月光薄暗い船室の中。
丸く切り取られた窓の向こうは強い日差しが照りつけて、覗いてみても水平線と雲ひとつない空しか見えない。日差しに弱い俺はそこら辺の板で窓を塞いだ。
何日か前に赤道、ってところを渡ったらしくて、蒸して空気は悪いし揺れもひどい。
あまりいい切符は買えなかったが個室なだけマシだ。何ヶ月も飲まず食わずで人間の中に放り込まれるのはたまらない。騒ぎを起こすと海へ突き落とすとユアンに言われているから、一人も食べてない。褒めてくれよな。
乗船して何日経ったのか……ちゃんと数えておけば良かったな。
「ユアン、起きてるか」
白いシーツの上で金髪に向かって声をかける。返事はないが少し動いたので意識はあるらしい。
ユアンは乗船した日からずっと、狭いベッドで俺に背を向けて壁側に向かって眠り続けている。船酔いがひどいらしい。普段からちゃんと食事をしておかないからそうなるんだぞ。
もう目を覚まさないんじゃないかと思って、朝晩声をかける。大抵は無視されるが、時々、こんなのベッドじゃない、固くて身体が痛い。地べたの方がましだと文句を言いながら時々身を起こして葡萄酒を飲む日もあった。
起きたところで俺たちに会話はない。
本当は目覚めたくないと思っているのかも知れない。
ユアンはもともと、滅多に食事もしないしいつもつまらなさそうな顔をしていた。なのに俺がロンドンから帰った頃は様子が違って、妙に昂ぶった感じだった。
毎日どこかへ出掛け、必死に新聞を読み漁り、何かを調べていた。とうとう「しばらく留守にする」と荷物をまとめていたのでしていたので捕まえて理由を吐かせた。
日本とかいう東の果ての国に行くんだと。どうしても会いたい人がいて。そいつは特別な血を持っていて、うまくいけば仲間に出来るかも知れないと。
俺も行くと言ったら嫌な顔をした。だろうな。俺がどっか行ってもお前は絶対についてこないもんな。
ユアンは一人が好きなのだと、そう思っていた。
「絶対にお前は手を出すな。絶対だぞ。」
必死の形相のユアンは見たことのないものだった。
ユアンと出会ったのは戦場だった。
月の明るい夜だった。
俺は家族とはぐれて泣いていた。
あたりに人影はなく、月明かりの下は煤けた匂いが漂っていた。
何歳だったか忘れたが、兵士に見つかれば殺されるとか、そんなことは考えられない年頃で、わんわんと泣いていた。
荒れ果てた瓦礫と死体だらけの街中にあいつは現れた。
ひるがえるマント姿はちりひとつなく、月の光を受けてさらさらと流れる金髪。雪のように真っ白な肌。薔薇色の唇。青い瞳。地面の泥を受けることもなくふわりと泳ぐように歩く少年。
それがユアンだった。
俺を見つけて瞳が金色に光る。目があって、こちらへゆっくりと近付いてくる。
「天使さま?」
俺がそう声をかけると、あいつは歩みを止め悲しそうに顔を歪ませた。
そんな表情でも、ユアンは、月の光より綺麗だった。
「僕が天使なら、君は神のもとへと行けるのかな。」
俺と目線を合わせながらユアンは言った。
「僕はユアン。君は?ルカ?ふぅん、君、ひとりかい?家族は……いないようだ。ここの村人がどうなったか、君は知らない?そうか。ねえ、これからどうする?誰か頼れる者はいるかい?一人で生きていくのはとても辛いよ。隣の村へ行くにはあの大きな山を超えなくてはならない。君は飢えて死ぬか、獣に喰われて死んでしまうだろう。家族に会いたい?会いたいなら、ぼくが手伝ってあげる。夢を見るように終わるよ。」
