The mirror of your soul 社交季節になると、ヘルマンの機嫌が悪くなる。
彼の立ち居振る舞いはおおよそその出自に相応しい。貴婦人方の社交室で、思想家や詩人と共に語らう姿は、出身階級の異なるアルヴァにとってすら想像に難くないが、しかし彼自身の魂は違うようだった。
「要は、彼女たちにとって、私の求める物理学の建設的な議論などどうでもいいんだ。かわいらしい声でさえずるからくり仕掛けの小夜啼鳥と同じで、賢いふりをするための装飾品でしかない。知的な響きのする室内楽として私たちに話をさせ、さも解ったような顔をして嘴を突っ込んでくる。物理学者でなくてもいい、私でなくてもいい、容貌の悪くない男であれば誰でも構わないんだ」
爛々と開いた瞳孔はいつものことではあるのでアルヴァは暢気に「猫のようだなあ」などと考えていた。
興奮、憤怒、悦楽、その他感情が昂ぶること全般──そしてとくに電磁気学を語るとき、ヘルマンの灰色がかった緑の瞳は稲妻めいたあかるい色に輝き、瞳孔は黒葡萄のように深く、見るものを吸い込みそうになる。
「私は君がそうやって話しているのを聞くのが好きだから、ご婦人方もそうなのかもしれないね」
「冗談じゃない。私はぜんまい仕掛けのオルゴールとは違うんだ、木偶に寝物語を聞かせる暇などない。私は“対話”したいんだよ、アルヴァ」
君のような知性ある人間とね、と、テーブル越しに身を乗り出して、驚くほど真っすぐに瞳を覗きこまれる。彼のこの瞳、瞳こそが、自分を惹きつけてやまないのだ。
「君の奇想が無ければ、私こそまるきり地味な木偶だよ。──太陽の光無くては、誰の目にも存在しない月みたいなものだ」
「遠い沙漠の国では、月こそが慈悲の象徴であるというよ、我が友」
「それはまた違う話だろう、──」
「太陽が残酷に命を射る国では、月こそが恵みなんだ。月のない夜に人は生きていけない」
下手な詩人のような口調とともに、ヘルマンは恭しくアルヴァの掌をとると、そのかさついた甲に額を触れさせた。
そんな彼が、ある時、季節の変わるころ──やけに嬉しそうに社交室から戻ってきたことがあった。
胸元のクラヴァットと釦孔に挿した、夏の名残りの薔薇は縒れて、花びらはくしゃくしゃになっていたが、意にも介さずに、小さな箱を、アルヴァの部屋のテーブルの上に置いた。
「あのこまっしゃくれた英国夫人、たまには面白いものを見せてくれる」
「おい、失礼だろう」
窘めるがどこ吹く風で、ヘルマンは書き物をしていたアルヴァの肩をつかみ、胸元になにかを当てる。
「うん──いいな。君も少しは着飾るといいよ」
「なんだ、藪から棒に。着飾って行く場所もないんだし、別にいいよ」
日ごろ、仕立て屋に云われるがままに流行の上着を誂えさせられ、人好きのする人形の笑みを浮かべることに辟易しているヘルマンらしからぬ言葉に、アルヴァは面食らう。今も、ヘルマンはお仕着せであろう洒落た縦縞の、濃い緑のベストを着ている。対照的に、清潔だが着古したアルヴァのベストの左胸に、彼は箱から取り出した小さなものを押し当てる。
小粒の真珠で取り巻かれたオーバル型のブローチ。嵌め込まれているのは宝石でも象牙細工でもなく、淡い色合いの細密画──ほんの少しだけ眇めた緑の瞳の眦には、小さなダイヤモンドがふた粒、涙に仕上げられていた。
「瞳の肖像画。前世紀に流行したそうだ」
随分と時代遅れだと云っていたが、さてはて──と、アルヴァの胸元に、丁寧な仕草でそれを付けた。
「うん、似合う」
「すこし不気味だなあ、人の体の一部を──絵だけれど──飾るなんて」
「こらっ。君は遺髪をペンダントにしまう未亡人のことも不気味がるのか」
「揚げ足を取るな。遺髪とこれは違うだろ」
