いつかの明日 無重力の中で落下する。体に力が入らなくて握ったメスがうまく動かない。止血したいのに縫合糸が見つからない。体にまとわりついた物は人間の内臓で、それはそこにあってはいけないことはわかるのに、どうしていいのかわからず僕はパニックに陥る。手術室の緑の壁が見えてそこに行きたいと強く願う。強烈な照明に胸が苦しくなる。
そこに行けばなんとかなるのか? 僕は何ができるんだ? ますます混乱し不安が押し寄せる。もがこうとして身体が動かないことに気が付いて僕はさらに慌てる。どうしよう。こんなことをしている場合じゃない。
(大丈夫だ)
ぽつんとそんな言葉が浮かぶ。
(大丈夫だジェウォン)
そうだ。大丈夫。大丈夫だヤンジェウォン。言い聞かせる。その言葉を信じたい。大丈夫の言葉にすがるうちに闇に飲まれかけていた身体が身体の形を取り戻してくる気がした。
でもまだ身体は動かない。あそこに行かなくちゃならない。
どうしよう。どうしたらいい。苦しい。
動けなくて苦しくて叫びたいけど喉が塞がって声も出ない。それも苦しい。大丈夫。大丈夫。息をするんだ。もう少しできっと。
(うわあああ…っ!)
やっと絞り出した叫びはか細くて音にもならなかったけど、声と同時に身体の自由が戻った。
当直室の見慣れた天井。
目が覚めた。夢だ。また見た。
はあ、と息を吐くと汗だくで走った後のように心臓がバクバクしていた。
手で顎の下の汗を拭って顔を捻ると、2段ベッドのフレームに手を掛けてこちらを見る教授と目があった。
「起きたか?」
「……はい、教授」
起き抜けで声が掠れる。
「朝メシ食うぞ」
「あの」
「ん?」
ベッドから離れドアに向かった教授が振り返った。
「僕、寝ながら騒いだりしてませんでした?」
「いびきなら毎晩うるさいぞ」
「そ、それはすいません」
何を今更と言う顔で返されて僕は恐縮した。そんなこと気にしてたらこの商売やっていけんからなあとのどかに首を回しながら教授は「先に行くぞ」と今度こそ宿直室を出て行った。僕はその背中を見送って肩の力を抜く。
最近夢見の悪さが続いている。でもそんなことを教授には知られたくなかった。技術も知識も経験も足りない上に、精神まで弱いと思われたくない。2号が来てから勤務は少し楽になったけど、教授は変わらずほぼ常駐してるし、戦場の修羅場を経験してる2号と比べて劣っていると思われたくない。
それに1日が始まればそんなこと考えていられない。教授について走るだけだ。学んで、走って、怒られて、学ぶ。
そう信じてくる日もくる日も悪夢にうなされながら走り続けていたある日。教授におい、と声をかけられた。術後の経過観察を終えて少し仕事が落ち着いたタイミングだった。
「明日からしばらく病院に来るな」
言ってることが理解できずぽかーんとアホ面を晒していたと思う。
「自分に足りてない物は何か考えろ」
これって、ほぼ最後通牒なのでは……?
不安に視線が彷徨い、教授の肩越しにジャンミさんと目があったけど心配そうに僕らを見ていたので慌てて逸らした。たまたま居合わせたギョンウォンも同じ目をしたから目を逸らす。アグネスさんも。なんだよみんな。同情か?
