前の続き4.釣果
「……えーと、なかなか良い釣果じゃないか?」
「いい加減、自制というものを覚えろ。肝が冷えたぞ」
フェリクスは半眼で俺の頭の先から爪先まで視線を下ろし、深く溜息をついた。
俺の足元には結構な大きさの魚がぐったりとして横たわっている。陸に上がった魚の息が長く無いのは当然の摂理ではあるが、理由は別にある。
それ以前に、雑に地べたに置くべきでもない。魚を釣ったらまずは水を張った桶にでも泳がせておくと良いという。俺たちの先生は大修道院の池に日がな入り浸り、いくつもの桶に魚を満杯にして食堂にやってきたものだった。
今も桟橋の上には、フェリクスが用意してくれた桶で小魚が数匹泳いでいる。前菜ぐらいにはなるだろう。
「というかこれは、食えるのか?」
「さあ……だが海に返す訳にもいかないしな……」
腹の辺りを刺し貫かれ、瀕死だ。僅かに息があるのに気づいたフェリクスは短剣を取り出して鰓の辺りを刃を立てた。フェリクスは難しい顔をしているが、食べもしないのに獲るのは気が引けるし、毒さえ無ければ食べるべきだ。
とはいえ、だ。放浪していた五年の間、とにかく食えるものならば何でも食っていた俺だが、流石に海釣りをやったことはない。魚に関する知識は修道院の献立が精々だ。
これほど大きな、捌かれる前の魚を見るなど、初めての経験だった。
寒さを口実に、フェリクスに散々構ってもらった後。少し気まずそうに「釣り、するか」とぎこちなく釣り竿を取るフェリクスは照れが隠し切れていなくて、堅物の朴念仁の一匹狼で通ってるこの男の顔を崩せるのが自分だけかと思うと、どうにも可愛くて仕方がなかった。
らしくもなく釣り竿を上下逆に手を取り、平静さを装って構えなおしていたが、白い頬が仄かに朱が差している。朝焼けに照らされた白い肌と濃紺の髪の色の対比は目に鮮やかで、滑らかな曲線を描く横顔はまるで一枚の絵画のようだ。
恋人の欲目もあるかもしれない。幼馴染の贔屓目もあるだろう。臣下として従える誇りも勿論。
だからこそと言ってもいい。俺の中ではフェリクスは世界一いい男なのだ。そのいい男を独占して振り回し、こうして不慣れな早朝の釣りに付き合って貰っている。これで文句を言ったらきっと罰が当たる。
そうして自分で構えた釣り竿はおざなりに、フェリクスの横顔に見惚れていれば「真面目にやれ」と流石に怒られた。確かにフェリクスの釣り竿には小魚が数匹引っ掛かっているというのに俺の釣り竿はピクリともしない。
ただ、こうしてじゃれついているのも、他に何としたものか手持無沙汰ではあるのだ。何せ、釣りというものをどうやって楽しめばいいのか分からない。
鍛錬なら何に意識を集中すべきか身体が知っている。狩りならば獲物の気配に意識を張り巡らせている。
しかし、魚は鍛えていれば釣れるようになるわけでもなし、水中の魚の気配を探ろうにも最終的には自ら釣り餌に引っ掛かってくれなければ意味が無い。
だから、端的に言えばぼんやりと待っているだけ、その時間をどう過ごせば良いのか落ち着かない気持ちになってしまう。
「俺にはよく分からんが……ただ待つということ、それも重要な忍耐力だそうだ」
「先生か?」
「いいや、兄上だ。というよりは、ギュスタヴ殿の釣りに付き合ったんだそうだ。お前は行かなかったのか?」
ギュスタヴと約束をして、グレンが?初耳だ。
有りそうで無さそうな構図がおかしくて想像できないが、何かの話のはずみで付いていったというの実際のところなのかも知れない。
「知らない話だな……グレンは誰にでも気安い奴だったから、人付き合いも良かった。俺と違って城内で色々な身分の者と友誼があったしな。羨ましく思ったものだよ」
共に師事していた兄弟弟子の仲ではあったが、四六時中一緒でも無ければ休日をどう過ごしていたかなど毎回意識して聞くということも無かったし、些細なことだったのだろう。
「お前も城内でそれなりに親しい者もいただろう」
