人の隣に立てるのなら俺は関係なんてなんだっていい。
「……明日だけでいい、明日判断してくれればいい。お前の恋人になるから、必要ならずっとそうするから」
「っ、明日は……練習があんだろ、そんなことに付き合ってる暇はねえ」
「彰人!!」
「自分で解決できる。今日は無理かも知れねえけど、すぐに元の調子に戻すから……忘れろ」
これ以上引き伸ばしても解決なんてできないことをわかっているはずなのに、何故気丈に振る舞おうとするのだろうか。伸ばした手は腕を繋ぎ止めることなく宙を掻いた。
「オレは!! このままのでいい」
酷く冷たい風が頬を打つ。これ以上言葉を交わす必要はないと、彰人は何も言わずに戻って行ってしまった。
だが打つ手がなくなったわけではない。恋人にしてくれという懇願に驚いた表情は期待だったのを見逃しはしなかった。冷たい風は今の自分を蔑むものではなく、冷静にさせるものだ。頭は十分に冷えた。だから自分がやるべきことも見えた。多少強引でもいい。今の彰人にはその手段しか通じない。
weekend garageに戻れば先程見送ってくれた時と変わらず明るい声が出迎えてくれた。
「おかえり〜」
「お帰りなさい」
「二人とも、すまなかったな」
「冬弥はちゃんと頭冷やせたわけ?」
「あぁ、十分だ」
二人から距離をとっている彰人の姿を横目に、現状を打破するための作戦を実行に移す。
「それで急で悪いんだが、明日の練習を休みにさせてほしい……彰人も」
「は? 何言って」
「いいよ」
全てを言い切る前に白石が彰人を抑えた。チーム全体を見ている点で二人には敵わないなと思う。
「杏!! お前も勝手に何言ってんだよ。オレは休むなんて一言も」
「冬弥は、何かあるんでしょ。それにあんまり集中できてない人間と練習しても意味ないって、誰が一番言うと思う?」
「……くそっ」
やはり自身が一番自身のことを理解してしまうのだろう。急遽得られた休みという貴重な時間で彰人との関係のずれをどうにかする為に、申し訳なかったがすぐに行動しなければいけなかった。
「明日のために今日は早めに切り上げてもいいだろうか?」
「うん、私は平気だよ」
「こはねが許可しているので、私も異議なし。まあ納得していない人がいるけど、多数決ってことで、ね」
イラつきを隠さずにそっぽ向く彰人の背中を見つめる。これは彰人が望んでいることではないのかもしれない。けれどもどこかで望んでいることでもあるはずだ。
練習を切り上げ、無理やりに手を引いて渋谷の街へと繰り出す。彰人は初めは強く抵抗していたが、次第にこちらが折れることはないと気づいたのか、嫌々ながらついて来てくれていた。人の海をかき分け目的地へ進む。
が、ここで困ったことになった。明日は恋人になる予定で、それに相応しい服を買いに彰人を引っ張って来たのだが、何処に行ったらいいのかがわからない。普段の服は基本的に彰人が選んでくれたものを買って来ている。いつも連れて行ってもらっていた結果、デートに相応しいような服を買う場所を覚えていなかった。
「彰人」
「……んだよ」
「おすすめのショップはあるか?」
「はぁ?」
「明日の服を買いたいんだが、その……どこで買えばいいのかわからないんだ」
「はぁ〜〜お前、そういうところあるよな」
呆れられたのは表情を見なくてもひしひしと伝わってくる。付き合ってられないと本気で怒られるだろうかと不安になって視線を下に落とせば、再びため息が聞こえてきた。
「ついて来いよ」
「っ! いいのか?」
「お前が言い出したことだろうが」
「ありがとう彰人」
振り返らずに進んでいく背中を追いかける。見捨てようと思えば見捨てられるのに、それでもこうやって優しくしてくれる彰人のそう言うところが好ましかった。
彰人に連れられ着いたショップはカジュアルではあるもののキレイ系なセレクトショップだった。どんな服がいいか悩んでいれば、彰人がアドバイスをしてくれる。何度かアドバイスをもらいながら考えていたはずなのだが、そうこうしているうちに気づいたら彰人のマネキンのようになっていた。
生ぬるい笑顔を店員から投げられながら何種類か服を合わせられ、試着室に放り込まれる。それでも彰人に何か意見することはなかった。着心地の感想を聞かれたら答える。自分の意見がそれだけになってもコーディネートへの信頼は、自分自身以上に彰人を信用していた。
「こっちのがいいかもな。ゆるっとしたラインじゃなくて、こういうのもたまにはいいんじゃねえの」
