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    時雨子

    フェリディミ

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    時雨子

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    ディミトリは焦っていた。目の前には悠然と酒杯を傾ける彼の右腕、右眼たる男が腰かけている。
    視線の先は窓を向いている。王城の中でも高い位置にある王の私室から見る月は美しい。
    珍しく、微かにうっとりと揺蕩うような甘さを滲ませてそう宣うフェリクスに、ディミトリはピリピリと心が毛羽立つようだった。
    折角、二人きりなのだから。月なんて見てないでこちらを見てほしい。夜空に抱かれ決して届きはしない月の美しさより、お前の手が届く俺の方を見たらどうだ。
    それが拙い嫉妬であるということを自覚した瞬間、濃紺の髪が揺れた。
    首を傾げて挑発するように細められた瞳は、妙な色っぽさがある。
    「知っているか?」
    「な、なんだ?」
    「嫉妬という感情は、立場を同じくする相手にしか生まれん。己よりも優れていることが認めがたく、評価され優遇されることが許せない」
    ドキリと心臓が跳ねた。心を見透かされたような言葉に、ディミトリは常にあってはありえない狼狽により、つい口を滑らせる。
    「い、いや、フェリクス、俺は別に…っ」
    「まだ何も言っておらんぞ」
    このように簡単な鎌かけにひっかかるとは。ここまでくると揶揄い甲斐も無いというものだった。フェリクスは立ち上がって、一人掛けのソファの上で逃げるように背の方へ後退って忙しなく振られる手首を掴んで拘束する。
    ディミトリはさらに焦っていた。今日はなんとしてでも伝えなくていけないことがあるというのに。けれど、フェリクスの強引な振る舞いが嫌いではなかった。むしろ自分本位で身勝手と誤解されがちな、揺るぎの無い強く頑固な自己の在り方が好ましかった。
    今も、王たる自分へ不遜に振る舞うフェリクスに心臓を高鳴らせている。
    息を詰めて次の行動を待つディミトリに、フェリクスはフッと微笑む。腕の拘束が解け、フェリクスは手袋が嵌められた自身の右手を食み、器用にも引き抜いた。
    素手となった手のひらが、ディミトリの頬に添えられる。
    「俺の中でお前に並ぶものなどない。この髪の毛一本だけであってもお前の方が勝っている。――どうだ?これで満足か?」
    ぶわりと頬を染めたディミトリは、もごもごと何事かを呟いている。たまらずフェリクスは唇を寄せた。無性に掻き立て惹かれるこの存在をなんと形容したものか。
    果たしてそれは、可愛い、愛らしいという感覚だったが、それを本人に言うのはまだ先のことだった。


    恋仲になって数節。時に強引に甘え、時にうぶな乙女のように恥じらうディミトリに、いくら朴念仁のフェリクスであっても、甘ったるく心を蕩かされていた。
    気の置けない友人同士の抱擁でも、満たされていた。けれど、ふとした時に目が合うと、二人そろって電撃の魔法を食らった時のような感覚に襲われた。その痺れは甘く、全身に広がる。
    まずはお互い目を背けたままで指を絡ませあって。次にちらりと視線を伺って。
    触れたい。もっと触れたい。自分にしか許されない何かが欲しい。
    腹の奥底で情念が渦巻き、そして相手もそうだと確信する。
    次に目があった時、決壊した。けれど烈しい交歓ではない。温かく微笑みあい雌雄の鴛鴦のように寄り添いあう。徐々に熱でトロリと溶ける瞳を見つめあうだけの時間すら、二人にとっては愛おしい時間だった。
    それが幾たび繰り返されたのか、ごく自然な流れで唇同士が触れていた。
    幸せな気分だった。フェリクスによってもたらされる幸福の色を表情に浮かばせるディミトリは、この世の何よりも美しい。フェリクスはそう確信していた。
    この顔を一生見られるのであれば何をしてもいい。己の忍耐に自信があるのだ。
    本当は唇に深く食らいついてやりたい。優しく触れ合わせるだけでなく、その奥の柔らかさを堪能したい。
    不埒な欲求が湧いてくることにフェリクスは驚いていた。しかし、欲の対象に伝えるような気は起きなかった。
    焦ることは無い。むしろ、己の欲を一生御しきるぐらいの覚悟はある。
    ディミトリが望まぬのであれば、自分はただひたすらに優しく愛情を注ぎ、奴も気付かぬうちに幸福で満たされてしまえばいいのだ。
    この身は全てディミトリのもの。ならば自分という存在が須らくディミトリの幸福であり、余さず与えられねばならない。