「親しげにしていても、王子という扱いは他とは違うものさ。例えばこうして釣りになんて気軽に行こうなんて言えない」
ロドリグを連れ回したこともあったが、甘えていただけだ。友人同士のそれとは違う。
俺から周囲に友人であることを求めるのは難しいことなのか、正直今でも疑問ではあるのだが、我を通してばかりもいられない。
それに、俺にはフェリクスがいた。俺が求めない分、フェリクスが求めてくれた。
鍛錬をすると言えば俺も一緒にと、狩に出かける時には俺もついてきてほしいと。食べるのも、寝るのも、なんでもだった。
フェリクス自身は幼い我儘と恥じているかも知れない。だが、俺にはあの不思議な心地よさをずっと覚えている。
ふっと力を抜いて息を吐くと、冷たい空気の中に白い靄が浮かび上がった。あっという間に消えていくそれを眺めながら上体を傾けてフェリクスの肩に寄りかかると、「重い」などと悪態をつきながらも折り重なるようにして反対側からも体重がかけられた。
自然と、折り重なるようにして頭を傾けあい、静かに釣り糸がゆらゆらと波に振れ動く様を眺めた。肩からずり落ちそうな毛布をフェリクスが直す衣擦れの音と波の音だけが響くだけの沈黙の時間は、気まずいものではなくむしろ心地が良い。
「気軽に、か」
返事にしては随分ゆっくりと間を置いたそれには、複雑そうな色が混じっていた。
鈍い俺にも分かるようになったのは、最近は互いに素直な言葉を言い合っているからか、はたまた俺がフェリクスに構われたいだけなのだろうか。
「今はお前がいればいいよ、フェリクス」
頬が緩むのを抑えきれまま頭を摺り寄せると、犬でも撫でるようにぐしゃぐしゃと頭を掻きまわされた。
「……ふん、調子の良いことを」
少し自意識過剰であったかも知れない。そんな言葉にも呆れた口調に交じるのは、フェリクスなりの親愛なのだろう。
そうして心地良い重さを互いに預けあっていた時のことだった。
「……フェリクス、引いてる!」
「な、これは、大きいな……!」
フェリクスの釣り竿が振れ、つがえた弓のように釣り竿がしなった。
バシャバシャと波立つ水面の向こうに見えるのは、相当大きな魚影だ。フェリクスがぐっと釣り竿を引くが、水面から簡単には上がってきそうもない。
ギリギリと緊張を孕んだ音、ピンと張った釣り糸。力任せに引いては切れてしまいそうだ。
と、そう思った俺は、つい、反射的に動いてしまった。
「くっ……ディミトリ、下がって……おい待て!」
俺は立ち上がって自分の釣り竿を構え、桟橋から身を乗り出し――大魚目掛けて竿を打ち下ろしたのだ。
目の前で派手な水しぶきが立つ。海の水が塩辛いというのは本当のようだ。
思うに、やはり俺は釣り糸を垂らして待つよりも、銛で魚獲りをしていた方が向いていると思う。
「そんな馬鹿げた考えは今すぐ捨てろ。猪とて水に飛び込まないだけの分別ぐらいあろうが」
結局、大魚との奮闘の末、海に落ちこそはしなかったが散々な奮闘の末にずぶ濡れとなってしまった。
――逃がしそうになった大魚をつい追いかけようとしてしまった俺の首根っこをフェリクスが引っ張ってくれなければ海に落ちていたかもしれない。
濡れた衣服を身に付けたままでいるな、潮臭い、などと文句をぶつぶつと言いながらフェリクスが俺の上衣だけでもと脱がし、代わりに浅葱色の外套と毛布で簀巻きにでもする勢いで押し付けて来る。
「いや、俺は平気だ。人より身体が丈夫なことはお前も知っているだろう」
「黙れ。そういう問題ではない」
「何も問題はないだろう」
「うるさい」
丈は足りないし、元々身軽な衣服のフェリクスは外套を着ないと寒々しく見え、大人しく受け取るには躊躇いがある。
とはいえ、こういう怒り方は俺のためを思ってのことだ。過保護でしかないのだが、あまり反発していると拗ねられてしまう。それは嫌だ。折角の逢瀬の時間を無駄にしたくない。
「……ああ、そうだな。俺が悪かった。手間をかけてすまない」
だから俺が非を認めた方が良いに決まっている。