俺の頬を包むように撫でる手は冷たい。俺の目を金色の瞳がとらえて、優しく囁く。
夢みたいにきれいで、目が離せない。涙はどこかへ引っ込んだ。心臓が鳴って、ふわふわとした気持ちになった。
恐怖や、家族とはぐれた心細さはどこかに消えてしまった。目の前の美しい天使だけをずっと見ていた。
俺はユアンにしがみついていた。氷を抱いているようだった。何も知らずに、あいつが牙を剥けば俺の喉などひとたまりもない距離まで近づく。
それが合図みたいに、ユアンが俺の首筋に口付けた。
「ユアンも、ひとりなの?」
俺が声を掛けるとユアンの身体が強張る。
「じゃあぼくが友達になってあげる。一緒に行こう。ユアンと一緒に行きたい。」
ユアンを強く抱きしめて、さらさらとした金髪を撫でる。この冷たい身体をどうにかして温めてやりたかった。
ユアンは震えていた。きっとすごく寒いんだと思った。
「子供は温かいね」
ユアンだって子供じゃないか。遠くなる意識の中で俺はそう呟いた。
目を開くとどこかの天井が見え、ユアンが俺の顔を覗き込んでいた。俺が目を開けるとユアンは驚いた様子で、それから両手で頭を抱えていた。
「すまない」
ユアンが謝る意味はその時はよく分からなかった。
ユアンの家にあるパンや芋は美味しくなかった。しばらくして、それは俺の舌がおかしくなってるのだと気付いた。
何を食べても砂を噛むようで、飲み込めたものじゃなかった。
だけど腹は減り続けて、飢えて飢えて仕方がなかった。
腹が減って眠れないとユアンに泣きつくと、静かに頭を撫でて、明日ね。と抱きしめてくれて、俺はユアンの腕の中で眠った。その冷たさが心地よかった。
翌日ユアンが、どこかで小鳥を捕まえて来た。
籠の中から出て来た鳥は、とても美しく、愛らしかった。
愛おしさが込み上げてきて、手に乗せて、背中を撫でるとくるくると鳴く。その身からなぜか甘い匂いがして、口の中が唾液でいっぱいになって……気づけば夢中で噛り付いていた。甘い血を飲み込むと身体中が歓喜に震える。骨の一本一本までしゃぶりつくし、
そして手の中の小鳥は居なくなった。
呆然と座り込む俺の口元を拭いながらユアンはポツリポツリと、君はもう人間ではないんだよと教えてくれた。
もう死ぬことはない、生きる為に生き血を必要とする吸血鬼なのだと。
本当は動物なんかじゃなく、人間の生き血を必要としていると。
ユアンはあの日獲物を物色していたと話した。
死に損ないの女子供。家をなくし、家族をなくし、自分自身も傷ついて、放っておいても死んでしまうか、生き残っても死ぬより辛い目にあう運命の哀れな人間。
そんな人間なら、死すらも慈悲に変わるだろうと、ユアンはそれを期待してた。
「君が蘇るとは正直思っていなかった。今までも一緒に行こうと言ってくれる人がいて、何度か試みたが、すべてうまくいかなかったんだ。大抵はそのまま死んでしまう。蘇っても、すぐに砂になってしまったり、肉体が耐えられても心が耐えきれない。人間だったものが化け物になったことを受け入れるのは難しい。元の生活が捨てきれなかったり、食事の為に人殺しをするのが難しかったり……」
ごめん、とユアンは繰り返した。
ユアンなぜ謝るのかわからない、どうして?それってユアンと一緒に居られるってことだよね!俺、なんでもするよ!
