――げ。またいる。
最後列の壁際を見れば、案の定、妙な髪型をした仏頂面の青年が座っていた。
それだけならたまにいる客の一人として気にも留めていなかっただろう。腹は立つが、付き合いだったり慣れない空気に緊張していたり、客にだって事情がある。
かくいう五条達芸人もそうだ。
元リーマンや大っぴらには言えないような仕事をしていた奴もいれば、モテたいとか芸能人とお近づきになりたいという動機で芸人をしている奴もいたり。そういう人間達が、笑いという一つの目的のために劇場に足を運ぶ。
――ったく、何考えてんだか。
つまらなければ来なければいい。
お笑いは水物だ。客の気分次第でウケる時もあればウケない時だってある。中には何をやっても全く響かない人間もいる。
初めは何とか笑わせられないか試行錯誤したこともあったが、笑わない人間を笑わせるより、ファンを笑顔にする方がはるかに有意義だと気付いてからは気にしないことにした。
今回もいつも通り相手にしなければいい。
どうして気に入らないくせに五条達の単独ライブに来ているのかとか、お笑いを見に来ているはずなのに笑うどころか微塵も表情を動かさなかったり、そもそも昨日も来てたし、何ならかれこれ十回くらい来てるんじゃないかとか、いつも最後列の一番端に座っているのは自分が場違いなのを自覚しているのか、とか。
考えないようにしようとすればする程、気になって仕方がない。
――ていうか、何なんだあの髪型。
四方八方に髪が跳ねて、まるで頭にウニを乗っけているようだ。普通の人間なら間違いなく持て余しているだろうに、鉄面皮の彼はそれなりに見れる容姿をしていて、意外と様になっているのだから小憎らしい。
「コイツ、ボンボンだから今までバイトの一つだってしたことないんですよ~」
「……っ!」
背中に一発。手加減なしのどつきに思わず声を上げそうになったが、相方の鋭い一瞥に五条はかろうじて平静を装った。
「出た、坊ちゃんハラスメント。俺だってバイトの一つや三つ、やれば出来るっての」
「ふぅん。じゃあやってみてよ。そうだな、コンビニの店員なんかどうだい?」
「よっしゃ、パーフェクトな接客見せてやるから!」
見てろよ、とシャツを腕まくりしたところで、台詞を飛ばしたことに気付いた。小道具を取り出すかたわら、夏油の方を覗き見れば、表面上はいつもの優等生然とした笑みを浮かべていたが、額にはしっかり青筋が浮かんでいた。
――クソッ。あのウニ頭覚えてろよ。
相手は当然五条のことを覚えているだろうし、覚えているからと言って何かあるわけではないのだが、彼が来てからというもの不調続きで恨み言の一つでも吐きたい気分だった。
「らっしゃ~せ~。安いよ安いよ、買ってって」
黒いエプロンを身に着け、魚のぬいぐるみが入った発泡スチロールの箱を前に手を叩いてみせれば、
「お、そこのしけた顔した兄ちゃん、買ってかないかい? このキンメなんかおすすめだよ」
「……」
夏油はわざとらしくため息をつくと、
「君の知るコンビニは、ずいぶんと新鮮な食品を扱ってるみたいだね」
「そうだろ? このキンメダイなんか獲れたてでお買い得……って、ツッコめよ!」
水族館で買った魚の人形を叩きつければ、くすくすと客席から笑いがこぼれる。
「コンビニがそういうものだと思ってるなら、信じたままにさせた方がいいのかなって」
「何だよ、その無駄な思いやりは! 俺だってコンビニくらい知ってるっての。ボケ殺しやめろよな!」
「じゃあ言わせてもらうけど、バイトでサングラスしてるってどうなんだ? それにその頭髪も。TPOを弁えた身だしなみって知ってるか? TPOと言えば、この間の番組で先輩への言葉使いもなってなかったな。そもそも君は……」
「長ぇよっ! ていうか、最後のはただの文句だろ!」
台本通りのやりとりだが、万が一、五条がここで上の空にでもなろうものなら夏油の小言が延々続いていたに違いない。
「ツッコめと言われたからツッコんだまでだよ。それと訂正させてもらうけど、最後のは文句ではなく正当な意見だ」
「はいはい、そうですか。オマエって一々細かいよな。面白ければ何だっていいだろ」
「それを言うなら、親しき中にも礼儀ありという言葉があるのを知ってるかい? この業界で生きていくなら……」
「あー、うっせぇ。オマエのそういうとこマジ疲れる。何とかなんないわけ?」
「奇遇だな。私も君の態度に心底うんざりしてるよ」
「なんだと?」
肩を怒らせてメンチを切るが、当然ながら夏油は涼しい顔をしている。
「珍しく気が合ったね。そういうことなら私は私で勝手にやらせてもらうよ」
「おーおー、好きにしろよ」
あしらうように手で払えば、夏油はとびっきりの笑顔を携えて舞台袖に引っ込んでしまった。舞台には五条だけが残され、照明も暗くなっていく。
「マジになっちゃってバカじゃねぇの」
いじけた様子で発泡スチロールを蹴れば、客席から「解散しないで」と声が上がってきた。
冗談でやり始めた解散ネタも、いつの間にか鉄板ネタに仲間入りしていた。ファンの間ではもはやお決まりのネタだが、それでも律儀に合いの手を入れてくれるのだからありがたい。