チェックのチェスターコートに白のタートルネックを合わせられる。そこに普段はあまり身につけないような細身のシルエットのパンツを当てがわれた。
「どうだ?」
「あまり普段着ないが、彰人が言うならこれにする」
「お前な……」
「似合うんだろう?」
「そりゃ、びっくりするほどな」
「じゃあ、支払ってくる」
彰人から褒め言葉を貰いほくほくと会計に向かう。渋々付き合ってくれているのはわかっている。だが今回の買い物でも少し楽になってくれればいいなと思いながら、会計を済ませた。
「待たせたな」
「……いや」
「彰人。その、明日は来てくれるだろうか?」
ここまで強引に付き合わせたが、明日来てくれるかどうかは本人次第。付き合ってられないと明日見捨てられる可能性がないなんて言い切ることはできなかった。
「……はぁ、ここまで付き合わせておいて弱気すぎだろ」
「!!……そうか、良かった」
「……どっか連れてってくれんだろ」
「あぁ」
──俺は明日、彰人の恋人になる。
彰人が昨日選んでくれた服に身を包み、家を出る。予定通り集合の10分前に駅に着き彰人を待つ。スマホに目をやりながら、周りを眺めれば一直線にこちらへ向かうオレンジ色が見えた。
「おはよう、彰人」
「はよ」
彰人もいつものカジュアルなストリート系の服装ではなく、俺のコーディネートに合わせたのか大人っぽい格好をしていた。普段と違う装いに見惚れていれば、彰人の声で意識を引き戻される。
「で、今日は何処いくんだ?」
「今はまだ秘密だ、もうすぐ電車がくるから行こう」
昨日と打って変わって大人しく着いてくる。休日の朝ということもあって駅の周りは人で溢れていた。彰人に限って迷子になるなんてことはないと思うが、離れてしまわないようにスッと手を繋いだ。突然の事にびくりと反応した指先を逃さないように握る力を強くする。
「逃げねえよ」
「人混みに紛れないようにだったんだが……」
「行き先知ってたら、迷子になんてならねえと思うけど」
「それは聞けない相談だ」
彰人の提案を却下し、行き先を告げないまま道を進む。改札を通り抜け、離れないように再び手を繋ぐ。今度は繋がれたことに驚かなかったのか、それどころか意趣返しなのか彰人から力をこめてきた。細やかな抵抗に微笑みを溢したのを背に隠し、目的の路線へと足速に向かう。
この時間帯にこの電車に乗る人は少ないのか、ぱらぱらと人はいても座ることができた。長旅になるだろうということを考えて座れたのは幸運だろう。幸先がいいことにほっとしていると脇腹を小突かれる。
「なんだ?」
「なんでもねえよ」
もしかしたら笑っていたのがバレていたのかもしれない。そんなたわいもないやりとりに些細なことかもしれないが安心する。この間の姿からは想像もつかないほどに普段通りな感じがするのだ。こんな時間がずっと続けばいいと時間の流れに身を任せた。
乗り換える駅で軽くではあるが昼食を取り、再び電車に揺られる。段々と変わっていく景色を眺めながら、人が移り変わっていく車内で時間を潰す。そうしているうちに、目的地に到着するアナウンスが車内を流れた。
「彰人、着いたぞ」
渋谷駅から数時間、電車を降りた先には都会の焦燥感とはまた違った人の流れがあった。駅から一歩出ると、空が青々と広がっている。高い建物が少ないこの場所は空がいつもより大きく見え、清々しい気持ちにさせてくれた。
目的地に着いたという達成感からか、微かな空腹感が顔を覗かせる。昼食は食べたと言っても軽くでしかなく、高校生男子にはやはり足りなかった。しかしそれも計算のうちである。ちょうどいいタイミングだと彰人に声を掛けた。
「お腹空かないか? 彰人」
「ん、あぁ、少しな」
「昼は軽くすませただけだったからな、評判のいいカフェを調べておいたんだ。今から行かないか?」
「……おう」
「じゃあ、行こうか」
そっと手を引き、あらかじめ調べておいたカフェへの道のりへと歩き始めた。
「ここだ」
木調の白い外壁に迎えられたそこは、テラス席のある目的のカフェであった。店内へと入れば窓際の席へと案内される。おしゃれな雰囲気の内装と、大きめの窓から見える青空で居心地が良い。
メニューを開けば、評判通りどれも美味しそうで、チョコケーキやチーズケーキなど見ているだけでも楽しめそうなほどだった。甘いものは得意ではないが、ここのお店にはクッキーのコーヒーセットがあり、それを頼もうと決めていた。しかしサンドイッチなどもあるそうで、どれにしようか悩んでしまう。
