◆論理不合理コントラディクション
白雲(蒼月行き)
「フェリクス頼みがある」
「帰れ」
問答無用で部屋の扉を閉めた。
と思ったが、それは未遂に終わる。ガツリと鈍い音が足元から響いた。その音の原因は、扉の隙間に割り込まれている靴の爪先だ。
「お願いだ、皆に迷惑をかけるわけにはいかない」
どこでそのような礼儀のなっていない小細工を覚えてきたのか。殊勝な様子に反して遠慮なく鉄靴の先がじりじりと侵入する。どちらかがうっかり紋章を発動させようものなら、この扉が破壊されることは必定免れないであろう。
今日一日、猪に付き纏われている。もとより、いくら悪態を吐こうが受け流されてきた。しかし当初はあった遠慮と思しき態度や辛気臭いしおらしさがここ最近どうにも見当たらない。それについ甘んじてる自分にも頭が痛い。意識して突き放そうとしても、昔のような呑気な明るさの片鱗が僅かばかりでも覗いてしまうと勢いが削がれる。
先生のせいだ。何かと俺をディミトリと組ませ課題をさせ実習を行い食事に誘い何故だか合唱の練習までさせられている。なんなんだ。お節介にもほどがある。相も変わらぬ無表情のまま、能天気に応援するような素振りを都度都度向けられているのも苛々とさせられているのに、妙に拒否出来ない空気がある。それは目の前のこの猪にも伝染している気がする。
今も、半開きの扉越しに懇願するように、普段より潤んで見える青の双眸を向けられている。 クソッ。この目を向けられると理屈が脇に追いやられ、どうにも絆されてしまいそうでいけない。
「そんなに、嫌か?」
駄目押しのような一言にグッと詰まり、思わず目を逸らすと同時に廊下の向こうから軽薄そうな声が聞こえてきた。
「よ、王子サマ。何やってんだ?そんなところで」
「クロード。い、いや何でも……おいフェリクス!?」
その声に、咄嗟に部屋に引き入れてしまった。妙な勘の鋭さと察しの良さ、そして人をヘラヘラとおちょくることにかけては赤毛の幼馴染に負けるとも劣らぬ面倒な奴だ。首を突っ込まれて余計な茶々を入れられるなど御免だと、反射的に体が動いた。その判断は誤りでは無いはずだ。
無いはず、だが。目の前でポカンと呆けている猪への言い訳も対処も何も考えていない。
ディミトリが胸に抱えるのは理学の教本。基礎レベルのもので、黒魔術を専門としていない者でも心得ぐらいには丁度良い内容であるらしい。
明日は授業は理学だ。そして、ディミトリは前回の授業でただ一人、最後まで理解が出来ていなかった。
「先生も、理学は専門でやってこなかったんだが」
数日前のことだった。先生が授業で理学を扱い始めた。各々の得手とする武器の扱いや技能の習得し、ある程度の強みを持てたところで一旦全員が魔法職について基礎的なことを理解できるようにするだのなんだのと。くだらんと一蹴し教室を出ていきたいところではあったが、先生の顔に免じ立ち上がるのは我慢した。しかし数十分も経つ頃にはそれを後悔し始めていた。
基礎理論の段階で既に全くもって理解ができない。読んでも文章が頭に入ってこない。課題はほとんど白紙のままだ。隣でじいっと教本を睨みつけて硬直している猪と同様に。
教壇からは、こんなに出来ないものなのか?と。普段は表情が分かりにくい青藍の瞳がその困惑を珍しく雄弁に訴えている。
「……ファーガスで生まれた者は筆より先に剣を握ると言っただろう」
「そ、そうだぞ先生。……魔導は、アネットやメルセデスのように魔導学院で学ぶ者が専門的にするものだ。だから俺たちにはそこまで必要無かったというか」
「じゃあシルヴァンはなんであんなに出来るんだ?」
「……へ!?俺ッ?は、……ええっと」
先生の目線に釣られるようにして斜め後ろへ体を捩ると、癖の強い赤毛がビクッと揺れるのが視界に入った。そのまま気まずそうに視線を向けられる気配を感じて目を下の方に逸らす。同時に、ディミトリも反対側に目を逸らしている素振りが伝わってくる。