そんな安易な判断を脳内で完結させてフェリクスの機嫌を取ってみることにした。
ところが、そんな浅はかさが良くなかったのだろうか。フェリクスはその言葉を聞いて、ますます眉間の皺を深くなった。
「俺に謝罪するような話ではない」
「いいや、現にフェリクスを困らせてしまった。反省している」
「俺は別に……そうではなく……」
今度はフェリクスの方が言い淀んだ。よくよく考えてみたら、この程度の小言はいつも流している。真に受けて謝ってみたのは、何か間違っただろうか。
そのことに、はたと気付いて追及するタイミングを失ってしまった頃、フェリクスが憮然とした顔のまま呟いた。
「……ったか」
「ん?なんだ、聞こえなかった」
珍しく歯切れの悪い小さな声は、潮風に攫われ波の音に交じって明瞭に聞こえない。
それを身振りで伝えようと身を屈めて耳を口もとに寄せると、微かに身じろいだ気配と桟橋の木の板が軋む音がした。
「だから、……」
「だから?」
しばしの沈黙の間、パタパタと翻る外套を押さえようと振り向くと、前髪がばさばさと顔にかかってしまった。
その、鬱陶しく目の前に掛かる前髪をかき上げようとした時だった。上げかけた手はフェリクスに掬い取られ、もう片方の手が伸びてきて頭を優しく撫でるように前髪が払われた。
「……楽しかったか?」
ようやくはっきりとした声量で届いた言葉。恋人との逢瀬で、あまりにも平凡過ぎる問い。額に感じる手の体温。見上げてくる瞳は俺を責めていながら根底にあるのは心配なのだろう。
そんな、恋人から伝わる温もりに、即答出来るはずの返事が一瞬出て来なかった。
「いや、なんでもない。気にす――」
「楽しい」
「……」
「お前と一緒なら、なんだって楽しいよ、フェリクス」
腕を背に回し、そっと添えるだけの抱擁しながら続けると、フェリクスはしばしの間、黙りこみ、溜息とともに耳元で囁いた。
「……チッ。なら、いい。猪を繋いでおかなかった俺も悪かったことだしな」
よく分からない言い分に思わずクスリと笑うと、釣られたようにフェリクスからも笑いを堪えるように肩が震えた。
考えてみれば、足元に大魚、湿気た服に潮の香りが染みついて、外套は丈が足りなくて大男はさぞ面白い光景なのだろう。
「……ふっ」
「……く、はは……っ」
その状況にフェリクスも気付いたのか、顔を見合わせたらどうにも笑いが堪えられなくなり、しばしの間、二人して笑いながら小突きあっていたのであった。
5.大衆食堂
真新しい橙色の丸屋根、漆喰は塗りたてで真っ白。重厚な木製の扉に取り付けられた真鍮のドアノブを引くと、中には大きな円卓から二人掛けの小さな席まで雑然と並んでいる。
隅の方では整然と並べられた多種多様な酒瓶の棚の前で、初老の女性が箒で床を掃いている。ふと、顔を上げたのは扉に括りつけられていた鈴の音に気付いたのだろう。軽く挨拶の言葉を口にした彼女は、厨房の方へ誰かしらの名前を呼びかけた。
フェリクスは随分と慣れた様子で、店主と思しき男と話をしている。領主なのだから当たり前なのかも知れないが、こういった場をすぐ隣で見るのは新鮮な経験だった。
時刻は正午にはまだ遠い。昼飯には少し余裕がありすぎる時刻ではあったが、俺たちは街の食堂に向かうことにした。朝が早くて腹が減った、というのもあるが、魚が傷んでしまうのを避けたかったからだ。
「ほらよ、お待ち」
街の中心部にある食堂、その二階には殆ど客はいなかった。一番大きな窓がある、見晴らしの良い席に通され、しばらくすると強面の男が料理を運んできた。この食堂の厨房長だ。
何故、厨房長自ら料理を運んできたかというと――
「ああ、毎度世話になるな」
「あんたの頼みだ、義理がある」
「……ならいいが」
この食堂ではフェリクスの顔が利くのだという。わざわざ客席まで出てきた男の口数は少なく、すぐに厨房へ引っ込んでしまった。俺の方をちらりと気にしていたようだが、多くを問わないところを見るとフェリクスは俺の身分を伏せたのだろう。
