勝算 韓国大病院の代名詞にもなった重症外傷センターから教授が去ってから3年がすぎた。
凄腕の外科医がいるという評判は何よりの広告塔だ。ペクガンヒョクならもしや、という一縷の希望を込めた患者はむしろ増え、重症者ばかりが運び込まれるのは……と渋い顔をしなながらも院長は「病院の認知向上に貢献した」として支援金の配分を増やし、少しずつ医師やそれ以外のスタッフも充実してきたタイミングだった。
教授の退職は突然だった。
研修先で見つけたという医師を「来週からここで働く」と僕たちに紹介し、ついでのように「私は今週で最後だ」と発表した。その場の全員がぽかんとしている間に交通事故の一報が入りそのまま気が付いたら翌日だった。教授は引継ぎやら事務手続きやらで殆ど病棟に顔を出さず、僕は日々の業務に追われゆっくり話す暇もなかった。実に重症外傷センターらしい別れだった。
最後に殆ど顔も見れなかったのは、シフトのタイミングかと思っていたけど果たしてどうなのか。避けられていたのかもしれない。
そう思う出来事があった。
それはあまりにもありふれた毎日の一コマで、いつのことか、なぜ彼がそこにいたのかも僕がどうしてそこに行ったのかもよく覚えていない。でもその時のことは鮮明に記憶に残っている。
屋上でドクターコートの裾を風にはためかせる教授は、いつもの見慣れた少しくたびれた表情で、目の下にはほんのりクマがあり、うっすらと無精髭の見え始めた口元を軽く結んで遠くを見ていた。
足音で気づいたのか、それとも僕の視線があまりにも切実だったのか、彼は静かに向き直った。
目だけで「どうした?」と問いかけられ、彼を見つめていたことに気が付いた。
パリッとしたスーツを着てきちんと髪をセットした教授は人目を引いたし、それを楽しんでいるように見えた。だけど僕はいつも少しくたびれた教授の姿に目を奪われる。患者に向き合い、自信に満ちて強い意志と技術で困難に向き合う姿とあまりにもかけ離れた姿。この時彼は背中に背負う黄昏に紛れてしまうのを踏みとどまるように白衣の裾を風に遊ばせていた。理想のために他人にも自分にも厳しく、それゆえ孤独でひとりぼっちで、それを受け入れている人の姿だと思った。どうして目が離せないのか。この時その理由が突然わかった。なぜそれまで気がつかなかったのか不思議なくらい明白だった。
立ち尽くす僕を静かに見返す教授としばらく無言で向き合っていた。
「惚れたのか聞かないんですか?」
そう言ったのは、自分の視線があまりにも雄弁なことがわかったからだ。鼻がツンと痛む。目頭が熱くなるほど誰かを見つめる理由なんて、他にない。
「聞く必要あるのか?」
茶化すのでも、誤魔化すのでもなくただ当たり前の事実として教授は問い返した。いつもの自信に満ちて、答えを知っている口調で。
答えなんてこの人はわかっていた。僕が気づくずっと前から。廊下を走りながら、手術台の前で、僕が悩み、苦しみ、学び、自分の力で気付くのを見守っていたのと同じように。
しばらくじっと僕を見て、僕が何も言わずに立ち尽くしているのに飽きたように軽やかに歩き出す。すれ違う時に肩にぽんと手が置かれた。重くもなく、軽くもなく。拒絶でも許しでもなく。ドアが金属の軋む音を立てて閉まるまで、僕はその場に立ち尽くしていた。「馬鹿だな」小さな声が聞こえた。
その時から僕の中で何かが変わった。でも、彼と僕の関係は何も変わらなかった。僕は教授の後を追いかけて走り、手術台で患者を挟んで向き合い、アシスタントであり弟子であり同じチームの一員だった。
彼は何も変わっていないと思っていたのは僕だけだったのかもしれない。教授が病院を去ったのはそれから数ヶ月も経たない頃だった。それがきっかけだったのかもしれないと、後になって思う。
それはつまり、彼には何か思うところがあったのだ。僕が自分の本心に気が付いたのと同じように。そうでなければあの人が僕にそんなこと言わせるわけがない。
この人と同じ物を見られるようになりたい。隣に立つために。
いつか言われた「諦めない理由」。
医師として不純かもしれないけど、人として真っ当だと思う。憧れの人に、心底惚れた人に近づきたいから。その人と肩を並べたい。そう、確信したのがその時だった。
だから今僕は彼の後を追っている。文字通り。彼は今はまたアフリカにいた。邦人医師負傷の報道を見て、今だと思ったのだ。辞表はもうずっと前から用意していた。教授を追いかけることは決めていたから。
この3年間教授は世界中の紛争地帯を転々としていた。国境なき医師団や国連の難民キャンプ。もちろん古巣のブラックウィングスの拠点にも身を寄せていた。近況報告があったわけではない。助言をもらいたくて電話をすると「こんな時間になんだ」と第一声が返ってくるので「今度はどこにいるんですか?」と聞くと地名だけ返ってくる。ちなみに現地の昼間でもそう言われる。それは韓国が夜中の時だ。どんな時でも電話に出るのは僕らの体に染み付いた習慣だ。だからメールで済む用件でも僕は通話を選んだ。声を聞くとそれだけで力が湧いた。彼は決して僕を拒まなかった。
そんな口実も、やがて減ってきた。ストレッチャーの患者を見て何ができるか何をすべきか。教授ならどうする? そう自問する記憶の中のペクガンヒョクの判断はいつの間にか僕自身の判断になっていた。
