欲しいもの「せっかくの記念日ですもの。新しいパリュールが欲しいわ」
「この前ドレスを仕立てたばかりだろう」
「貴方、ねだられている内が花ですのよ」
甘える女の声が、バンジークスと亜双義の耳に絡みつく。
捜査の一環で訪れた高級宝飾店、店内にいた男女の会話が
耳をそばだてずとも聞こえてきたのだ。
若く美しく、下品にならないぎりぎりの色気をまとう女性。
比べると幾分年がいった、割腹のいいさぞ裕福であろう男性。
年の離れた夫婦か、愛人といったところであろう。
聞き込みを済ませ、検事局に戻る馬車に乗り込むと、
バンジークスがぽつりとつぶやいた。
「君から何かねだられたことはないな」
隣りに座る亜双義が驚いてバンジークスを見る。
一見、無表情にみえるが亜双義には少し拗ねているのだと分かる。
先ほど聞いた”ねだられているうちが花”という言葉が頭に
残っているのだろう。
「それは…欲しいと言う前に貴方があれこれ贈ってくるから…」
バンジークスは浪費家ではない。
しかし名門貴族として生まれ育った身では、何かと使う金額の
桁からして庶民とは違う。
ささやかなプレゼントだからと受け取って、後に金額を知った
亜双義が絶句するのも茶飯事だ。
最初は、英国にきたからにはこの国一流のものを知って欲しいという
プライドに由来するものであった。
仕事やプライベートでともに過ごす時間を重ね、お互い特別な存在と
なってからは何を見ても亜双義のことが思い出され、この服を着た姿
が見たい、この料理を食べさせたい…と欲が募っていく。
幸か不幸か、それらを叶えるに申し分ない財と家格を持つため
控えるという発想に至らない。
本人の誠実さと教養の賜物か、贈られる服や連れていかれる店の
センスはよく、亜双義も断れずに享受している状況だ。
「では、今、何かほしいものはないのか?」
年下の恋人からのおねだりは、財布が痛まない程度であれば可愛いのだろう。
むしろねだっている側のような顔でバンジークスが尋ねる。
こうなると少しは困らせたいという気持ちが亜双義に沸いてきたが、
彼が手に入れるのに苦労するようなものがなかなか浮かばない。
蓬莱の玉の枝のような、絶対手に入らないものではつまらない。
いらないものや、持て余すものではこちらが困る。
おそらく金で解決できるものは困ることはないのだろう。
金では替えられない価値のものとは…?
悩む亜双義の脳裏に、いつだか221Bを訪れた時のことが浮かぶ。
あの名探偵が、鍵付きの皮張りの箱に大事にしまっていたものを
見せてくれたことがあった。
「これはたとえどんなにお金を積まれても、女王陛下に頼まれても
絶対に手放せない宝物なんだ」
箱の中に詰まっていたのは、愛娘のアイリスからもらった手紙や、
記念日のカードの束。
それを自慢するホームズは、己が世界一幸せな父親だと言わんばかりであった。
「…手紙」
「え?」
「綴った便せんが燃えるほど熱い思いをしたためたラブレターが欲しい」
「ラブレター?」
何かひねったものを挙げるだろうとは覚悟していたが、想定外の
答えにバンジークスは困惑した。
亜双義の目的はまず果たされたようだ。
「それをもらうまでは、他の贈り物は受け取らんぞ」
たたみかけられて眉間のヒビが深くなる。
検事として、狡猾な悪人を追い詰める時は流れるように言葉を紡ぎだせるのに、
一人の人間として愛する気持ちを言葉にするのはずいぶん勝手が違うらしい。
だからこそ、もらう価値がある。
「もらってばかりでは悪いからな。手紙の返事は書くぞ」
「それは大変魅力的だ」
苦悩から一転、喜色をにじませた目で亜双義を見つめる。
「貴方、俺を好きすぎるのではないか」
「好きにすぎることなどないだろう」
バンジークスは意味が分からないといった様子で首を傾げた。
それから約一か月後。
まるで捜査令状を突き付けるかのような威圧感を伴って、ずっしりと
重い封筒が手渡された。紋章で押された封蝋が重々しさを増している。
これに見合う返事を書くために、今度は亜双義が困る番となった。
-完-