先生の言うことはもっともだ。シルヴァンは適当なように見えても昔から要領がよく、その気になれば大抵のことを平然と器用にこなせる奴だった。……だからこそ普段から怠け浮薄に振る舞い女遊びと揉め事を繰り返し馬鹿をしているのは理解に苦しむのだが。
「そ、そのですね!実は魔法とか得意なら女の子にモテるかな〜っと思って前からちっとばかし読みかじってたり!」
「……無理して庇うな。余計に惨めだ」
「シルヴァン、いいんだ。わかっている。生まれなど関係無い、俺の才も努力も足りないだけだ」
沈鬱な声が被る。こんなところで意見が合うなど冗談では無かったが、自業自得であった。
「とりあえず、得意な人に見てもらおう」
アネット、シルヴァンと先生が呼びかける。
メルセデスはドゥドゥーとアッシュに教えているようだ。イングリットの奴は自力で課題を終えられたらしい。あの馬鹿に生真面目な性格が功を奏したのであろう。
「じゃ、フェリクス。やろっか」
そう考えているうちにアネットが机の前でしゃがむ。くりくりとした花緑青の瞳が、やりかけ、と言うよりは殆ど白紙の課題をじいっと見つめている。
「こんなもの、何の役に立つんだ」
頬をついて悪態づく。考え込むような表情は蔑むでも不真面目を責めるでもなく、その瞳が真剣なほど居心地が悪い。ついそのような決まりの悪さが声に乗り、癇に障る調子になったのかもしれん。アネットがピョンと立ち上がって机に両手をつけ、ずいっと詰め寄ってきた。
「何よこんなものって!そりゃフェリクスは強いから、剣だけでも私と違ってみんなの役に立てるかもしれないけど……」
カッとなったかと思えばすぐの言葉尻が弱くなる。怒りたいのかいじけたいのか、忙しない奴だ。くるくると素直に喜怒哀楽を表情に乗せる様子には、常より妙に毒気を抜かれがちだった。仕方なく、ため息をついて弁明した。
「別にお前のことを否定したわけではない。俺がこれを学んでも役に立たんと言うだけだ」
こんなものに費やすよりは、剣を振るっていた方が有意義というものだ。
アネットは王都の魔導学院で優秀な生徒だったと聞く。それこそ、自分のような者にかまけずとも自らの能力を更に向上させる方が余程重要であろう。しかし、当の本人はどうやら違う考えらしい。
「ええ?そんなことないよ!フェリクスよく言っているじゃない、勝つためには得物に拘らないって」
「だからと言ってまだるっこしい理学は俺には向いとらん。時間の無駄だ」
「もー、そうやって最初から決めつけるからちゃんと考えてないだけでしょ。ほら、騙されたと思って頑張ろ?」
「……チッ」
何の含みも無い、前向きな言葉はかえって反論しにくい。結局、舌打ちひとつで我慢して、アネットの理学の解説を受ける運びとなった。
だが、意外なことにアネットの口から整然と組み立てられる理論は興味を惹きつけるものであった。
「……で、この術式の意味は分かったでしょ?これが作用するから……」
理論構造を把握し、計算され定められた手順に則ることで確実に力を発揮する。剣術の型を習得する代わりに術式を記憶し、必要な時に発揮する。剣先が届かぬ範囲や、物理的に間に合わぬ場合の手段として有効だ。
いかに剣技に優れようと、間合いに踏み込めず睨み合いで無為に場を持て余す時間は無駄だ。弓を持つという手段もあるが、得物を多く携えていれば良いというものではなく、また、細い弓矢をいくら引き絞ろうと重装備の相手には歯が立たない。
自分に特別な才があるようには思えないが、武芸と異なり習熟するのに手慣れぬ技能であるというだけで忌避していたことは否めない。手段を選ばんと言いながらも得手とする手段に拘泥していたとは、戦士として三流というものだ。
「ああ、ではこの術式をこちらと入れ替えることで応用が効くのか」
何とは無しに教本の図を見ながら呟くと、アネットが目をパチクリとさせた。
「もう、何よ!フェリクスったらちゃんと理解出来るじゃない!」