徐々に陽が差してきた屋外では、気持ちの良い穏やかな風が吹き、新緑の葉を枝に連ねた木々が爽やかな音を立てている。濡れてしまった上衣を掛けておけば、店を出る頃には乾いているだろう。
陽光差す港町を見下ろすと、雑多なところはあるが活気に満ちていた。がたいの良い男たちと、きびきびとした商人達がせわしなく行きかっている。
ここへ来る道中でも、フェリクスの姿に気づいて略式の礼を取っていく者が何人かいた。
「随分と好かれているな」
「…………」
「あ、いや、お前に人望があると俺も嬉しいというだけだ」
今のを見て何がどうしてそう思う、と言わんばかりにフェリクスは無言の圧を込めた視線を胡乱げに投げかけてきた。当たり障りのない弁明をすれば、他意は無いと伝わったのか、もしくは何か的外れの言葉だったのか呆れたように溜息を吐き、料理に手を付け始めた。
「俺個人の力で信頼を勝ち得たのは、この店の奴らぐらいだ」
「この港町を作るのに誰より尽力したのはお前だろう。そう謙遜するな」
「領主として当然の義務だった。何も褒められることなどない」
剣だこの多いフェリクスの手が、行儀よく皿の上の魚を切り分けていく。
先程釣った魚は切り身にされ、香草がまぶされバターの風味が強い芳醇な香りが漂っている。正体不明の大魚ではあったが、食材としては良いものだったのか。味覚が無い俺でも、思わず舌鼓を打つような一品だ。
もしかしたら、フェリクスがそういう注文を付けたのかもしれない。大衆食堂のような雰囲気のこの店の料理としては、小綺麗過ぎる。
皿は素朴な木製だが、カトラリーは銀製のものが出された。こちらも、主な客層が平民であるこの店において普段使いしているとは考えられない。
「今日はお前がいるから少し融通を利かせてもらった」などとフェリクスは言うが、この店の者はフェリクスの剣で人心を勝ち得た人材なのだ。
フラルダリウス領の港町開発でまず議題に上がったのが、内海一帯の海上警備および治安維持だ。フェリクス自ら剣を取り船に乗り、時には竜騎兵隊を率いてデアドラの自警団と協力の上で海賊を可能な限り捕縛した。
そう、討伐ではない。
この店の者たちも、元はデアドラ港でうろついていた海賊団の一つ。ここで働いているのは海賊船の厨房や雑用に雇われていた者達が主だ。
彼らに限らず多くの者は商船であったが戦争で経営に行き詰まり、従業員共々なし崩し的に海賊になっている場合は多い。
真っ当に働く気があるならば、その場を整えるのが国の仕事だ。だから、俺は説得を試みる事をフェリクスに提案した。討伐ではなく捕縛し、商人達とは和解し協力させられないだろうかと。
初陣から今に至るまで、自領の賊退治など腐るほどやってきたフェリクスだ。甘い考えだとは分かっているが、何か思うところがあったのか。少し考え込んだだけですぐにその場で賛成の立場を取ると約束してくれた。
長年海賊に悩まされてきたデアドラの民にとっては抵抗があろうが、海賊達ほど海に詳しい者もいない。取り入った方がデアドラの民に益がある。これまでの禍根よりも未来の益を取る方が選ばせるべきである。
和解を取り持つのは多くの者に取って面倒で遠回りで手段だ。相手の出方によっては徒労に終わり、注ぎ込んだ財も水泡に帰すこともある。財源は無限ではなく、エドマンド伯を始めとした近隣諸侯からは難色を示された。
此方の独断で人を集めたところで、商売のため人を訓練し育てあげる戦略性に富んだ見識の深い者がいない。この件はデアドラの諸侯および有力商人たちと足並みが揃わなければ進められなかったのだ。だから今後の利益を見据えた交渉と、海賊を制するだけの確かな軍事力基盤――つまりはフラルダリウスが戦後も引き続き各地の治安を維持をしてきた実績を以て、根気強い交渉は結実したのだ。
「そして晴れて領主閣下は民に慕われたというわけだな、うん」
自分の回想に満足し、うんうんと頷いているとフェリクスは咀嚼しながら心底嫌そうな顔をして、食べ物を水で流し込むと文句を垂れた。