この後はTPOを弁えた人間になるべく、スプレーで髪を黒に染め、恰好も改めて夏油に会いに行くと、夏油は夏油でサングラスを掛け、胸元が大きく開いた服を着ており、コンビ復活を宣言して大団円というオチだ。
単独公演だけあって固定ファンが多く、かなりの好感触だった。ただ一人を除いて――。
「悟、いい加減にしてくれないか」
控え室に入った瞬間、待ち構えていたように夏油が口を開いた。何を言われるのかは分かりきっていたので、すかさず両手で耳を塞いだ。
「いい加減にって何が?」
わざとしらばっくれてみせれば、夏油の眉間のしわがさらに深くなった。
「上の空で、台詞の間違えが十回」
「それは言い過ぎだって。せいぜい三回くらいだろ」
つとめて明るい声で茶化したが、夏油は無言で返すだけだった。かなり頭に来ている時のサインだ。
「悪かったって。明日はちゃんとやるから」
しばらく五条の顔を睨みつけた後、夏油は長々と息を吐き出した。
「また例の彼に夢中になってたのかい?」
「夢中ではない! 断じて!」
きっぱりと首を振ると、夏油は心底呆れた様子で、
「夢中じゃないって言うなら何なんだ? 君、あの席に何回視線向けてるか気付いてる?」
「……二回くらい?」
「十回以上だ。もう数えるのも馬鹿らしいくらいだよ」
「いやいや、冗談だろ?」
客層や場の空気を考慮してネタを変えることもあるし、客席を見渡すこと自体は珍しくないが、よくあるが、それはあくまで観客席という場に向けてのものだ。下手に視線が合うと後で面倒なので、極力個人を認識しないように気を付けている。
「冗談だったらどれだけ良かったか。おかげさまでネットが大変なことになってるよ」
「はぁ? 何で?」
突き出されたスマホの画面を見れば、今日の舞台を見に来たファンの感想のようだ。
「えー、最後列で終わったと思ったら、悟がめっちゃ視線くれて最高だった♡ はぁあ?」
プチバズりしているらしく、リプ欄には多くのコメントが寄せられていた。席を特定しようとするものや、自意識過剰乙と言った心ないコメントなど阿鼻叫喚の様相を呈していた。
「うわー、怖」
「それで明日はきちんとやるんだっけ? 彼が明日来ても絶対に同じようなことにはならないんだね?」
圧を感じさせる物言いに、さすがの五条も軽々しく頷くことが出来なかった。無意識に見ていたということは、アイツが笑いでもしない限り、同じ行動を取ってしまうような気がした。
「アイツ目立つんだから仕方ないだろ。ずーっと仏頂面で見られてたら気が散るっての」
そこらのモデルよりよっぽど見目が麗しくても、五条の本業はお笑い芸人だ。相性の良し悪しがあるとはいえ、客席に笑っていない客がいたら当然気になる。
「そんなに目立つかな? 笑わない客なんて今に始まったことじゃないだろ」
「けど、いつも同じ席座って笑わないっておかしいだろ? 仮につまんないとしてだ、それなら来なきゃいいだろ。なのに昨日も来てたんだぞ、アイツ!」
「昨日? 彼、昨日も来てたの?」
怪訝な顔をする夏油に、五条は慌てて言葉を付け足した。
「いや、その、たまたまな! たまたま気付いたんだよ!」
我ながら無理のある言い訳だと思ったが、素直に認めるのは癪だった。
「……悟」
感情を押し殺した無機質な声音に、さすがの五条も観念する他なかった。
「もうアイツ出禁にしてくれよ。そしたらちゃんとやれるって」
「危害を加えられたわけでもないのに出来るわけないだろ。表情が顔に出ないだけのファンかもしれないのに」
「ファンだったら、もう少し嬉しそうにするもんだろ。アイツの顔見てみろよ、表情筋死んでんじゃないかってくらいピクリとも動かないんだぞ?」
「はぁ。そこは人それぞれだから何とも」
ともかくだ、と夏油は仕切り直すように両手を叩くと、
「これ以上ひどくならないうちに、どうにかしてくれないか? このままじゃチケットの奪い合いで乱闘騒ぎになりかねない」
「だから出禁に……」
「無理だって言ってるだろ。まぁそうだろうと思って、こっちで対策は講じたから」
「どうするつもりだよ?」
怪訝な顔をする五条をよそに、夏油は扉の方に顔を向けると、
「入ってきてもらえるかな」
「は?」
呆然としている五条をよそに、見覚えのあるウニ頭が入ってきた。仏頂面は相変わらずのようだったが、間近で見ると、わずかに困惑の色が滲んでいるようだった。
――感情死んでるわけじゃねぇんだ。
「あの、これどういう状況ですか」
「急に呼び立てしてしまってすまないね。彼が君に話があるみたいで」
「はぁ? 話なんて何もねぇし!」
「照れない照れない。私は出て行くから、後は若いお二人でごゆっくり」
「おい、傑っ!」
立ち去ろうとする傑の腕を掴むと、傑は先程までの営業スマイルが嘘のように目を細めて、
「悟、ここまでお膳立てしたんだ。うまいことやりなよ」
言葉尻こそ柔らかいが、言外にこれで改善しなかったら分かってるなという圧が含まれていた。ウニ頭が来てから不調な自覚はある。ショック療法みたいなものだが、この機会を逃す手はないだろう。
「……分かったよ」
渋々頷く五条に対し、夏油は心底楽しそうな笑みを浮かべて退出していった。
――アイツ、絶対楽しんでるよな。
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