「休みは余ってるだろ。許可するまで出勤は禁止。少なくとも一週間は来るな。荷物をまとめてこのまま実家に行け」
一度決意した教授は折れない。絶対だ。
本当は抵抗しなくちゃならないところだった。でも感情を見せない医者の冷静な目で見られて僕は何も言えなかった。
ミスもしてない。指示にも従った。完璧じゃないけどアシスタントもこなしてる。2号よりずっと頑張ってる。活躍してる。なのに、なんでだ。
「ぼさっとするな。邪魔だから行け」
「……はい」
嫌ですもどうしても言えず、僕はただ返事をして踵を返した。ため息が追いかけてきて惨めさに追い打ちをかける。
「痛々しくて見てられません」
ジャンミさんの声が聞こえたが、庇われてるみたいで居た堪れなくて鼻がツンと痛んだ。すれ違った2号が怪訝な顔をしていた。このやりとりが見えてないといいと心底願う。
数ヶ月ぶりに実家に行くと、連絡くらいよこしなさいと怒られるかと思いきや待ち構えられて歓迎された。病院から急な休暇になった、て連絡があったのよ。はなやいだ母の声に落ち込んだ顔ではいられなくて無理矢理笑顔を作って好物ばかりの夕食を腹に詰め込んだ。
こんな気持ちではとても眠れないと思ったが、久しぶりの自室のベッドに入り、気が付いたら翌日の昼近かった。
寝過ごしたと飛び起きて自分が寝巻きなことに気がついた。ここは病院じゃないと呆然とする。電話も鳴らず、途中で起こされもしなかった。通知のないスマホの画面を見てカーテンの隙間から漏れる日光を眺めて何をするべきかわからずもう一度ベッドに横になる。
どういうことなのか昨日の出来事を考えなくては。丸くなってそう思った次の瞬間また眠っていた。
健全な精神は健全な肉体に宿る、だっけ。
使い古された名言はそれだけ普遍性があるらしい。
結局2日くらい寝たり起きたり寝たり悪夢の気配にうなされたり寝たり起きたり食べて寝たり起きたり食べて寝たりしてようやく頭が働き始めた。
あまりに僕が長時間寝続け、起きていてもぼんやりしているから家族が心配して病人扱いし始め、慌てて「疲れてるだけ」と説明した。「ずっと勤務がハードだったから特別に休暇を」取り繕うために出た言葉だったけど、ああ、そうだよな、とようやく気が付いた。
昼夜もない生活が当たり前すぎて忘れてたけど、こんな生活おかしくなって当たり前なのだ。だけど僕は自分がそういう生活をしてることがすっかり抜けていた。
それに2号が着任してから、2号のことを意識しすぎて負けられない、と知らない間に力が入っていた。呼ばれた時に先に教授のところに行かなくちゃとか、自分が先輩なんだから知識も経験もあることを示さなくちゃ、とか。だからそれまで以上に病棟に顔を出したり、論文を読んだり……仮眠中も眠りが浅くなり、寝る時間と食べる時間も前より減らしてた。いつのまにか。
正直に言おう。それは教授の隣に2号がいるのが嫌だったからだ。自分の場所を取られたように。僕は1号なのに、ギョンウォンのことはパク先生と呼ぶのが悔しかったけど、その時とも違う。これは完全なヤキモチだ。
「カッコ悪い……」
散歩に出た漢江河畔のベンチで僕は頭を抱えた。
明日で教授に言われた一週間が終わる。悪夢はまだ見るけど頻度は減っていた。今ならなんで教授が僕を実家に帰らせたのかわかる。
この一週間病院からの連絡は一切なかった。常に着信に怯えるあの嵐の日常と同じ世界とは思えない「何もない」日々。寝倒して頭がスッキリしてから教授に電話しようとしたけど、何を言えばいいかわからなくてできなかった。一度だけジャンミさんに電話したけど「何やってるんですか。ちゃんと休まなきゃ」と軽く叱られてそれきりだ。教授やセンターがどうなってるか聞く隙もなかった。
この一週間を終えたら病院に行ってもいいか、教授に許可を求めなくてはならない。だけど「僕に足りない物」の答えはよく寝てクリアになった頭でも見つけられずにいた。
「どうしよう……」
「折角休暇をやったのに暗い顔だな」
「!!」
抱えた頭ごと膝の上に蹲っていたら上から降ってきた声に僕は文字通り飛び上がった。当直室の僕を大声で起こす時と同じ顔をして教授が立っていた。
「教授……! こ、ここここでななななにして……」
「ちゃんと寝たか?」
「は、はひっ」
テンパる僕に慣れてる教授にいつもの調子で尋ねられて反射で答えていた。
「ちゃんと食ったか?」
「はい」
「そうか」
にやっと満足そうに笑う。顔を見たかったけど見たくない相手の登場に飛び上がったせいで、身体が隅に寄っていた。その空いたスペースに断りもせずにどさりと座った。
「足りないものが何かわかったか?」
一週間ぶりの横顔が懐かしかったのか、何故か少しきゅんとしながら見ていたら、恐れていた質問がきた。何か答えなくては、と僕は唾を飲み、唇を舐めた。ここで答えを間違ったら出勤できないかもしれない。それどころか、教授とセンターで働けないんじゃないかと思うと怖かった。
だけど、正直に言うしかない。
「わかりません。というか、思いついたことはこれ以上どうしたらいいのかわからないものばかりでした」
「なあ一号」
やれやれ、とついたため息は出来の悪い弟子を咎めるのではなく聞き分けのない子どもを宥める時のものだった。
