「かっ、カッ、カブルーが頭打って意識不明ってホント?!」
息せき切って部屋へと入ってきたのは、髪を乱したマルシルだった。彼女は大きな瞳を不安げに見開き、杖を支えにしながらぜえぜえと肩で息をしている。
部屋の中にいたヤアドが、彼女を宥めるように指を口に当てた。
「ええ。けれどもう治療は済んでいますよ。今は眠っているだけです」
「よ、よかったぁ……」
マルシルがへなへなとその場に膝を突いた。落ち着いたヤアドの様子にほっとしたのか、目には安堵の涙を浮かべている。
「ライオスさんが一緒にいたので、処置が早くて助かりました。ね? ライオスさん」
「えっ、ああ、うん……」
ベッドの脇に座っていたライオスが、声をかけられてはっとしたように顔を上げた。どこか気まずそうに顔を見合わせ、傍で眠るカブルーにまた視線をやった。膝の上で組んだ手を落ち着かなさそうに組み替えながら、ライオスはじっと黙っている。その表情は硬く、どこか青褪めているようにも見えた。
「……ライオス、大丈夫?」
「ライオスさん、少し休んできてはどうですか? ずっと側に付いていたでしょう」
マルシルが心配そうな顔つきでライオスの顔を覗き込み、ヤアドもまたそれを肯定するかのように言葉を続ける。
「彼が目を覚ましたらお呼びしますから。そんな顔色では、カブルーさんが逆に驚いてしまいますよ」
「……すまない、そんなにひどい顔をしているかな」
「真っ青だよ……わ、手も冷えてる」
「何か温かいものでも用意させましょう。隣の部屋に……」
「……う……」
「!」
小さな声と共にカブルーが身動ぎをし、三人は口をつぐんでそちらを見た。長い睫毛が震え、顔を顰めながら瞼が開かれる。目を開けたカブルーは、自分を不安げに覗き込む顔を見て瞬きをした。
「……ライオス? どうしたんですか……?」
「か、カブルー! よかったぁ! 平気? どこも痛くない?」
「え、マルシルにヤアドさんまで……一体どういう、……う、」
「……だ、大丈夫?」
「……ちょっと、気持ち悪いです」
「まだ横になったままの方がいいですよ。傷は治療しましたが、頭を強く打ったみたいですから」
「ヤアドさん……すみません、ちょっと状況がわからなくて……何があったんですか?」
「俺だ」
目覚めたばかりで状況が飲み込めないでいるカブルーが尋ねると、硬い声が鳴りを静めた。
「……ライオス?」
「俺のせいだ。俺が、ふざけて階段から落ちそうになったのを君が庇った。君が怪我をしたのは俺のせいだ。すまない、カブルー」
そう言って、ライオスは深く頭を下げた。謝罪を受けたカブルーと、ライオスの告白を聞いた二人は驚いて固まっていたが、じき我に返ったマルシルが声を荒げた。
「へァ!? な、何してるの! 目を覚ましたからいいものの……もっと大事になるかもしれなかったんだよ?!」
「ああ。本当にすまない」
「バカ! ライオスのバカ!」
マルシルが涙ぐみながらライオスの肩を何度も叩く。殆ど痛くもないであろうそれをライオスは黙って受け入れている。
「……マルシルさん、その辺りで……」
「うぅー……」
ヤアドがマルシルの肩にそっと手を置いて宥めると、マルシルはぐすぐすと鼻を啜りながらもライオスを叩くのをやめた。何も言わずに俯いたままでいるライオスに、ヤアドは一転して硬い面持ちで口を開いた。
「ライオスさん」
「うん」
「あなたの振る舞いは、王としても一人の大人としても到底褒められたものではありません。それはわかりますね」
厳しい老人の声が、場の空気を硬く張り詰めさせた。直接声を掛けられていないカブルーとマルシルでさえ、思わず身を竦ませる。ライオスは顔を上げ、深い威厳を湛えた目をまっすぐと見返した。
「ああ。軽率だった。二度としない」
「よろしい」
ヤアドは深く頷くと、厳しい声を和らげ、枕に頭を預けたままのカブルーへ向き直る。
「カブルーさん、あなたはしばらく休んでいてください。少し様子を見た方がいい。それまでの間は我々で出来ますから……」
「あの、すみません、今は何時ですか?」
「今ですか? もう夕食が終わった頃ですよ」
それを聞いたカブルーは、俄かに焦りの表情を浮かべた。
