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美しい金色の毛並みを持つ大きな獣が、愛玩動物よろしく膝の上で愛想を振りまいている。
これがかつて死に場所を求めて彷徨っていた猪だとは、もはや誰が信じられようか。
「こんなに甘やかされてしまったら駄目になってしまうな……」
木々の蕾が膨らみ、春の訪れが近づく孤月の頃。雪解けを促す陽射しが高窓から降り注ぐ部屋の中、くぐもった声が自分の腹に向けて呟かれた。
謂れの無い非難を受けている。なにしろ、この男は自ら進んで膝の上に頭を乗せて来たのだから。
「おい。勝手に人の膝の上にまとわりついたのはお前だろうが」
長椅子にだらしなくその長い脚を投げ出し、先ほどまで金糸に覆われた頭をごろごろと摺り寄せ、脚を撫で摩りながら腿が固いなどと勝手な文句を言って寝心地の良い位置を探していた。
随分とふてぶてしい猫もいたものだ。いや、こいつを猫になぞらえて良いものか。
ガルグ=マクにいた頃も猫が勝手に膝の上に飛び乗って来た時を彷彿とさせる。するりとしなやかな身のこなしで気まぐれに居座っては移り気に離れる猫たちは、嫌いでは無かった。背中を撫でてやれば大抵はゴロゴロと喉を鳴らして甘えてくるのも愛らしいと感じていた。
だが、間違ってもこの男のように我が物顔でのしかかるようなことはしていなかった。そも、この大男を小動物に例える俺が愚かだったか。そう思いはしたが、なんとはなしに猫相手にするのと同様、陽の光を受けて輝くその毛並みを整えてやる。すると、膝の上で寝返りを打ち、甚く機嫌が良さそうに口元を緩く綻ばせて見上げられた。
「ふふ、そうだな。お前みたいな奴に、こうも甘やかさせるのは俺ぐらいだろう?」
「……フン。抜かせ」
その自信はどこから出てくるのか。否定するのも馬鹿馬鹿しい。猫のように目を細められるが、やはり猫とは似ても似つかない。この図体の大きな猪は愛らしく鳴き声を上げて愛玩を待つような可愛いげなど持ち合わせてはおらん。それどころか遠慮なく腰を拘束してくる猛獣だ。ろくに身動きが取れない。
だが、こいつがこうも気ままな姿を晒けだすことはそう無いだろう。幼少の頃から気付けば理想の王子の型に嵌りに行き、何かにつけては誰かの求める姿ばかりを追っていた。獣たる本性も、結局は誰かのためにその猛威を奮うというのだから仕様の無い。
だとすれば、これは猪を手懐けたとでも思っておけばよいのか。獰猛な害獣がすっかり野生を捨てて腹を見せ寝そべっている、この喩えの方が納得が行く。
眼下の猪を見やるとブーツの金具を手持ち無沙汰に弄って遊び始めた。壊すのは勘弁してもらいたいが、今ならば猫じゃらしでも振ってやってもいいくらいだ。
ならば多少の溜飲は下がるな、と目を眇めて笑ってやれば、視線に気づいたディミトリは神妙そうに眉根の下がった顔を向けて来た。
「お前……」
「どうした?」
猫じゃらしはさすがに無いか、と思いながら首元を掻いてやると、白皙の頬がほんのりと色づく。
「い、いや……自覚は無いのか」
「は?自覚?」
「俺以外にそういう顔をしないでくれ」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だ」
なんのことだ。なおも追及しようとしたが、臍のあたりに頭をぐりぐりと押し付けて会話を拒否される。それを適当にあやすよう耳元を撫ぜると、くすぐったそうに笑う気配があった。
最近ディミトリは、よく分からないことを言う。甘やかしすぎだの気遣いすぎだのと。俺ほどお前に不遜且つ手厳しい言葉を投げてきた人間もおるまい。それを受け取って脳天気に構って来るのだからこの男は根本的に勘違いをしているのだろう。こいつは自分の価値を低く置きすぎているのだ。
俺とて、人並みに思うのだから。
自らの王に在らぬ限りの力を以てして尽くしてやりたいし、親友に王の冠を外す場所を作ってやりたい。剣を交わし熱をぶつけ合うのもいいが、愛しい男にただ寄り添い温もりを与え穏やかに過ごすのも悪くない。
らしくないとでも思われているのだろうか。それとこれとは全く別問題だ。
「そも、駄目になるというのは何が駄目だというのだ」