「がむしゃらにやることも必要だが、自分自身に向き合うことも大事だぞ」
「……向き合う、ですか?」
短気なとこもあるけども、この人の根気の良さは相当だ。手の施しようがない患者をなんとかして救おうとする時の粘り強さだけでなく、不詳の弟子に助けを差し伸べる時にもそれは発揮されるらしい。
というかどうしてここに来たんだろう。もしかして家まで来るつもりだったんだろうか。でも家にいなかったから探しにきた? 仕事を抜けて? 白衣を脱いでそのまま出てきた格好だ。僕のために? 仕事以外で病院の外には出たがらない人なのに。
その人は今、患者の話も何もしないで静かに僕の隣に座っている。辛抱強く。
だけど鸚鵡返ししたきり僕が黙り込んでいるから、それならと教授は口を開いた。
「大体お前、私に帰れと言われたって帰らないだろ。普通なら」
「ああ、はい」
そうかもしれない。
「おかしいと思わなかったか? だから帰した」
「……」
「休める時に休んで食える時に食う。それも仕事だ。それを疎かにするようなこと本来のお前はしない」
「……はい」
「そしてそのことに気が付いてもいなかった」
見抜かれていてぐうの音も出ない。僕の足りてない物は自己管理、というか、自己分析か。今必要なことは何か、を選択する判断力。
「自分自身を管理できなくちゃ、この仕事はできない。人と比べる必要もない。お前は優秀だが、そこはまだまだだ」
「はい」
お説教モードだけど、教授の声は穏やかだった。嫉妬したりもがいたりしてた僕のことをずっと見ててくれたのだろう。見捨てられたわけじゃない。その穏やかさにほっとして一瞬スルーしかけたけど、今大事なこと言ってたよな? と僕は大声を出した。
「待ってください教授!」
「ん?」
「今なんて??」
「まだまだだ?」
「その前!」
「人と比べるな」
「だから!」
「自己管理が大事」
「んもおおおっ!! わかってやってるでしょ!!」
腕と髪を振り乱して怒鳴るとむかつく笑顔でカッカッカッと豪快に笑った教授が手を伸ばし僕の髪をさらに乱した。その犬みたいな扱われ方に僕はキイッと歯をむく。年甲斐もなく戯れる男2人に通行人が何事かと怪訝な視線を向けてくる。
注目されるのが好きな教授は気にしないし、僕も今は嬉しくて人目なんて気にならなかった。
「よく寝て調子が戻ったみたいだな」
「はい」
「また走るぞ」
「一週間寝てばかりいたので、走るのは身体がつらいです」
「贅沢言うな!」
お前が居なくてこっちは大変だったんだぞ! と怒鳴られてえへへ、とほおが緩んだ。2号だっていたのに、僕に居てほしいと言われたみたいで。だから。
「僕にできると思いますか?」
ずっと前から、なんなら2号が来る前から胸の中でわだかまっていたことを思い切って聞いてみた。僕でいいですか? 僕はあなたの信頼に応えられてますか? 本当に後悔していませんか?
きっとそんな不安も見透かされていたんだろう。真顔になった僕を教授は真正面から受け止めてくれた。じっと目を覗き込まれてなんだか胸がくすぐったい。
「お前は私の奴隷1号だろ? ここまで私についてきたんだから、できるさ」
「奴隷じゃなくて弟子です!」
お約束通りに訂正すると教授はそうだったか? とおどけてみせる。もう! と憤慨しながらぐずぐずしはじめた鼻をすすった。
大丈夫、と言われて気が付いた。
悪夢の中で「大丈夫」と支えてくれていたのはこの人の声だ。傷付き不安を抱えた患者を安心させる医者の声。その効果は絶大で、根拠もなく僕の心は軽く、そして少しの誇らしさに満たされる。もしかしたら、魘される僕に声をかけていてくれたのかも? いやそれは甘えすぎか……。でも暖かいものを感じる。それは勘違いや思い込みではない。
まあその眼差しは、仔犬や子どもを見る時のものに近い気もしてそれは不本意だけど……!それ以上を求めるのは、今はちょっと保留にしておく。
潤んだ目を誤魔化すために瞬きしたり遠くを見る僕をにやにや眺める様子からは想像できないけど、本当は優しい人だからいつかは。
「教授、あの……」
お礼を言おうとしたら電話に遮られた。表情がすっと変わる。呼び出しだろう。2号へ指示を出すと15分で着く、と電話を切り上げて重症外傷外科医の顔で僕を見た。
「交通事故だ。負傷者2名」
「はい。行ってらっしゃい」
「ヤン先生は来ないのか?」
「休暇中なので明日からにします。親孝行もしないと」
「こいつ……っ」
急に太々しくなりやがって。
罵り、殴るふりをしたが教授はすぐに表情を緩め「できるうちに親孝行はしとけ。じゃあ明日な」とあっさり立ち上がる。背中を向けた教授はもう振り返らない。患者のことしか考えてないから。それだけでなく、必要な時に僕が付いてくることも信じているから。
その信頼を信じていればよかったのに、何よりも信じられる人のことすら信じられなくなってたんだな。やっぱりどうかしていた。もう同じ間違いはするまいと決意する。
そんなふうにならないために、彼はどうやって自分を律しているのか。いつか聞いたら教えてくれるだろうか。
早くあの人の隣に立ちたい。改めてそう思った。立たせてもらうのではなくて選ばれて自信を持って立てるように。まずは明日から。