「夜!? あの、今日の昼に南方のドワーフたちが来る予定があったと思います。会食はどうなりました? どういった話をしていましたか? それから、東方から書状が届いていると聞いたんですが、それについては……?」
カブルーが慌てた様子で告げた内容に、ヤアドが言葉を失った。マルシルが息を飲み、ライオスもまた、到底信じられないような目でカブルーを見ていた。
「……あの……?」
固まったように動かない三人の様子に、妙な雰囲気を察したカブルーが窺うように首を傾げる。マルシルが、口に当てた手の下で唇を震わせた。
「そ、の話って……」
「カブルーさん」
ヤアドが彼女の言葉を遮って、小さく首を振る。戸惑いながらこちらを見上げる青年を宥めるように静かに口を開いた。
「その会食なら滞りなく終わっています。……二ヶ月ほど前に」
その後、治療に当たった治療師と医者が呼び戻され、ライオスら三人も立ち合いの元再度カブルーの状態について診察が行われた。
結果下されたのは、カブルーがここ二ヶ月ほどの記憶を失くしてしまっているらしい、との結論だった。
「……頭部への強い衝撃で記憶が飛ぶ、って話は聞いたことありましたが、実際に自分がなるとは思いませんでしたよ」
「ほ、ほんとにわかんないの? 最近のことなんにも?」
「駄目ですね。昨日一日のことを思い出して話してみたら、それも二ヶ月前のことだと言われましたし」
「えぇ……? だ、大丈夫なの……?」
「まあ違和感はありますが、なるべく早く業務に復帰できるようにします。記憶にない期間のことはヤアドが近い内に時間を取って教えてくれるそうなので」
「うーん、それは心配ないのかもしれないけど……」
マルシルがちらりと横目でライオスを見た。ヤアドは先ほど医師を伴って部屋を退出したが、マルシルとライオスは部屋に残ったままだ。けれどもライオスは椅子に座ったまま、じっと黙り込んでいる。
明らかに沈んだ様子のライオスにマルシルは不安そうで、怪我で倒れたばかりのカブルーとどちらを気にかけたらいいのかおろおろとしているようだ。カブルーはそんな彼女の心配を和らげようと声をかけた。
「魔術まで使って診てもらいましたから、心配ありませんよ。けどお言葉に甘えて、今日はもう部屋に戻って休むことにします。マルシルも、遅くまでありがとうございました」
「えっ、ううん、全然! 大丈夫? 一人で帰れる?」
「さっきも立ち上がってみたでしょう、大丈夫ですよ。外を出歩くわけじゃありませんし。それじゃあ……」
「俺が、」
不意にライオスが口を開き、二人は思わずそちらの方を向いた。ライオスが椅子から腰を浮かせ、カブルーと目が合うと一瞬息を飲みながらも続けた。
「……部屋まで、送らせてもらえないか。大した距離ではないけれど」
「ええ、それじゃあお願いできますか? ライオス」
「ああ」
カブルーはゆっくりベッドから起き上がると傍に寄せられた靴を履いた。手を貸そうかという二人の目線を無言で辞退し、勢い付けないように立ち上がる。立ち上がってから少し様子を窺ってみるが、眩暈も気分の悪さもない。平常そのものだ。
「では、マルシル。おやすみなさい」
「あ、うん。おやすみ……」
彼女に挨拶を返し、カブルーはライオスが開いた扉をくぐって部屋の外へ出た。王に扉を開けさせるなど臣下にあるまじき振る舞いだが、ここは素直に厚意を受けておいたほうが彼の気も軽くなるだろう。軽く礼を言ってカブルーは静かな廊下を自室へ向かって歩き出す。
「ライオス、夕食は食べたんですか?」
時間はもう日付も変わろうという頃だ。普段のライオスならばとうに食事も風呂も終えてベッドに入っている頃のはず。なるべく普段通りの調子を心掛けながら、カブルーはライオスに話しかける。
「いや……」
「駄目ですよ、食事は大切になんでしょう。朝までもちませんよ、何か食べてください」
「……食欲がないんだ」
「あなたからそんな言葉が出るなんて。……ごめんなさい。俺のせいですよね」
カブルーは、思わず歩みを止めて眉を寄せた。ライオスにとって食事は、生命活動に必要であるという枠を超えて重要なものだ。彼は健康のための食というものの重要性をよく理解しているし、また食を楽しんでもいる。息詰まる宮廷生活の中の数少ない愉しみの一つであるのだ。胃袋が満たされることはなくとも、嬉しそうに食事をして舌鼓を打つ風景を常日頃から眺めていればライオスにとって食事を抜くということがいかに辛いことなのかを想像するのは容易い。そのライオスが、自身の怪我の責任を感じて食欲を失くすほどに沈んでいる姿は胸が痛んだ。