「彰人はどれにするんだ?」
きらきらとした眼差しでメニューを眺めている彰人に声をかける。いや、うーん、など意味をなさない言葉だけが返ってくる。そんな彰人の様子に、楽しめているようだと少し気を緩めた。
やっと頼むものが決まったのか、彰人がメニューから顔を上げる。
「決まったのか?」
「あぁ、冬弥は?」
「決めてある」
定員さんを呼び、彰人はチーズケーキとコーヒーのセットを、俺はクッキーとコーヒーのセットを頼む。
雑談をしていれば時間も気づかぬうちに過ぎ、美味しそうな香りがテーブルへと運ばれてきた。
「いただきます」
「……いただきます」
フォークによって一口サイズに切られたチーズケーキが彰人の口の中へと運ばれる。
「……美味い」
「よかった。クッキーも美味しいぞ、食べるか?」
「いいのか?」
クッキーを一枚手に取り、彰人の口元へ運ぶ。こちらの意図を読めないのか、怪訝な顔をしたまま固まっている。一応、恋人らしいことをすべきなのだろうという考えは間違っていないはずだ。
「ほら、あーん」
「はっ!? んぐっ」
驚いたタイミングでクッキーを口に詰めれば、驚いて咀嚼できないのかクッキーをコーヒーで流し込んでいた。
「大丈夫か?」
「ぷはっ、大丈夫に見えんのかよっ、つか急になにしてんだ」
「こういうことをするものだと思ったんだが……違うのか?」
「はぁ……」
呆れて何も言えないと言うのが顔にありありと書いてあって、少し笑ってしまう。くすくすと笑っていれば、釣られたのか彰人にも笑顔が戻って来ていた。
「チーズケーキ美味かったな」
「ふふ、ちゃんと調べた甲斐があった」
ひとしきりケーキを堪能したおかげか、この前とは打って変わって楽しそうな表情が増えて来ていて嬉しく思う。けれども、ふとした瞬間にあの泣いているような表情が垣間見えるのが不安だった。ここにいるのにここを見ていない表情が不安だった。そんな不安を拭うようにに頭を振り、次の目的地を彰人に提案する。
「海を見に行かないか? ここら辺の海は綺麗なんだそうだ」
「へえ、たまにはいいかもな」
「行こう、ほら」
手を差し伸べれば、恐る恐るといった風に重ねられる。離れないようにとしっかりと握れば、弱い力だが確かに握り返された。
緩やかにオレンジの光に移り変わる時間帯、一歩踏み出すたびに潮の香りが鼻をかすめていく。住宅街を抜け、広い空に迎えられたと同時に、目前に海が広がっていた。非日常的と言ってもいいほどの景色に釘付けになっていれば、先程まで隣を歩いていたはずの彰人に腕を引かれ砂浜へと降り立つ。靴に砂が入るのも厭わずに、さくさくと音を立てて波際へと誘われた。
「すげえな」
「……綺麗だ」
「あぁ……」
心地の良い波音に耳を澄ませば、いつかのキャンプでの出来事を思い出してしまう。あの時の綺麗な夜空や、体験したことはずっと忘れられない思い出だ。四人で自然の音に身を委ねたあの時間と違って、今は二人しかここにいなかった。ふと未だ離れない体温の先に目をやれば、オリーブの瞳もまたこちらを見つめていた。
「なあ」
「どうかしたのか?」
「海、入ろうぜ」
「!……濡れるぞ?」
「コンビニとかでタオル買ってくればいいだろ」
「そうか、そうだな」
普段ではしないような提案に驚きを隠すことはしなかった。動揺して変な気を回したのは否定しない。
濡れてからタオルを買うのは得策とは言えなかったので、先にタオルを買うことにしコンビニへ向かった。探していたコンビニは思いのほかすぐ近くに存在しており、目的のものを買い砂浜へと再び足を踏み入れる。まだ夏ではないのに砂浜で靴を脱ぐのはおかしく、けれども不思議と新鮮な気持ちにさせた。
靴を脱ぐために一度離れてしまった手を再び繋ぎ、裸足で海へと向かう。波の線は不規則で、濡れたり濡れなかったりと自由に足元を流れていく。少し冷たい水に驚きながらも波打ち際を歩き続けた。
「まだ冷たいな」
「こういうのも、いいんだろ?」
「あぁ、新鮮で楽しいと思う」
来た時はまだ水色を保っていた空もすっかり赤くなっていた。潮風にオレンジの髪を揺らしている目の前の存在とあとどれだけこの時間を過ごせるのだろうか。今日という日の残りの時間を表すかのように、日の光が眩しく沈んでいく。
「……また来てえな」
「そうだな」
それからは一言も交わすことなく砂浜で足を濡らして歩いた。それでも、繋いだ先の温度だけは雄弁だったように思う。
靴を置いた場所へ帰りおざなりに足を拭えば、帰らなければいけない時間が迫っていた。
