◆無双ディミトリの髪型(無双の話ではない) 蒼月エンド後ぽつ、ぽつと脳天に冷たいものが当たり、手綱を握る手を覆う手袋が水滴の模様がついた。
隣で轡を並べて進むディミトリの方へ目線を投げると、空を見上げて眉間に皺を寄せている。空に向かって吐く溜息は、まだ寒さが残る初春の空気に白く溶けていく。
「フェリクス、まずいぞ。すぐに本降りになる」
このあたりは天気が変わりやすいんだ、と続けられ、無言でそれに頷く。――おそらく自覚の無い発言なのだろうが、ここも五年間の放浪の旅の間に来たことがあるのだろう。
山を越えればクレイマン領、出来れば今日中に到着したかったが、中途半端なところで野宿となるぐらいならば戻った方がいい。妙に慣れた様子で「少し先に大木がある。急げば間に合うから雨宿りして様子を見よう」などと宣うこの国王は、何故この土地の気候や地形に精通しているのか、それを俺が察しないとでも思うのか。
その事に思いを馳せて心痛しないほど、情が薄いと思われている筈が無いが――いいや、自分の事には極端に鈍感な猪はやはり何も考えていないのだろう。
「ああ、案内を頼む」
こういう事は逐一追及してもキリが無く、責めるべきは此奴ではない。苦い顔を見られないようにフードを深く被る。余計な事を考えていたら、主に似て猪のように猛進するディミトリの駿馬についていけない、と知ったのも、ここ最近二人で遠乗りが出来るようになってからのことだった。
「おい。髪をなんとかしろ」
「髪?」
「最近切っていなかっただろう。それで駆けようというなら結べ」
この男は全速力で駆けると言ったら本当に全速力で馬を飛ばした。優れた馬術で道中の障害物をものともせずに風を切って駆ける姿は良い。この瞬間ばかりは日頃ディミトリを悩ますあらゆる雑事が抜け去り、少しばかり笑みを湛えた清々しい顔を拝めるのは隣で駆けさせる事が出来る者――つまりは、俺の特権だ。
だが、問題はその後だ。好きに駆けた後、馬から降りて雑に前髪をかきあげ、そのまま放っているとまるで外で遊び回った子供のようだ。あちらこちらに金色の毛束が跳ねている。加えて、いよいよ雨脚が強くなって来た湿度の高い空気にあてられ、収まりがつかずにうねっている。
「あ、ああ、忙しかったからな。まあでもお前しか見ていないし……」
「見苦しい」
「……そんなにか」
誤魔化すように髪を後ろに撫でつけるが、前髪は跳ねるし後ろ髪は手を離した途端にもっさりと広がった。
「髪紐はどうした。時々結んでいるだろう」
「あれはドゥドゥーがやってくれているだけだから俺は持っていない」
「そのぐらい借り受けてこい……ああ、分かった。そこに座っていろ」
その怪力で紐を引き千切るのを恐れているか、もしくは既に引き千切ったことがあるのだろう。収まりの悪い癖毛を指先の感触を頼りに撫でつけて後ろに縛るのはディミトリにとっては難しいことに違いない。
幼少時や学生の頃は真っ直ぐでサラサラとしていたが、それはよく手入れする人間が周囲にいたからだ。五年もの間、野生の獣と見紛うような有様のまま放置され、本人も身だしなみに頓着する意識がすっかり抜けてしまった。
「だからお前の手を煩わせなくとも……」
「自分で出来ないのならば俺がしてやる。何か文句があるのか」
「……はあ、分かった。任せる」
仕方が無いというように背を向けて座ったが、それはこちらの台詞だ。
「もっと人を頼る事を覚えればいい」
斜め下から振り返る何か言いたげな視線を無視して頭を前に向かせると、諦めて大人しくなった。まるで大きな犬のようだ。猪も飼い馴らせば何とかなるものだ。
「……視界も狭かろう。結ぶのが手間ならば切ったらいい」
「短くするならそれだけ面倒を掛けることになるだろう」
「そのぐらい掛けさせておけ。王の髪を整えるなど理髪師も腕が鳴るというものだ」
むしろ富める者がそのぐらいして給金を気前よく与えればいいのだ。民から預かった金を健全に民に還元しているだけなのだから。
「……本当はな、ちょっと長くしようかと思っている」
「なんだ、それならもっと手入れしろ。そのくらい出来る使用人もおらんのか。お前の髪はどうも収まりがつかん」