    フェリクスが唇をそっと離した。月への嫉妬など忘れたかのように惚けて熱っぽいディミトリの視線がフェリクスに贈られた。少し潤んで微かに煌めく青の瞳は恋に蕩けて、その対象が自分であることにフェリクスは酷く落ち着かない気持ちにさせられた。
    らしくないことをした。この程度で酔ってなどはいないはずだが。
    心の中で益体も無い言い訳を並べ立ててフェリクスがディミトリから離れようとする。
    が、がしりと腰を掴まれて、それが阻まれた。
    「……フェリ、クス」
    「どうした?」
    少し震えた声。それにフェリクスが気付かないはずもなく、低く落ち着いた声をゆっくりと返した。
    しかし、ディミトリはその声色にますます焦った。
    「ああ違う、そうじゃなくて、その、だな」
    ディミトリはちらりとフェリクスを上目遣いで伺う。相変わらず不愛想な顔が、しかし自分にだけは分かる心配を滲ませて見つめていた。
    そんな不器用で優しい男に、後ろめたい。申し訳ない。だけど。
    「ええと、だな……今日はもう少しここにいてくれるか?」
    「構わんが……何かあったのでは無いのだな?」
    慎重に、けれど粘り強く待とうと。フェリクスの優しさだ。
    「大丈夫だ」
    今日はそれが居たたまれない。
    「それなら、なんだ」
    ディミトリが隠している痛みと苦悩を、本性と信念を理解しようとする優しさに、常日頃から感謝している。
    「いや、その」
    だが、ディミトリはそれどころでは無かった。
    「ええとだな、」
    心臓が早鐘のように打っている。そうじゃないんだ、すまない、頼むから、

    突如としてフェリクスの体が宙に浮いた。
    「な……っ!?」
    「す、すまないフェリクス!来てくれ!」
    「は!?お、おいっ!降ろせ!ふざけるなこの猪!」
    ディミトリの暴挙に甘い空気が瓦解した。恋人を横抱きにしている、と言えばロマンチックなのかもしれないが、相手は到底喜んでいるとは思えない。久方ぶりに遠慮の無い親友の罵倒も右耳から左耳へ抜けて行く。
    聞く耳を持たない猪に怒鳴るのを諦め、フェリクスがディミトリの向かう先を確かめ、ぎょっとした。

    目の前には天蓋から優雅に垂れ下がる青のカーテン、それもアッという間に視界を通り過ぎて気付けばシーツが目の前に。
    雑に降ろされて、起き上がる間もなく、ディミトリが覆い被さった。
    「ふざけてなどいない、フェリクス」
    大きな手のひらに両肩をがしりと掴まれた。
    「お前と、性行為がしたい」
    ビシリ、とフェリクスの表情が固まった。その引き攣った頬と一本皺が刻まれた眉の下で、烈しい葛藤が起きている。
    互いに恋情を抱えて求め合ってることなど分かっているのだから、そんなに悩まれることだろうか、とディミトリは少しばかり傷ついた。とはいえ、そもそも友情の延長線上。ここからいくらでも変えていける。
    お前が欲しい。もっと欲しい。まだ足りない。
    だが、絶対に譲らないぞと意思を強く持って見つめるディミトリは、己の言動がどのように受け取られたのか正確に理解出来ていなかった。
    ややあって、フェリクスは重々しく口を開く。それでもなお、思い当たっていなかった。
    「お、お前が……望むなら……準備をさせろ……」
    フェリクスは、完全に誤解していた。
    「え?準備なら……あ、い、いや!待て!間違えた!」
    今にもどこかへ"準備"に行きそうなフェリクスに呆然としかけ、慌てて寝台に押さえつけた。
    「おい、何が間違いだ!この程度、腹を括ってやるから待っていろ!」
    羞恥と混乱でじたばたと暴れるフェリクスを、平常時であれば容易く拘束出来るはずなのに動揺のあまりに手を振り払われてしまう。
    そのまま立ち上がりかけたフェリクスの腰に縋りついて、ディミトリは必死に叫んだ。
    「ま、待て!言い直す!」
    「何を言い直す必要がある!お前の望みは分かったから叶えてやる!」
    「違う、そうじゃないんだ!フェリクス……お、お前に、抱かれたい」
    その瞬間、水を打ったように部屋が静かになった。
    「……は?」
    抱いてほしい、お前が、俺に?
    理解不能だ、というようにフェリクスが目を丸くしている。
    改めて何度も言葉にされると羞恥心が掻き立てられていく。わざとなのか、いいやわざとでは無いのだろうな、とディミトリは投げやりな気持ちになって復唱した。
    「ああ、そうだ。俺は、お前に……抱いてほしいんだ……」



    (飽くなき恋には底なしの愛で に続く)
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