◆(また距離感おかしいという話している…)
あの夕焼けの色が恋しい。頬に添えられる素手の暖かさも、間近で感じる温もりも。
フェリクスが、また昔のような距離で接してくれるようになった。五年前には近寄るなと言われたのは、もはや懐かしさを感じる。その時は言う通りに受け入れようと努めた記憶があるが、どうやら自分で自覚していたよりも堪えていたらしい。
姿を見かけるたびに、特に用事も無くとも声をかける。当たり前のように無愛想な返事を返される。
食事をとっているあいつに近寄れば、舌打ちをしながらもさりげなく隣の椅子を引かれる。
就寝の時間に自室に戻るついでに部屋を訪ねれば、相変わらずの仏頂面で眉を顰めながらも招き入れられ、他愛の無い話に付き合ってくれる。そのまま二人寝過ごして狭い寝台の上で目が覚める朝が何度巡ったものかは、もう片手で数えられない。
今まで何もかもを遠ざけていたのに、突然おかしな言動だと取られるのが普通なのかもしれない。もしかして嫌がられるだろうかと心を過ぎることも無くはない。
けれども、一歩近寄るたびに、更に一歩近寄る事が許されている。その確信めいたものを感じてしまえば、みるみるうちに距離が縮まった。
だってあいつは怒ってくれただけだったんだ。張り付けた作り笑いも、獣の暴力性も。俺が殺した俺の心を、ずっと大事に想ってくれていたから。
数年越しに得られた空間は、記憶していたよりも嬉しいものだった。感情を抑えるのは王族に生まれた者としての義務であり務めだ。それを厭う気持ちごと心の隅に追いやっていた。
フェリクスは唯一の例外だ。特別だ。だから何も躊躇うことはない、この距離こそが普通だ。何年の断絶があろうが、体に染み付いていると言っても過言ではない空間が戻ってきただけだ。
それでも、なんだか物足りない。心の距離はきっと埋められているというのに。
それに気づいたのは、寮の階段を上っている時だった。
「あ」
数段上のいるフェリクスの手を掴むと、怪訝そうな顔を向けられた。
「なんだ、ディミトリ」
煩わしそうな口調に反して、わざわざ階段を降りてきてくれようとする。フェリクスは言葉よりも行動の方が素直なのだ。だが、今はそうしてほしいわけではない。
「いや、待て。そのまま……うん、こうだな」
「お、おい。何をやっている」
フェリクスを留まらせて自分はその一段下に足をかけた。そのまま両肩を掴んで真正面から顔を寄せると、困惑気味に眉根が寄った。
「お前の顔を見ようとすると自然と距離が空いてしまう。これなら大丈夫だ」
「お前はまたわけのわからんことを」
「顔をよく見せてくれ。いつもはよく見えない」
声を掛ければ振り向いてくれる。だが、顔を見て話そうとすれば無理が無い距離を取る。近寄っても拒まれることはないが、無理して目を合わせようとはしない。
「それはお前が図体ばかりやたらと大きくなったせいだろうが」
聞いているのか、という声は無視して久々に目と鼻の先の近さでフェリクスの顔をよく見てみる。相変わらず雪のように白い肌だ。自分やシルヴァンも同じくらいの寒い地域の生まれであるはずだが、フェリクスがとりわけ白く見えるのはそういう遺伝なのだろうか。青みがかった夜空のような髪がよく映える色味だ。だが、かつてはふくふくとした柔らかった頬が削がれて精悍な流線を描いている。頬だけではなく、大抵は厳しげに引き結ばれた薄い唇が緩く綻ぶことは少なくなった。
半眼で呆れたように睨みつけてくる目は、長い睫毛がよく分かる。その奥にある蘇芳色の瞳は日の指すところでは黄昏の空を染める夕焼けのような深みがあって、それに見つめられるのが好きだった。幼い頃は自分の青い瞳の方が昼の空のようで綺麗だと言ってくれた記憶があるが、今のこの醜く片目を損なった容貌でも同じように思ってくれるのだろうか。
などと考えていると目の前の顔がため息をつく。温い空気が伝わり、少し遅れてフェリクスの温度だと認識した刹那、胸のあたりがざわざわとした。慣れ親しんだ距離が作る空間にいるはずなのに、慣れない感覚に戸惑いを覚える。
それをよそに、目の前に鮮やかな浅葱色が舞った。
「……そんなに見たいのならば構わんが部屋にしろ。往来の邪魔だ」
視界を占めるのは、踵を返して数段上がったフェリクスの翻った外套だ。
「あ、すまない。嫌ならいいんだ。もう満足した」
カツカツと武人らしい足音を立てる後ろ姿に、慌てて声を掛けて追い縋る。無遠慮過ぎたか。一歩また一歩と踏み込んでしまったが、流石に礼を失していたか。
だが、そんな反省は舌打ちと共に吐かれた言葉にまた許されてしまう。
「チッ……嫌とは言っておらん。幼い頃のようにしたいのだろう。続きはいいのか?」
少し投げやりにも聞こえる物言いは、歯切れの悪さと気まずさのような躊躇いがあった。続きという言葉に首を傾げかけ、思い出した。
幼い頃。顔を見合わせて額をくっつけて笑い合った。その続きには、親愛の証として互いの頬への接吻を。
「嫌じゃ、ないのか」
「別に、今更だろう」
端的な答えに黙りこくったまま歩くと、もう部屋はすぐ目の前だ。
自分の頬が火照っている気がする。濃紺の髪の向こうに見える耳たぶが少し赤いような気がする。
嫌じゃないのはどこまでなのだろう。言わなかった自分も卑怯だが、そのまま諾だけ返したフェリクスも卑怯だ。
いや、違う、友人同士の触れ合いに何もやましいところなど無い。でも二人きりで部屋で見つめ合って口付けあうのはおかしいのかよく分からない。
今まで踏み入れたことが無い距離まで期待してしまいそうな自分も、願われたら許してしまいそうなフェリクスも、止めることなど出来そうもないまま部屋の扉が開かれた。
2020/12/29