「何が……?」
「お前はどうせ人前で気を緩めることなど自ら許さんだろうが」
「それはそうだが……」
むしろ誰が見て居なくとも臣下や民どころか死者にすら不義理を働くことに耐えられん難儀な男だ。その男がただのひととき腑抜けた顔を見せるのは進歩と呼ぶのも躊躇われる些細というもの。考え始めると気に食わんこと極まりなく、自然と眉間に皺が寄るのを感じた。
だが、そのような暗澹たる心情を余所にディミトリは何やら考え込んでいたようだ。
「……フェリクスっ」
突然弾かれたようにディミトリが起き上がった。引き留める間も無く、膝には薄っすらと体温だけが取り残される。全くせわしない。常日頃に臣下に見せている落ち着きはどこへやった。
「おい、どうし」
た、と。言うはずだった言葉は音にならなかった。
視界が金糸に覆われている。口が動かないのは、柔らかくて湿ったものに塞がれているからだ。それから逃れようにも頬を固定されて寸分足りとも動かせない。
ああ、口付けられているのか。遅れてその認識が追いついた。突飛な行動には慣れたつもりであったが、やはり理解出来ない時もある。だが、他ならぬお前の求めに応じぬ理由も無く、目を閉じながらその頭に手を伸ばした。
「ん、ふふ、」
触れる唇が笑みの形を作っている。何がおかしいというのかこの男は。緩んだ下唇に甘噛みしてやると戯れに噛みつき返された。
酷く甘ったるい空気になっている気がする。どうにもこの空気には据わりが悪くなる。
そう思った頃にようやく気が済んだディミトリが顔を離し、睫毛をふるりと震わせてその瞼の下に隠された淡青の瞳を現わせた。
抜けるような快晴の空によく似たその瞳に誘われるように、花が開くかの如く薄紅色の顔が綻んだ。
無粋な眼帯に覆われてもなお可憐に感じるのは惚れた欲目なのだろうか。
そのような詮無いことを考えていたせいだ。その唇から紡がれる言葉に対して無防備にも程があった。
「ああ、やはりお前無しでは駄目になってしまったな。お前が見ててくれれば俺は大丈夫だ」
照れもせずに一息に言い放たれた言葉は、一切の飾りも色気も無いというのに。
「は、……い、いや、」
つい、言葉を失った。次いで、頭の中でその意味が反芻し、数度廻った頃にカッと熱が回ってきた。極上の美酒でも呑まされたような気分だ。
駄目だ。今はきっと目も当てられんような顔になってしまっている。
思わず手で口元を覆って顔を背けてしまう。そうしたところでどう考えても何も隠せないことは頭のどこか冷静なところで分かっているはずではあったが、他に手立ても無い。この場を流す言葉も手段も見つからないまま無言を貫くと、後ろからディミトリに緩慢な動作で抱きつかれた。
「おいフェリクス」
「…………」
少し怒っているか、当然か。自分の不甲斐なさに嘆息する。何より愛しい男からの熱烈な言葉への反応が動揺と無言とは我ながら情けない。
不貞腐れて文句を言われるだろうと構えていたが、しかし予想を裏切って蜜をたっぷりかけた菓子のように甘ったるく耳元で囁かれた。
「その反応は、安心してもいいのか?」
照れるお前も可愛いがな、などとふざけた言葉も聞こえる。顔は見えなくとも楽しげで鼻歌でも歌いそうな程に上機嫌であることが伝わってくる。
ああもう五月蠅い。分かっている。だが――
「……というのだ」
ぼそりと呟くと、ディミトリは首を傾げる。
「うん?」
「だから、俺に何が出来るというのだ」
お前が心から笑って生きられたらそれでいい。他人の事ばかり考えるお前が、俺だけの何かをくれたら良いという幼い意地はとうに捨てたというのに。どうしてこの男は掘り返し、何でも無いように差し出してくるのだろうか。
お前が生きて寄り添いあえるだけでも途方もない僥倖だというのに。俺がいればお前が大丈夫だなどと、どう受け止めて良いものか分からない。
それを見透かすように、ディミトリは歌うような軽やかな調子で言葉を紡いだ。
「ずっと離れないと、そう言ってくれたらいい」
簡単だろう、とディミトリが笑んだ気配がした。
そうやって簡単に俺の心を満たすお前こそ、際限無く俺を甘やかして駄目にするのだ。
ため息まじりにぼやけば、抱き締める腕の力が少し強くなった。
2021/03/04