かわいくても、きけんなこいぬ 仔犬はとても耳が良い。大きな耳を立てて、主であるヌヴィレットの言葉一つすら聞き逃さないように常に周囲の音を聞いている。その成犬にもあるその癖をヌヴィレットは「ほどほどに」とよく忠告している。それは仔犬が聞いても面白く無い話ばかりが聞こえてくるからだった。ヌヴィレットの職場では特に。
『待て』を言われたリオセスリはドアの前で待っていた。ほんの少しの間だけ、とお気に入りのノンビリラッコのぬいぐるみを抱えて大人しくしている。こつこつと行き交う人がリオセスリを見て、普段の彼を知っている人からすれば随分可愛らしい姿をしているせいか「かわいい~」「ヌヴィレット様を待っているのね」と言葉が聞こえた。ここにはヌヴィレットを悪く思う人間は殆どいない。あのひと程、公正無私に物事を見るものは居ないからだ。彼は贔屓をしないし、正当に評価をする。駄目なものは駄目だと言い、良いものは良いと言う。けれどそれが、面白く感じない者がいるのも事実だった。
「随分可愛い犬がいるじゃん」
聞き慣れない声にリオセスリが顔を上げた。見知らぬ男がそこに立っている。その後ろに居る困った顔をした女は、ここパレ・メルモニアの受付にいる者だ。普段はセドナが担当しているが、時々彼女が代わりに受付を担当していたのをリオセスリは覚えていた。物静かで、会話したことは無いが、彼女はリオセスリを怖がっているようにも見えた。セドナ曰く、犬が苦手らしい。それなら、とあまり関わろうとしなかったので、名前を覚えていなかった。男は、きっとここに用があって来た部外者なのだろう。
「ここはこんな仔犬まで飼ってるのか?」
「あ、あの、彼は、」
「ああ、なんだ。あの最高審判官の私物か?」
ぴくりと耳が動き、リオセスリがじっと男を見上げる。その様子に男が下卑た笑みを見せて、小さく笑みを浮かべているような仔犬の顎を掴んだ。
「かわいい顔をしてるもんな。まさかあいつが職場にまで連れてくるなんて、相当お気に入りみたいだな」
「や、やめてください! 彼に乱暴な事をしないで!」
彼女が声を上げる。その言葉でこの男が手を離すくらいなら、きっとこんな行為はしないのだろう。「あ?」と脅すような声に男が気を悪くしたことを容易に窺えた。女が怯えた表情を浮かべ、リオセスリの顎を掴む手とは逆の手が拳を握るのが見える。仔犬ながらに(ああ、まずいな)と感じた。
「なあ」
男が拳を上げようとしたのが見えて声を発する。声を発したリオセスリに、二人が驚いて動きを止めた。
『待て』を命じられた犬が、勝手に主以外と話す事は無い。それはすなわち、命令違反に等しい行為だ。主の言うことを聞けない、駄犬の所業だった。
仔犬の視線が一瞬男の足下を見る。
「くつひも、ほどけてるよ」
「は、はは! こいつは傑作だな、あいつ、犬の躾けもできてねえのか」
「むすんだほうがいい。ころんでもしらないぞ」
「おいお前、あいつに不満があるならオレのところに……」
男の視界が反転する。
「あ?」
ぐるんと回ったと思えば背中に衝撃を感じて息を詰まらせた。その過程で見えた女が驚いているのを一瞬見て、理解が出来なくなった。腕と肩が痛い。
「ほら、だからいったろ?」
仔犬が笑うのが見えた。ノンビリラッコのぬいぐるみを抱えて、可愛らしく、愛らしく笑みを浮かべている。
小さなこの身体で、顎を掴んでいた腕を一瞬で捻り上げたらしい。そのせいで肩と肘の感覚がおかしい。床へ転がって痛みに呻く男が仔犬を睨み付ける。「くそ野郎の愛玩物が」と言葉が聞こえて仔犬の目に仄暗い色が落ちた。低く、猛獣のような唸り声がして、リオセスリの目は男の喉を見据える。いつでもその首を、食いちぎれるようにと狙いを定めて、ぶわりと毛が逆立った。
男が一瞬ひるみ、立ち上がろうとした瞬間。
「何を騒いでいる?」
部屋のドアが開き、出てきたのはヌヴィレットだった。ざわつく廊下に様子を見に来たのか、それとも用事が済んだのか、一触即発なこの場に、彼の存在が介入するのは良い事なのかその場に居た者たちは判断が出来なかった。ただひとつ、男の命は無いかもしれない、が総意であった。
「っあんたのしつけのなってない犬が!」
悲鳴のような声に、床を殴りつけたと疑う程の音をさせて杖が床へ突かれる。
「すまないが、よく聞き取れなかったゆえ、もう一度言って貰っても?」
「あ、あんたの、あ、」
酷く空気が重く苦しい。ただ見られているだけなのに、呼吸の仕方を忘れたように息が苦しくなって詰まってしまう。怖い。怖くて堪らない。目が離せなくて、まるで首を絞められているような錯覚になり、ぐらりと男がひっくり返った。ぶくぶく、と泡を吹いて転がり、ヌヴィレットは男からへたり込んでいた女へ視線を移した。
「怪我は?」
「あ、怪我は、ないです、あの、彼が、助けてくれて……し、叱らないであげてほしいんです!」
「ふむ」
足下で男を見たまま、リオセスリは振り返らない。上手に『待て』を出来なかった事を反省しているのかいつの間にか耳や尻尾がしょんぼりと倒れてしまっていた。
「リオセスリ殿」
ぴくりと耳が震える。けれど彼は振り向かなかった。
「おいで」
酷く優しい声がして、女が思わず息を呑んだ。優しく笑みを浮かべて、その声にリオセスリはゆっくり振り返り、呼ばれたとおり、ヌヴィレットの足下まで来た。抱き上げて、落ち込んだ様子の彼をヌヴィレットは抱きしめた。
「どこか怪我は?」
「……ない」
「触られたりは?」
「……かお、つかまれた」
「すぐ消毒をしよう」
背を撫でて、ひとつ額に口付ける。そのヌヴィレットとリオセスリの姿に、その場に居た者が目が離せなくなってしまう。それはまるで、神聖なもののように見えたからだった。
「ぬびれっとさん」
「ひとりにしてすまなかった」
「ぬびれっとさん」
「うむ」
仔犬が首を振る。肩口に顔を埋めて、甘えるリオセスリの背を優しく抱きしめる。ヌヴィレットが女へ「あとは、任せても構わないか」と視線をやれば、周囲の者たちが「任せてください」と前へ出た。くるりとヌヴィレットの腕に仔犬の尻尾が振れて、ヌヴィレットが一つ礼を言って背を向け、歩き出す。その後ろ姿を女が視線をやれば、肩から仔犬がこちらを見ている事に気がついた。
凍てついた氷の瞳が、重く暗い色を帯びて、転がった男をじっと見つめていた。