「子供は素直だね……。だから君は蘇ったのかも知れないね……。」
ユアンは、小さな俺に“狩り”の方法を教えてくれた。
同じ年かそれより下の子供を狙う。
でもうまくいかない。急に抱きしめれば相手は警戒する。
人間が食べられなくて、仕掛けたエサにかかった野鳥を食べていた。
そんなんじゃ全然空腹は満たされなくて、いつもお腹が空いていた。
そのうち小鳥より大きな猫や犬を狩るようになり、ヤギなどの家畜を盗んで食べるようになり、いつのまにか俺は青年と呼べる年頃の大きさまで成長していた。
初めて痩せっぽちの少女の血を飲んで、そこで俺の成長は止まった。
「理由はわからない。僕自身も何者なのかわからないし、そもそも仲間が増えた前例がないのだから。」とユアンは言った。無責任なものだ。
だが好都合だ。なるほど俺は魅力的なのだ。口説けば女達は油断する。仕立てのいいスーツを着て浮ついた言葉を並べ、薔薇の一つも渡せばいい。
部屋や路地裏で二人きりになれば、簡単にその柔らかな首筋をさらけ出すから、ひとおもいに噛み、飲み干せばいい。女が腕の中で崩れ落ちて、面倒なので川に投げて終わりだ。
人間達はこれを恋愛というらしい。
飲めば飲むほど自分の中に力がみなぎるのがわかる。
女子供の血は甘すぎる。年寄りはえぐみが強い。
若い男の血が一番好きだった。
女にするのと同じようにはいかないから、いつも力づくだ。屈強で自信満々な若い男をねじ伏せるのも、狩りの楽しみだった。
魔力だかなんだか知らないが、俺はとても強くなっていた。
最初に俺より大きな男を狙った時は少し手こずって派手にやってしまって、ユアンがとても怒っていた。
必要以上に殺すなと。
倫理で俺を説得出来ないと分かると今度は、事件になると警察や、吸血鬼狩りが現れる。自分たちとて無敵ではないのだから殺されずとも封印されてしまうかも知れないんだよとおどかしてきた。
いつまでも子供扱いだ。俺はもう立派な大人なのに。ユアンの方が、いつまでも学生みたいじゃないか。
俺はもう酒場で坊やとからかわれることもない。
これは成長か。それとも滅びへと向かっているのか。
もしかしてこのままシワシワに歳を取って、若い男の生き血を求めて彷徨う亡者になるのかな。ああいやだ。何も考えたくない。
力で勝てなくなったらどうしたらいいんだ。
そう言うとユアンは「君も仲間を増やせばいい」と言った。
増やす?仲間?
人間なんてみんなエサにしか見えない。うまいかまずいか。筋肉はどうか、上等な食事をして血をたっぷりと持っているか。それを仲間にしろって?どうやって?
俺は、ユアンと出会ったあの日から「人間」なんてみんなどうでもよくなっていたよ。
死んでしまった家族のことも。初めて狩った少女のことも。そうだ、ずっと俺ら二人でいれば何の問題もない。そうだろ?ユアン。
ユアンはただ悲しそうに、曖昧に笑うだけだった。
軽く眠っていたらしい。
船室は相変わらず薄暗くカビ臭くて最悪だ。吸血鬼はこういう場所を好むと言われてるがそんなことはない。俺はあんまり好きじゃないが、ユアンは日の光の下すら歩けるのだ。
「……ス、リース……」
眠るといつも同じ夢を見ているらしい。口から溢れるのはあいつの名前。ユアンが泣くのをはじめてみた。
リースハースト。こいつが唯一、どうしても欲しいと、東の果てまで追いかけている相手。どんな奴なんだろう。
ユアン、俺たちは人間より強いのに、お前はちっぽけな人間の為にこんな風に弱ってしまうのか?
死なないとは言ったけど、お前はもう一生眠りつづけてしまいたいと思っているんだろう?
それは、死んでいるのとどう違うんだ?
ユアンのすっかり細くなった小枝のような指を折れないように握りしめる。
冗談じゃない。
俺ひとり置いて死なせはしない。
汽笛がどこかへの到着を告げる。
ほら、見てみろ。
いいにおいがしてきただろ。
もうすぐあいつに会えるよ。
愛しいあいつの生き血で乾杯しよう。
きっと美味しいよ。
すぐに元気になるよ………。