「……フン。基礎理論なのだろう。この程度で驕るものではない。さっさと先に続けろ」
妙にウキウキとしだしたアネットへ落ち着かなさを感じながらも、解説に時折口を挟んでは論議の応酬が続く。そうしているうちに想定していたよりもあっさりと課題は完遂した。
俺が課題を終えたことに気づいたディミトリが驚いたように顔を上げた。
「すごいじゃないかフェリクス!」
我がことのように喜ぶ様子にむず痒い気持ちになる。顔を背けるが、どうにもそのキラキラとした気配が煩い。
「……フン。人のを見てないで自分の心配をしろ。お前はまだ出来てないのだろう」
視線を向ける方向に迷い、何とはなしに隣に立つ赤毛の男の方を見やると幾分か疲れたような顔をしていた。
「ほら殿下。フェリクスのやつにも出来たんです。きっと殿下にも出来ますよ!」
「う……。そうだな。続けようか」
いかにも億劫そうにディミトリとシルヴァンが顔を見合わせ、揃って顔を曇らせる。すると、その様子を教壇の上から真顔で見つめていた先生が唐突に切り出した。
「ディミトリはフェリクスに教えてもらったらいいな」
無駄に大きく響き渡る声に、硬直した。なんとなく教室全体も静まり返る。
これは、俺が何か返事をせねばならんのだろうか。しかし、諾より否より先に疑問が口から漏れ出る。
「は?」
「いや先生、出来るようになったといっても急にそんなこと……シルヴァンもいるのだし」
自分の声に重なるように、ディミトリも慌てて続ける。しかし、先生は至って平然とその表情を崩さずに、首を傾げた。
「どうしてだ?苦手なものは、同じく苦手だったが克服した人間に教えてもらう方がいい。シルヴァンだと、どうして分からないのかピンとこないから説明しようがない。そうじゃないか?」
いかにも教師然とした口調で諭してくるその表情は、何を考えているのか読みづらい。だが、言っていることは正しいのだろう。シルヴァンも図星を突かれたように目を泳がせた後、正直に詫びを入れた。
「……すみません殿下。俺の説明だと分かりにくいですよね」
「ならばアネットに」
どうにも雲行きが嫌な方向に進んでいる。それを止めようと応戦するが、その言葉の途中、視界の端で橙色の髪が揺れる。同時に無邪気で何の裏も無さそうな声が、跳ねるような明るい口調で抗議した。
「えー!?せっかく分かるようになったんだから他人に教えてみるといいわよ!」
「そうだぞフェリクス。学んだことは他人に教えることで真に身につく。得た知識を有効活用したいのであれば教えてみた方がいい」
確かに言っていることは正論だ。が。やたらと自分とディミトリとを共同作業のあたらせる日頃の振る舞いを鑑みれば、何らか思惑があるような気がしてならない。
「せ、先生、アネット。そんなこと言われてもフェリクスだって困るだろう。なあ?」
ディミトリも流れを察したのか焦ったように、しかしそろりと何か様子を伺うように視線を向けてくる。
その目に期待するような光を汲み取りそうになって、つい目を逸らした。
「……当たり前だ。何故俺がそこまでせねばならん」
ともかく断固拒否だ。だが、先生は一向に堪えた様子はなく、戯けているのか本気なのか判断し難い表情の薄さのまま、腕を組んで顰め面を作った。
「うーん参ったな。ディミトリが出来ないとなると授業を次の段階に進めるわけにはいかない。ここまでは基本なんだから兵種問わず皆に習得してほしいんだが」
「…………」
その言葉に、ディミトリが心なしか青褪めた顔で先生を見つめた。その青い瞳は、失意を示すように薄っすらと色を失っている。
いかん、このままでは流される。
「……いや、待て。こいつが出来なかったところで」
しかし、言い差した途中で終業を告げる鐘の音が響き、言葉尻は届かず仕舞いとなった。
「じゃあ、そういうことで。頼んだよ、フェリクス」
