月と遠回り 2024年8月5日、夕方。街外れの喫茶店は、その立地のせいか店内を流れる有線放送が聴き取れるほどに静かで、閑散としていた。
薄暗い店内に視線を巡らせてもお客さんはまばらで、それぞれ新聞や文庫本を広げてまったりと過ごしている。
突如としてけたたましく鳴り出した電子音に慌てて視線を戻せば、テーブルの上のスマホが通知を示していた。
「……えっと、」
「ふふ。構いませんよ。また綾斗くんでしょうか」
「そうみたいです」
LAINを開いて手短にメッセージを送る。すみません、と小さく謝るとテーブルを挟んで向かい合う春水さんがいつも通りの優しげな笑みを浮かべていた。
初めて顔を合わせたのはもう半年ほども前になる。6人のクリエイターが偽のDMで集められた不可解な事件。奇妙な出会いから始まった交流は今も続いていて、LAINでメッセージを送り合う間柄となっていた。
とはいえ、直接こうしてお茶をするような相手は春水さんだけで、他の皆とはたまに集まる程度だった。
冷静になって考えれば誰もが名の知れたクリエイターなのだから、それぞれ忙しい毎日を過ごしているに違いない。だからといって春水さんが暇を持て余している、という訳では決してないのだろうけど。
「用件は何だったんですか?」
「リツキPの新曲がUPされたって喜んでるみたいです」
「ああ、ニヨニヨ動画ですか。やっと再開したのにアクセスが集中したせいでダウンしてましたからね」
ええ。僕は相槌を返しながら、画面上にずらりと並んだアイコンの中からニヨニヨ動画を探し出す。アプリに遷移すると、少し前にはエラーが出ていたトップページが今度はしっかりと表示された。
ニヨニヨ動画がサイバー攻撃を受けたのは2か月ほど前。ユーザーの阿鼻叫喚と落胆の声がSNSに溢れ返ったあの日が思い出される。中でもニヨニヨ動画を活動拠点にしていたクリエイターとそのファンの悲壮感は大変なもので、毎日がまるでお通夜のような有り様だった。
「綾斗、明日には歌ってみた動画をUPしてるかもしれませんね」
「そうですね。綾斗くんはリツキさんの大ファンですし」
テーブルの中央に置いた僕のスマホからリツキPの新曲が流れ出す。明るくポップな曲調と歌詞で、暗にニヨニヨ動画復活を祝うような内容になっていた。
この曲に動画投稿が出来ないフラストレーションが詰め込まれているのかと思うと、リツキさんの苛ついた顔が脳裏をよぎってしまってダメだった。
「スズヤくんもニヨ動ユーザーなんですね」
「あ、はい」
ニヤけそうになるのを咳払いで追い払いつつ、ぱっと顔を上げるとスマホを覗き込むために軽く身を乗り出していた春水さんと目が合う。思いのほか距離が近いことに僕は何故かどきりとした。
「スズヤくんは、ボカラPも歌い手もあまり詳しくないようだったので」
「あー……リツキさんは有名なので知ってましたけど……主に見るのはゲーム実況なんです」
「なるほど。ゲーム実況も人気コンテンツですよね」
春水さんの言葉に僕は思わず口ごもる。正面から向けられる笑顔の裏に威圧に似た何かを感じずにはいられなかった。
どうしてだろう。この人の前では嘘や誤魔化しは無力なような気がしてしまう。
「……えっと。僕のゲームを実況してくれてる人の動画を見たり、とか……」
「ああ、そういうことですか」
承認欲求の強い奴だと、呆れられてしまっただろうか。
テーブルの上に置いたスマホを手繰り寄せると、画面に視線を落とす。
他人の目や評価ばかりを気にしていると厳しく指摘してくれた春水さんを、僕はまた失望させてしまったかもしれない。
胸の奥がモヤモヤしてくる。今にも冷たい言葉を投げかけられるのかと思うと目を合わせるのが怖かった。
震え出しそうな手でスマホを操作している風を装っていると、クスクスと忍び笑いが聞こえてきた。
「別に責めている訳じゃないですよ。プレイヤーの反応を目にすることでモチベーションに繋がる場合もあるのでしょうし」
「は、はい……」
驚きと安堵が同時に湧き上がる。初めて会った日の冷淡な態度はそこにはなかった。
きっと、あの日の春水さんだったら許してくれなかったはずだ。まるで寄り添うような柔らかな言葉に拍子抜けしつつ胸をなでおろす。
「それで、どんな動画があるんですか?」
「ええと……あ。そういえば、僕のゲームを1作目からずっと実況してくれてる人がいて……」
フォローリストをタップしてあるユーザーのページを表示させると、再びスマホをテーブルの真ん中に乗せる。相変わらず表情の読み辛い笑みを浮かべた春水さんが、興味深そうに僕の差し出した画面を覗き込む。
一番古い投稿は4年前の「ブラッド・ゴーストの館【文字実況】」。それ以降、新作ゲームを発表する毎に1本ずつ投稿されている。僕が無名だった頃の実況はほとんど伸びていなくて申し訳なく思いつつも、すごく嬉しかったのを覚えている。
「ツッコミが的確で……でも何故か僕のゲームしか実況してない人で」
「これ私です」
「え」
ガタンと大きな音がしてようやく自分が立ち上がっていることに気がついた。
店内のあちこちから視線が集まっている気配を感じたけど、僕はぽかんと開けた口を閉じることさえ出来ずにいた。まるで、閉じ方がわからなくなってしまったみたいに。
いつもは見上げている春水さんの顔が、今は僕を見上げている。それが何だか不思議な光景に思えてしまうくらい、僕の頭は思考することを忘れてしまっていた。
「推しに認識される、というのはこういう感覚なんですね」
「だって……えええ…?」
未だ混乱している僕を尻目に春水さんは口元に手を当てて愉快そうにニッコリと笑っていた。
――いや、これは。照れている、のかな。
「そろそろ座りましょうか」
「は……はい……」
促されるまま、僕は椅子に腰を下ろす。はあ。と、ひとつ溜息を零すと、新聞をめくる音や有線放送のゆったりとした音色が耳に戻ってくる。
4年前から僕を知っていた春水さん。そうして――僕も春水さんを4年前から知っていた。
それってもしかして、とんでもなくすごいことなんじゃないだろうか……?
「春水さん、今日はお時間まだ大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「お話したいことが、たくさんあるので」
勇気だか気合だかを総動員して、僕は絞り出すように宣言した。まるで宣戦布告の様相を呈していた。かもしれない。少なくとも僕の中ではそういう心持ちだった。
「……そうですか」
小さく首を傾げた春水さんが、どこか妖しげにも見える微笑みをふわりと浮かべて。
ではまた、一緒に月が見られますね。と、囁くように言った。
☓END☓