「今日は楽しかったな」
「あぁ」
幸せそうな彰人の顔を見て安心する。だかその安心も束の間のものだった。瞬きした刹那、彰人の表情に目を瞠いてしまう。昨日と同じ、憂いを帯びた表情への変化に動揺を隠すことなんてできなかった。
「あ、きと」
「なあ、今日は本当に楽しかった」
「じゃあ……」
なんでそんな顔をするんだ。
「でもいいんだ、今日だけの思い出でもオレは」
──幸せのままでいられる
「だからやっぱり、この関係は今日だけでいい」
その言葉に眩暈がした。求めてた言葉じゃなかったからなのか、幸せにするのは自分じゃなかったからなのか、酷い無力感に襲われる。でもどこかでわかっていた、今日で終わる関係だと。今日だけでいいからと言ったのは俺だ。
「ずっとこのままでいるのは駄目なのか」
「あぁ」
「この関係を残すことは良くないことなのか」
「……あぁ」
「彰人、どうして」
涙なんて見えないのにどうして泣いているように見えるのだろうか。
「ありがとな。幸せだっつうのは嘘じゃねえ、本当のことだ。今日の思い出だけで、苦しさは消えるのも本当だ」
「じゃあっ」
「けど、お前を縛るのが本当に幸せかって問いかけてくるオレのこと……見逃せねえんだよ」
「縛られていない! 俺はっ、俺も幸せだって」
俺は相棒のためならなんにでもなれるって。
「でも、おかしいだろ? お前のそれは変な執着で、同情なんだよ。一方的な想いなんてやっぱり報われなくていいわ、悪かったなこんなことに付き合わせちまって」
「あ、きと」
「ずっと一緒にいれるなら相棒のままでいいよオレは、こんなのずっと続くわけねえだろ……」
小さく呟かれた声は、一言も途切れることなく耳に届けられた。今日の思い出だけでは自分が彰人を繋ぎ止められないと思い知らされる。永遠なんてものは何処にもない。ずっと続くことなんてどこにもない。俺のこの想いで恋人ごっこをずっと続けられるかなんて保証はない。
「練習も今度からは普通にやるから、そこは安心しろよ。もう引きずらねえから」
「彰人……」
逆光に照らされた笑顔が痛々しく見えるのは何故だろうか。
「もう帰らねえと」
「そう、だな」
「……お前は、いや何でもねえ」
彰人の言いたいことが手に取るようにわかってしまった。
「後悔なんてしていない、俺は……」
その先の言葉を紡ぐ前に、口を塞がれる。
「言わなくても、わかってんだよ」
──お前が酷くて、優しいやつってことは
二人で赤に染まる海岸線を歩く。繋いだ手は暖かいのに、互いの顔を見ることができないほど、そこには距離があった。俺も彰人もこれで終わりだとわかっていたから、駅までの海岸線をゆっくり歩んでいた。
たかが数分、されど数分、歩いてしまえば進んだ距離を戻すことなんてできず、駅にたどりついてしまう。紫混じりに夜に染まっていく空の下でベンチに座り、電車を待つ。繋いだ手を離したくなかった。
「渋谷駅までは、このままでいていいだろうか?」
「……あぁ、いいぜ」
強く髪を靡かせる風が、電車の到着を知らせてくる。繋いだままの手を引いて白い光の下へ行けば、この土地と別れるドアが閉まった。
電車とは無慈悲なもので、何度か乗り換えをするたびに都会の灯りが増えていく。窓に反射する自分たちと見つめ合っていただけで、気がつけば渋谷駅に着いていた。到着のアナウンスとともに手の温度が離れていく。電車を降り、人混みに紛れてしまわないようにと掴みかけた手は、宙を掻くしかなかった。
手は冷えていくまま、別れ道へと向かう。互いに一言も交わさないまま、あっという間に目的地に着いてしまった。
「……オレこっちだから」
「あぁ」
「じゃあ……今日はありがとな」
「……あぁ、またな彰人」
彰人の背中を見送る。目を離さないようにと見ていたのに、すぐに人混みの中に消えてしまった。視界の滲みが原因だろう。ぱらぱらとしかいない人混みで見分けられないわけがない。
「…………さようなら、彰人」
こぼれ落ちた別れに涙が頬を伝う。わかっていた、こんな終わりが来る予想なんて簡単だったはずだ。自分から初めた関係なのに、別れがこんなに苦しいなんて思いもしなかった。でもすぐにこんな苦しみもすぐに消え去ってしまうのだろう。手の温度も唇の柔らかさも、全て夢に消えていくと知っている。後悔なんてしていない。今日の夢だけで苦しみを取り除けるのなら後悔なんてものは無い。
──俺は彰人が望むのなら何にでもなれる。だから関係を無かったことにだって、簡単にできてしまうんだ。