先ほどからどうにか撫でつけても、一つに縛るのが難しい。後れ毛が零れ出たり、中途半端な長さの毛束が入りきらなかったりと、本人に似て制御が効かない。一旦、香油を全体に馴染ませた方が良さそうだ。
「そう言いだすと使用人たちが寄ってたかって色んなものを持ってくるからな……少しそれが、疲れる」
「今更ではないか」
王族なのだから、そういうことは日常茶飯事だ。彼ら、彼女らはそれが仕事なのだから熱心で良いことだろう。
「何というか、その……ずっと動かずに頭を触られ続けるのは落ち着かない」
「……そうか」
無駄に伸びた身長のせいで頭を触れられるのに慣れないのか。それとも戦場で急所となる場所を他人に任せる事に、本能的な危機感を感じてしまうのか。
なんとなく追及しづらく、黙々と髪を梳いていればディミトリは勝手に話を続けた。
「ああ、でもお前の指は心地が良い。……ふふ、お前が毎朝世話をしてくれるのなら悪くはないな」
「……ほう。公爵の次は理髪師にでもなれと言うのか。この暴君め」
「国で一番信頼できる公爵がいなくなるのは困るな。お前が二人いれば……いや、それも困る。だったら俺も二人いなければ」
「フン、欲張りな奴だ」
大真面目な口調の下手な冗談を軽口で返している間に要領を得て、金色で丸っこい毛束を幅広の紐で何度か巻きつけた。とりあえずは一纏めになった髪は、髪紐の先からくるりと跳ねて妙な愛嬌を醸し出している。
「ほら、終わったぞ」
「ありがとう」
機嫌良さげに振り仰がれると、その拍子にふわりと金糸が揺れて清涼な香りがした。
香油を多めにつけたせいか、自分と同じ香りがディミトリから香ってくる。なんとも妙な気分になりそうで、急いで立ち上がろうとした。
が、ガシリと腕を掴まれて大きくバランスを崩し、無様にディミトリの腕の中に収まった。
「おい、なんだ」
「首元が寒い」
「なら襟巻を荷物から取るから離せ」
「これでいい」
ディミトリが、先程とは逆に俺を木の根に座らせて胸に凭れ掛かってきた。ふわふわと揺れる金色の尻尾の下、露わになった耳と首筋は確かに寒そうだ。
「フェリクス」
「お前な……」
そうして上目遣いでじっと見つめれば何でも察して思う通りになってくれるとでも思っているのだろうか。
――事実、そうして強請ってくることの殆どが取るに足らない事なのだから拒否する理由もなく、思い通りに動いてやっているのが癪だ。
「頼れと言ったのはお前だ」
「チッ……こういうことばかり濫用するな」
仕方なく首を覆うように腕を回して抱き締めてやると、金色の尻尾をもつ獣は大きな図体を縮こまらせて擦りよった。
「ところで何故、髪を伸ばそうと思ったんだ」
手持無沙汰に髪を撫でつけてやりながら問うと、腕の中の獣は僅かに居心地悪そうに身動ぎした。
「……あー。なんとなく……」
「……ほう?」
明らかに何となくとは言い難い声音を指摘するように返してやれば、胸に顔を埋めて何事か呻いた後、もごもごとそのまま喋りだした。
「お前の髪が……」
「は?俺の?」
よもやこの期に及んで俺がお揃いに喜ぶ幼子の気持ちのままだと思っているわけでもあるまい。……いや、此奴のことだからさもありなん、か。
その疑念が思わず胡乱げな声に滲み出たが、果たしてディミトリの答えは斜め上であった。
「綺麗だと思ったんだ、その……寝台に広がった時に……」
「は」
思わず絶句した。まだ日も沈みきらない屋外で何を言っているのか。いや、言わせたのは俺だ。
言葉が見つからない俺にディミトリが追い打ちをかけるように言葉を重ねた。
「だ、だからお前にもそう思ってほし、ぶ」
「もういい分かった何も言うな……」
思わず金色の頭を胸に強く押し付けて言葉を奪った。それでも、髪を結った後頭部は赤く染まった首筋と耳が丸見えだ。
先程はただ寒そうだと思っただけなのに、火照った肌が香油の香りを乗せて、思わず生唾を呑みこんでしまう。
やはり髪を結ぶべきではなかったか、と先刻の自分に八つ当たりしてももう遅い。雨が早く止んでくれることを天を仰いで祈るばかりだった。