「絵はカメオにでも換えればいいと云われたが──」ヘルマンは目を細めて、優しく、指で細密画の縁を撫でた。「消すには忍びないと思わないか、アルヴァ」
云われて、じっと注視した。確かに美しい瞳である。瞼の影は青く、睫毛の先は夜露のように微かにきらめいている。この瞳の持ち主はきっと、かつては新緑の瞳を持って生まれ、人生の四季を過ごしていくうちに深く憂いを帯びていったのだろう。この眼差しを描けるのは、きっと腕のいい画家だったのではないかとふと思い、恐らくは名もないまま亡くなったであろうその人の指先に思いを馳せた。
「なに、気になるなら蓋でもつければいいさ。縁がとても上等な真珠らしい。君には、きらきら不躾に輝く宝石よりも、自然の神秘が生む真珠が似合うと昔から思っていた」
「そんな、女性でもないのだから似合わないよ、それに、──高価なものじゃないか」
外そうとすると、ぐっとその手ごと握られ、胸元に押し当てられた。心臓を優しく掴まれたように感じて、指の間に熱が篭る。
「つけなくてもいい。持っていてくれ」
猫の瞳ですわ、と貴婦人は云った。
「すぐにあちらこちらへ移ろって、まるで神秘の猫のよう」
ヘルマンの瞳の話である。
アルヴァは金色の液体が揺れるグラスを手に、薄く微笑んで、女性の歌うような口調を聴いていた。
鬼灯のような大仰なジゴ袖とは対照的なテイラード仕立てのジャケットは、まるで男性の衣裳のようだ。先進的な女性なのだろうか、と酒の回った頭でぼんやり考える。会話が苦手なものだから、グラスに口をつけて誤魔化していたら、脳みそが少しアルコールで浮腫んでしまったように頭が重い。
どういった風の吹きまわしだったのか、今の頭脳では思い出せないが、結局のところはアルヴァも「小夜啼鳥」だったということなのだろう。共同研究を持ちかけたい学者だか、それとも有力な出資者が居るのだったか、とにかく、周囲の人間の薦めで、ヘルマンと共に顔を出すことになったのだ。
今晩のアルヴァの胸元にはアイリス、まだ硬い七分咲きのものを選んで釦孔に挿したのはヘルマンだったが、人熱れと酒精に、情事の後の処女のように花開ききらぬうちから、くたりと萎れていた。
学会とはかなり勝手が違い、早々に疲弊してしまったアルヴァは、社交室のすぐ隣の小部屋に置かれた寝椅子に腰掛けた。深い緑に、アラベスクの刺繍が施された座面はひやりとして少しだけ沈んで、まるで苔の上に座っているように感じた。
さら、と衣擦れの音が近づいてくる。硬い踵の音がそれに重なって、視界の端に、高く髪を結い上げた妙齢の女性が現れた。
「こんばんは、ムッシュゥ」
人に酔ってしまいましたの、と、耳触りのいい声で囁くと、女性は、傍らに腰掛けた。ツーピースのドレス、色は暗いモーヴ、間近で広がった生地の、山脈のような豪奢な皺を観察すると、光があたる尾根の部分には銀の蔦の柄が微かに打ち出されているのがわかった。
「ヘルマンのお友だち?」
親しげに名を呼ぶ声に、喉元を爪でくすぐられたような気がした。
「あなたもきっと素晴らしい頭脳をお持ちの方なのね」
濃い色の口紅を引いた唇は弧を描いている。
「彼はわたしが招いたの──居るだけで場が華やぐものだから。それに、あなたのように素敵な殿方にも出会わせてくれましたわ」
「こちらこそ、貴女のように美しく聡明な方にお会いできて光栄です」
この女性の名前がミセス・クレイバーグだったか、ミセス・ドラソネスだったかもあやふやだったが、最低限の礼節のためにヘルマンから云い含められた言葉をなぞり、控えめな笑みを浮かべる。
「わたし、人の眼を見るのが好きなんですの」