鐘が鳴り終わると同時に、間髪入れずに告げられる。まるで決定事項のような言葉に対して、つい、反論の糸口を掴み損ねてしまったのは不覚にもほどがあった。
そんなことがあってから数日、チラチラと鬱陶しい視線を受けていたが、ついに今日は理学の授業の前日。あからさまに切羽詰まった顔で猪が迫ってきた。
大体学級の連中も揃いも揃って「フェリクスに教えてもらったら」などと助言をするから悪いのだ。アッシュやメルセデスなどは事情も知らんはずだがあれは先生の入れ知恵なのか。どいつもこいつも要らん気を回してディミトリと自分を関わらせようとする。
だが、一番度し難いのはそれに上手く乗せられている自分自身だ。
「…………」
「…………」
ディミトリを自室に引き入れたものの、何とも切り出せずに気まずい無言が続く。反射的な行動であったことは悟られているだろうが、さりとて折角侵入に成功した部屋を自分から出ていこうとは思わんのだろう。
腹が立つ。頭では分かっているはずなのだ。それが、共に過ごす時間が増えれば増えるほどに自制が効かず、踏み越えまいとした領分を見誤る。自分は何をやっているのかと呆れ果てるのはこれで何度目になるのか。
いつもそうだ。理にかなわぬことは斬り捨てると決めているのに。
戦場で実際に役に立たない知識。
生き延びるために意味の無い能力。
生産性の無い、虚飾と自己満足に塗れた固定観念。
要らぬものを削ぎ落とし、真に必要なものを見据えて己の価値基準を定め、騎士共が奉じるそれに真っ向から対立することを選んだ。
馴れ合うなど無駄なこと。
自らの意思による精神の在り方を安定させ、自立自存を図る。絶えぬ動乱の渦中にあるファーガスに生まれた者として生き抜く道をそう定めたのは、兄上が死んだその日から変わることはない。
戦場で死なないこと、将も兵も死なせないこと、自軍を勝利させること。それに繋がらぬものは不要。想定外の事態にも対応するのは、くだらん精神でも薄ら寒い絆とやらでもなく、合理に則った実利。
「え、と。フェリクス?」
しかし、ただ一つ。ディミトリに対しては出来ない。ディミトリを前にすると、途端に不合理な言動ばかりをしている自分に気づく。
躊躇いがちな声を発した男の方を見れば、嫌というほど体に染み付いた感情が駆け巡る。
ディミトリへの未練など忘れてしまえば良いのに。 諦めてしまえば楽なのに。二年間会わずにいた頃のように、徹底的に関わらなければ何も問題は無いのに。
ひとたび顔を見てしまえば、たったそれだけで。どうして、なんでか、こんなにも容易く揺らいでしまうのだろうか。
陽光を透かす黄金の髪、澄み渡る空のような瞳。
何もかも記憶に違わないのに、張り付けられた嘘くさい微笑が神経を逆撫でして。しかし眼前でそれが緩めば、かつての獣の姿などきっと見間違いだったと。そう信じたくなるような表情を溢して。
苛立ち、郷愁、憧憬、遣る瀬なさ。その全てが綯い交ぜで頭の中に渦巻く感覚を前に理知は無力に溶け去り、口も体も勝手に動く。
だから、この顔が苛立たしく腹立たしく。だというのに、
「……チッ」
――この世で一番、恋しく想っている。
大きくため息をついた。
「手伝ってやる。そこに座れ」
そのまま背を向けるが、付いてくる気配が無い。
「……何をぼさっとしている」
振り返ると、困惑の色を深めたディミトリが伏し目がちで呟く。
「……お前がどうしても嫌というなら、無理強いは……」
「構わん。くだらん意地で他人に迷惑をかける方が馬鹿馬鹿しい。その理由がお前とあらば尚更な」
この言葉がまるで理にかなっていないことなど気付いている。
今日もまた、この男が己の根幹にずかずかと踏み入り揺さぶり、判断を狂わせることを止めることが出来ない。
ディミトリによく似た、しかし決してそんなことはありえない忌まわしい獣が無防備に近寄り。
そして自分もまた、無防備に手を取って。
矛盾に満ちた感情のまま、無機質な理論を説くため教本を開いた。
2020/11/21