埋み火某月 某日 某時刻 バンジークス検事の執務室
此度扱う事件の報告書を読んでいるバンジークスの眉間のシワが、みるみる深くなっていく。
「そんなに難しい事件なのか?」
その様子を見て、いぶかしげに亜双義が問う。
バンジークスは報告書に記載された、被害者と加害者の関係の項目を指さした。
元交際相手と記されている。
「痴情のもつれ、というやつか?」
亜双義が重ねて問う。
「そう見なされる事件の場合、弁護士が何かと”愛”を持ち出す。
そのたび客観的な事実と証拠で検証するわけだが……骨が折れる」
これまでの判例の数々が脳裏によぎっているのだろう。うんざりだという風に、頭を横に振った。
「なるほど。陪審員が流されぬよう、揺るぎのない証拠が必要だな」
返しながら亜双義は証拠資料の整理を始めたが、ふと手を止めた。
「こんなことばかり目にしていては、色恋沙汰から遠ざかるのも頷ける」
先日、アイリスから恋について問われた際、自身の経験としては何も答えられなかったことを持ち出しているのだ。
「貴君は何か知った風だったな」
「そうだったか?」
「出しぬけだからタチが悪い、と」
アイリスに聞かれた場では何も語れることなどないと言っていた亜双義だが、その後バンジークスにそんなことをこぼしていた。
その横顔は、思い当ることを知っている風に見えた。
「ああ、あれか。……従者の時の話だ。記憶を失っていた、あの頃の」
「常に傍にいたが、そんな相手がいたとは気がつかなかった」
バンジークスの言葉に、亜双義が吹きだす。何がおかしいのかと問われても答えず、
しばらく笑いを噛み殺しきれずに肩を震わせた。
「貴公だ」
「何?」
「相手は貴公だ。言う通り、ずっと傍にいたのだから」
その言葉を聞いた瞬間、バンジークスは絶句した。
「考えてもみろ。身元不明の異邦人だというのに、貴公は命令とは言え傍に置き、十分すぎる衣食住を与え、
検事の仕事や英国での生活について教え、襲撃をともに迎え討った際には気遣いの言葉すらかけた」
当時受けた待遇を思い返し、指折り数えていく。いずれも破格の待遇といえるであろう。
「そんな状況で、人に抱きうる好意の多くが貴公へと向かうのは自然なことだろう。
その中に恋もあったようだと気が付いただけだ」
「私は、特別なことは何も」
「そうだろうな」
バンジークスは与えることに見返りを求めない。貴族として、持つ者の責務を教え込まれている上に
生来の気質もあるらしい。従者に特別なものを感じて贔屓していたわけではないのは亜双義も分かっている。
(従者としてある程度有能であった自負はあるが)
なればこそ、ずっと心に押しとどめて悟らせずにいた。
いつ、本当に恋に落ちたかの確信はない。
ご自慢のワインを供され、思わず「うまい」とこぼしたのを聞いてほどけた口元を見た時。
嵐に遭い稲妻に照らされながらこちらを振り返る瞳を見た時。
手当で巻かれた包帯よりも青白い頬をしながら、怪我はないかと尋ねる声を聞いた時。
針で心臓を突かれたのち、温かい血がにじみ出したような記憶の断片をかき集める。
いずれにしても、些細な瞬間で、仰々しく書き記されるような場面ではない。
それ故、避けようもない。
「まあ、そんな思いもすべて記憶が戻ったと同時に消し飛んだ。
……あれは俺であって俺ではない。だから語れることはなかったのだ」
突然の告白に、亜双義をただ見つめていたバンジークスだったが、そこまで聞くとため息をつき、目を伏せた。
淡い色に煌めくまつ毛の奥、瞳の陰が表すのは果たして寂しさか、悔しさか、
それとも―
逃げ切ったという安堵か。
そこに思い至った途端、亜双義は頭の奥でちりりと小さく火の上がるのを感じた。