そうですか、と意図を掴みかねて曖昧な返事をした。これもまた上流階級の符牒なのだろうか。扇子言葉で男女の誘いを済ませるような人種に、アルヴァは馴染みがなかった。
「あなた、ヘルマンの瞳をよくご覧になったことがあって?」
訊ねられ、戸惑いを隠しながら頷いた。「勿論──彼とはよく話すものですから」
「そう。わたし、あの眼が気になるの。あの霧がかった森のような色。神秘的で、深い木立のよう」
そうかな、とアルヴァは内心首を傾げた。自分が森を歩く趣味がないからかもしれないが、ヘルマンの瞳はもっと明るい色をしている気がした。たとえ森のなかであっても、木洩れ日が差し込む金緑色の草地、あるいは萌えでたばかりの若い葉のような。あの火花めいた黄緑が懐かしくなった。
「あなたもそうは思わなくて? 彼の瞳──猫のようだわ」
「マダム、私は生憎と、貴女のような鋭く繊細な感性を持っておりませんので──」
少し迷ったが、アルヴァは嘘が苦手だった。素直に思ったことを話す。「──私からすると、彼の瞳にそれほどの神秘性を見出せると考えたことはありませんでした。貴女はきっと芸術家なのですね」好奇心旺盛だという点においては、猫のようだということには同意します──興味津々で、こちらをどぎまぎさせるほど真っすぐに見つめてくる──そう伝えると、女性の暗い灰色の瞳が、じっとアルヴァの顔を、そのなかの眼を凝視した。その中央の瞳孔が、不意に拡がる。古代の黒曜石の鏡のように、アルヴァのかりそめの笑みを失ったかんばせが映り込んでいた。
「──あなたなのね。ヘルマンの云うアイリスって──」
そのとき、コツ、と高い音がした。栗色に輝く茶金の靴先が、こちらへ歩いてくる。
「アルヴァ、ここに居たのかい」
人形の笑み、細められた緑の瞳に長い睫毛が影を落として、その色合いに、おや、と思う。確かに色は沈み、黄昏時に近い。光の加減だろうかと思う間に、ヘルマンは女性と親しげに笑み交わした。
「あら、ちょうど今あなたの瞳と『アイリス』の話をしていてよ」
「貴女のように麗しい方なら、仔鹿のように森に分け入っていただいて構わないんですよ」
手の甲にキスをして、にっこりと笑んだヘルマンに、婦人は口元を隠して目元だけで笑みを返す。「そうね。──どうも、彼にとっては違うようだけれど」
わたしたちにも見せていただきたいのにね、と彼女はアルヴァに対し、意味深に目配せをした。
その後も軽く二、三言交わすと、自然にヘルマンはアルヴァを連れて、その場から離れた。
「君、如才ないな」
廊下を歩きながら、感心半分、軽いからかい半分のつもりで云うと、ヘルマンは「誘惑だぞ、アルヴァ」と低い声を出した。
「あいつ、未亡人のくせに、男と同じ椅子に座るなんて、とんだ女だ」
「いや、具合が悪くなったと云っていたから」
「女の嘘も見抜けないのか、嵌められるぞ」
吐き捨てるように云い、しらじらと月の照らすバルコニーへ連れ出される。手首を掴む指の力に思わず呻きが漏れたが、あまりの剣幕に、思わず苦笑してしまった。
「彼女、君のことを褒めていたよ。気があるとするなら、ヘルマン、君にだと思うが」
貴婦人があれほど褒めそやしていた彼の瞳を見てみたくて、揶揄うように云ってみると、弾かれたようにヘルマンは振り返った。その瞬間、息が止まりそうになる。
やはり、霧に覆われた森などではない。まるで稲妻だ。瞳孔は嵐の夜、飲みこまれそうな輝く闇。
真っすぐに瞳を見つめられ、言葉が出なくなった。
「──ずっと、君の眼を見ていた」
骸は焦げて、小さくなっていた。
子どものための柩に収まってしまうほど、手脚は折れ曲がって炭になり、胴体と頭がまだらに焼け残って、桃色と灰色になった皮膚を留めていた。深緑の天鵞絨を張った六角形の柩の上半分に収まってしまった屍のまわりを埋める献花には苦労した──冬だったものだから。