でも、もっと学ぶことはある。するべきこともある。それはあの人の隣でなくちゃダメなんだ。
ハン部長にも、院長にも引き留められた。休職扱いにするからいつでも戻ってこい、とまで言ってもらった。でもハン部長は僕が戻らないことをわかっていた。「お前をあいつに取られた時に、こうなる予感がしたんだ」なんて憎まれ口を叩きながら送り出してくれた。ジャンミさんには半泣きで「生きて帰ってくるんですよ!」と背中を叩かれた。ギョンウォンは言葉少なにここは大丈夫と受け合い、2号は自分も行きたそうな顔をしていた。
みんな教授のことを愛して心配してる。
空港からバスやタクシーを乗り継いでたどり着いた拠点のビル。僕が訪ねると、医務室、と小さく看板が下げられた部屋で彼はpcの前で論文を読んでいた。当直室の見慣れた光景。この人はどこにいても自分の場所にしてしまう。その懐かしい情景を見るなり僕は怒鳴り散らした。
「なんで非戦闘員が怪我してるんですか! しかも銃創?!」
「仕方ないだろう。職場が戦場なんだから」
「いいえ違いますね! あなた自分からヤバいとこに飛び込んだんでしょ」
「……よくわかったな」
「ほらやっぱり!!」
病院や拠点ではなく、戦闘地帯の真っ只中で救助活動をしていた時に被弾したことはニュースで聞いていた。その時にこの人は自分から進んでそこに行ったことを確信していた。
怪我自体は軽症で、治療の跡はあるけどほぼ回復していた。腕の怪我なんて仕事に障りがあったらどうするんだと詰ろうとしてやめた。意味がないから。
僕が韓国語を大声で捲し立てていたので、何人か通行人が何事かと部屋を覗き込んできた。この男を怒鳴る人間がいるなんてという顔で僕を見る。教授が大丈夫だと手で追い払うと口笛を吹きそうな顔で通り過ぎていった。
「久しぶりだな」
「変わりないですね」
「なんで来た」
「唯一の医師が怪我したと聞いたので」
「センターをほっぽり出したのか」
「そっちは僕がいなくても回ります」
久しぶりに会ったからと言って嬉しそうな顔も別に見せてはくれない。嫌な顔もしない。その誰に対しても公正な態度は相手を拒みはしないが踏み込ませない。でも僕は怯まない。
「あなたがいなくても死亡率は抑えてますし、後進も育ってます」
「ふん」
やるじゃないか、と一瞬目がきらめいた。褒めてもらえるなんて思っていないが、誇ってもらえるとは思っていた。あなたの教え子たちを。
「ここには自分が必要だって?」
「はい」
「ここじゃなくてもいいだろう。医者が足りない現場はいくらでもある」
「アシスタントが必要だと思って」
飄々とした口ぶりも懐かしい。鍛えられた僕は怯まず口答えもするし図々しくもなった。
「先生自らアシスタントか。そんな贅沢を?」
「アシスタントがつくようになってわかったんです。優秀なアシスタントがいた方がいいでしょ?」
へえ、成長したな。そんな風に教授は笑った。前と変わらない少し冷淡に見える、面白がるような目をして。
だけど教授。あなたには必要なはずだ。医者のくせに現場に突っ込んでいくのを止める人間が。もしくは、突っ込んでいけるようにあなたの代わりをする人間が。あなたに自身に何かがあった時にあなたを治療する人間が。そのためにあなたと同じところで同じものを見て隣に立つ存在が。
韓国で教授が作った基礎を僕らは踏み固め、積み上げ、時に足場が崩れそうになることもあったけれど、なんとか踏みとどまってきた。そうするのが教授の望みだったし、そうできなければ僕はここに来れないとわかっていたから。胸を張ってここに来れるまで踏ん張ったのだ。あなたのパートナーになりたくて。
「あそこは僕がいなくてもいいけど、あなたには僕が必要でしょう?」
もちろんまだ学ぶことはたくさんあるけど、時にハッタリも必要だということは、ここ数年で僕が学んだことのひとつだ。
認めてくださいよ。もう。
じっと目を見つめていると面白がるようだった目つきが躊躇い怯えるように揺れた。彼に似合わないそれは戸惑いと迷いだ。受け入れていいのか受け入れるべきではないのか。
僕の真意を探るその眼差しの奥には暖かさがある。
あの時屋上で僕の肩を叩いた時と同じ。
厳しく指導をする時にもそこにあった。羨望と嫉妬の視線に慣れた人は自分に向けられた感情をそっと逸らすことに長けていた。受け入れないのではなく、それは勘違いだと諭すことに。でも僕はそれは勘違いや一時の迷いではないと証明するためにここに来た。
それに、ずっとあなたの背中を見ていた僕には隠そうとしているあなたの本心だってわかるのだ。
真っ直ぐにその目を見つめ返した。
やがて目を伏せた教授はふう、と肩で大きく息をついた。改めて向けられた眼差しは柔らかい。僕もきっと同じ目で彼を見ている。
「後悔させません、て言いましたよね」
「後悔させてやるつもりだったのに」
口の端が笑みの形に持ち上がった。多分僕は、今や教授の何倍ものでかいニヤニヤ笑いをしている。
「私の負けか」
「そうですよ」
目の前に差し出された手を和解の握手にするつもりはなかった。絶対離さない誓いのつもりで握り返す。
人として惚れてもらえるかはこれからだ。
でも勝算はある。