「やめろ、気色悪い。何度も言うが俺は俺の責を果たしたまで。当然のことを敢えてやらぬのなら、それはただの怠慢だ」
「はは、お前のそういうところ、好きだよ」
最近はすっかり叩き直された食事の作法を守って主菜の魚にナイフを入れながら笑みを広げると、フェリクスは先ほどの表情から一転、あっけにとられた顔でまじまじと此方を見てきた。
なにやら葛藤しているのか、固まった表情筋に反して蘇芳色の瞳の中に伺い知れる感情はくるくると何事か渦巻いている。
「…………阿呆か、このくらいで」
ぼそりと呟かれた言葉と同時に、べちゃっと魚の切り身がフォークから滑り落ちた。
幸い、卓の上に飛び散るようなことは無かったが、何事も無かったよう再びフォークが突き刺して黙々と食事を続けるものだから、俺も次の言葉に悩む。
お前のような誠実で人知れず努力し続ける者こそ、人望を集め支持され認められるべきなのだ。
そんなお前を俺が独占するのは相応しくない――などと言おうものなら青筋を立てて怒るのは知っているし、後ろめたい気持ちが消えた訳ではないが、ともかく口に出すことは止めた。
代わりに、フェリクスのこれからが恵まれていてほしい。いいや、恵まれていなければならないと、強くそう思う。
だというのに、何故かこの手の話題はフェリクスに伝わらず、いつも会話がちぐはぐしてしまう。
「何を考えている」
気付けば黙りこくっていた俺を不審に思ったのか、フェリクスが行儀悪く身を乗り出してきて俺の眉間を人差し指で弾いてきた。
「い、いや、お前のことを……」
「その不景気なツラで、というなら怒るぞ」
「もう怒ってるだろ」
思わず口が滑るともう一度指で弾かれた。地味に痛い。
「何を考えてるが知らんが、今は食うことだけ考えてろ。ああ見えて厨房長はお前の捕まえてきた魚を喜んでいたからな、まだ三皿は来る」
「え」
聞いていない。確かにあの魚の大きさから考えると出された料理は少なかったが、残りは干すか塩漬けにでもするものとでも思っていた。
呑気にそんなことを考え始めて食事の手を止めた俺に、フェリクスは益々機嫌が悪そうに詰め寄った。
「いいから今はゆっくり食事を楽しんでおけ。俺も連れてきた甲斐がなくなる。それとも先ほどの言葉は嘘か」
「先ほどの?」
「……俺と一緒なら楽しいのではないのか」
「嘘ではない!」
嘘ではないが、こう詰め寄られると困ってしまう。とはいえ虎の尾を、いや狼の尾とでも称すべきか、とにかく踏んづけたのは自分ではあるし、とりあえず食べれば―だが、適当に演技をするとすぐにばれて余計に不機嫌にさせるし――
「ならいい。ほら、食え」
目の前に突き出された、魚の刺さったフォーク。フェリクスはくだらないことに悩み始めた俺を一蹴するように据わった目でじっと見つめてくる。
「…………」
今度は俺があっけにとられる番だった。これは、人前では少々恥ずかしい行為ではないだろうか。
思わず横目で人の気配を探るが、殆ど人のいない店内でこちらを気にしている人間はいない。だが、あまりこのままでいると、そのうち給仕もやってくる。
食べるならさっさと食べてしまえばいいが、フェリクスが羞恥で手を引っ込める方が先だったりしないだろうか。
そう思って上目遣いでフェリクスを見つめてみた。
「早くしろ」
効果は無いようだ。
結構な頻度で流されてくれるのだが、今回は羞恥よりも意地の方が勝っているらしい。この男の羞恥のポイントは微妙に分かりづらく、こと俺に関しては感覚が時々狂っている。……そういうところも俺からしてみれば余計に恥ずかしいものだから、恋人としてはずるいの一言だ。
「……ん。美味いな」
観念して口を開けて身を乗り出すと、餌付けでもするように差し込まれた。
「ああ、もっと食え」
やはり敵わないな、と俺は頬に熱が集まるのと、むずがゆくて口が笑みの形に緩んでしまうのを意識の外へ必死に飛ばしながら咀嚼し、適度に脂の乗った魚の肉質と鼻腔を抜けるスパイスを楽しむ他なかった。