ほんの少しだけ、柩の蓋をあけてその顔のあったところを見つめて、アルヴァは蓋を閉じた。
ところどころ焼け残った衣服も、遺体と一緒に受け取った。ゼーマン家も、バルサーク家も、誰も受け取ってはくれないだろうから。布切れとなってしまった装束のうちには、かつてクラヴァットを留めていたであろうブローチがあった。
懐かしさと、胸に走る──それこそ、ブローチの針を胸に刺されたような──微かな痛みが綯い交ぜになった甘い血の滴る締めつけに、唇を引き結んで、それを拾いあげた。
翡翠なのか瑪瑙なのか、アルヴァには判断がつかないが、オーバル型の深い緑の石にも煤が付着していた。拭おうとしたとき、縁に小さな蝶番があることに気がつく。反対側を見ると、やはり小さな留め金があった。
ほんの少し逡巡して、爪をかける。ぐ、と力を込めると、隙間に食い込んだ灰がはらはらと散った。
ぱちり、と目醒めたように蓋が開く。
青い瞳があった。
羽のような切れ長の形。下がった眉尻。
年古りた絵画のなかのアイリスの花めく、霧がかった淡い青。
誰のものでもない、鏡のなかで毎日出逢う瞳。
蓋を閉じることもできず、アルヴァは凍りついたように立ち尽くしていた。
彼の手稿の切れ端と共に抽斗の底に封じた、あのブローチ。美しい真珠と、緑の瞳の細密画。
出逢い、恋、別離、さまざまな人生の四季を経て、かつては輝く新緑だった、深い影を宿した緑の瞳。
あれこそ誰のものでもない。前世紀の遺物でも、今は亡き誰かの残り香でもない。
あれはヘルマンの眼だったのだ。
自分を見るヘルマンの眼──あれが、あの瞳が、あれほど輝いて見えた理由を、アルヴァは無意識の底では気づいていて、逸らしたのは自分の方だった。現実を生きている他者から見た、夢追い人の瞳は憂いに満ちている。
柩のなかの焦げた脱け殻からはとうに失われた魂が、あの片眼の肖像画には封じられていたのだ。現像されない銀板写真のように、永遠に。
蓋を閉じる。柩の蓋を閉じるように。
自分の記憶の底にしまったダイヤモンドの涙が、ふた粒、青く光っていた。
―――――――――――
【あとがき】
片目だけの肖像画は、実際に18世紀末に英国を中心としてヨーロッパで流行したものです。元は、英国のジョージ4世が、未亡人になって日が浅い上、宗教が違う恋人に、周囲にばれないように自分の瞳の肖像画だけを送ったといわれており、それが上流階級で流行したそうです。この流行自体は19世紀には廃れてしまったそうですが、ロマンチックな贈り物だと思います。
タイトルは「目は口程に物を言う」の英訳のひとつで「目は心の鏡」という言葉からとっています。人は興奮したりすると瞳孔が開くほか、血流が増すため、虹彩の色が明るい人の場合は色味が変わって見えるという話があり、アルヴァと話しているときのヘルマンがいつもその状態の瞳をしています。だから、周囲の人から認識されているヘルマンの瞳と、アルヴァが知っているヘルマンの瞳は異なります。また、アルヴァはヘルマンがずーっと目を見てくるな、と認識していますが、人間は(男性は特に)好きな相手の目を見つめる癖がある、という話からきており、実際の彼はけっこう人と話しているときに視線を動かすタイプだとアルヴァの認識とギャップがあっていいなと思い、この話を書きました。
文中の「ヘルマンの片目の肖像画」は、古いものを「これめずらしいでしょう?」と見せてもらい、要らないからあげるってもらったものを渡した…という認識でもいいし、実はヘルマンが作らせたものでもどちらでも構わないと思っています。ただ、「アルヴァの片目の肖像画」は明確に「アルヴァの瞳」の肖像画であり、ヘルマンが作ったものです。