少し前で立ち止まったライオスがカブルーの方を振り返る。彼は眉間を険しくさせ、カブルーの言葉を強く否定するように首を横に振った。
「それは違う。君は何も悪くない、カブルー。俺がふざけたせいなんだ。本当にすまない、君に迷惑を、」
「嘘ですよね」
謝罪を重ねようとするライオスの言葉をカブルーは、はっきりと確信を持った声で否定した。猫のように丸いアーモンドの瞳が、隠し立てすることは許さないとばかりの強さで戸惑う琥珀色を捕らえる。
「あなたは確かに王としての自覚が致命的に欠けてます、ライオス。ただそれでも、悪ふざけで人に怪我をさせるような人間じゃありません。……何があったんですか?」
カブルーが問うとライオスは唇を歪め、苦々しげに視線を逸らす。この沈黙は肯定の証だ。この人は本当に嘘が下手だな、と考えながらカブルーは目をうっすらと細める。
「……あなたと俺が二人で城下町に出掛けたのは確かだ。マルシルもヤアドもそこは同意してます。二人の態度からして、出掛ける前に何かあった風でもありませんでした。俺が怪我をした理由……町で何かがあったんじゃありませんか?」
カブルーが目覚めたときのライオスの表情。蒼褪め、俯きながら視線を逸らして落ち着かなさそうに指を組んでいた。体を小さくするように丸める姿勢を始めカブルーは、ばつの悪さから来るものだと捉えた。だが、それと同時にそこに、ただの罪悪感では片付けられないような違和感を覚えたのだ。
ライオスの目にあったのは、罪の意識だけではない。あれは怯えだ。何かへの、否、誰かへの。
この国が興ってからカブルーが一番恐れていること。それは、王であるライオスに危害が及ぶことだった。今メリニが千年前に滅びた黄金の国の流れを汲むものとして認められているのは、間違いなくライオスの功績である。ライオスがかつての王の言い伝え通りに魔術師を打ち倒し、悪魔をも食らって迷宮を解放に導いたからこそ、この地を治める新たな王として認められているのだ。もしもライオスが王の座に就いていなかったとしたら、この国は今こうして多くの民が暮らせる場所にはなっていなかっただろう。
しかし当然のことながら、この国の存在を快く思う者ばかりではない。かつての暮らしを奪われた隣国を始め、迷宮やそこに眠る技術を短命種の手に渡したくない長命種、悪魔の存在を支えとしていた迷宮の主たちや、ただ富や利益を求める者たち。
人の欲に限りがないように、人の悪意もまた際限がない。この世には、筆舌に尽くしがたいほど残酷な手段を思い付き、実行してしまう人間がいる。
──もしもライオスの命が、何者かの悪意によって脅かされたとしたら。もしも彼の心や体に、生涯消えない傷が残されてしまったとしたら。
想像をするだけで、カブルーは自分の顔がひどく冷たく表情を失くしていくのを感じた。怖気とも寒気ともつかない感覚に、体中の産毛が逆立つような心地がする。無意識の内に、手が片時も離さず身に着けている短剣へと伸びていた。だがしかし、ライオスはカブルーの言わんとするところを察してじわじわと目を丸くし、大袈裟なまでに手と首を横に振った。
「ち、違う! 何もなかった。……町は、平和そのものだったよ」
ライオスはそう言いつつも視線を下げた。その仕草の意味を読み取ろうとカブルーは指の先までをも注意深く目線を走らせる。だが、何かを隠していることはわかっても、その正体が何かまではわかろうはずもない。
結局、それ以上の追及の言葉を考える前にカブルーの部屋の前へと着いてしまった。カブルーは今夜はライオスから話を聞き出すのは無理だと諦め、ここまで見送りに来てくれた謝意を伝えると、軽く頭を下げて部屋へと入った。
「おやすみなさい。ライオス」
「……ああ。おやすみ、カブルー」
控えめに笑みを浮かべながら、カブルーは扉を静かに閉じた。最後に見えたライオスの、どこか痛みを堪えるような表情が頭の奥にちくりと刺さって抜けそうになかった。