一郎くんは猫吸いがしたい!「一郎何やってんの!???」
俺の腕の中で吸われているふわふわの毛玉、もとい左馬刻さんがうんざりしたように「にゃあ」と鳴く。
-数時間前-
巷で子どもの誘拐が行われているらしい。
しかも真っ昼間に連続して何人も攫われているのに、その後の消息が掴めず目撃者もいない。
帳兄弟をぶっ倒した後もその残党が極悪非道に勤しんでいる。本当に今の世の中はクソをクソで煮詰めた世界だ。
「で?そのガキの誘拐事件と、猫泥棒になんの関係があるんだよ」
先に大盛りラーメンを食べ終わり、食後の一服をしている左馬刻さんの隣で俺はまだチャーハンをかき込んでいる。
「最近このあたりで、猫を追いかけまわして捕まえている不審者の情報をよく聞くんすけど、猫探しの依頼は萬屋には全然来ないんすよ。おかしくないっすか?その不審者はどこから来た猫を捕まえているのか。野良猫とかならわかるけど、もともとこの辺り猫そんなにいなかったし」
迷子の猫探しは萬屋にくる依頼の中でも多い依頼だ。そのおかげで、この辺の家猫から野良猫までネコチャン事情には詳しい。尤も、実際に猫捕獲の依頼を遂行するのは弟たちが多いのだが・・・。
「それで、誘拐が多い地域の聞き込みを続けてたら人間を猫に変える違法マイクの噂が出てきて」
途端に、左馬刻さんが胡散臭そうに俺をみる。
「あのよぉ、一郎くん、ヒプノシスマイクってのは人間の交感神経だか副交感神経だが知らねえがとりあえず脳みそを弄くって攻撃するマイクだぜ?アニメみてえに変身する武器じゃねえの」
俺の頭を撫でる左馬刻さんの手を振り払い、俺はご馳走様をする。
「でも、子どもの誘拐についてなんの手がかりもない今、こっち方面から探ってみても良いんじゃないっすか?」
「そうだな、じゃあその違法マイクの噂が出た場所まで行ってみっか」
ラーメン屋を出て噂の出どころに行くと、不審な動きをしている怪しい男がすぐに見つかった。
男は身綺麗な子どもの後ろを一定の距離でつけている。どうみても不審な男に子どもは気が付かない。うちの三郎にも、一人で出歩く時には背後に気をつけるようにいい含めておかないとな。
男が人通りの少ない道に入り子どもとの距離を詰めたところで、肩を掴み声をかけた。
「おい、あんたさっきからなにしてんだ」
「ひっ!BB!???」
男は俺に気がつくと、情けない悲鳴を上げ路地裏に一目散に逃げ出す。
でも残念。
「お、悪いな。俺様の足が長くてよ」
左馬刻さんの足に思いっきり引っかかった男はそのまま地面を転がり、つき当たりのゴミの山にダイブした。
「俺さあ、ガキ使って酷え商売するやつが一番許せねんだわ」
左馬刻さんが男の顔に拳を振り上げる度に、ゴギャとかグキョとかおよそ人間から出てはいけない音が路地裏に響き渡る。
汚いBGMを聞きながら寂雷さんと乱数にも連絡をいれておくかと、スマホを取り出したところで男の断末魔が聞こえた。
「その辺でやめとかないと、歯が全部折れちまったら話聞きだすの面倒ですよ」
左馬刻さんの背後から男を覗き込むと、男の顔だった辺りが潰れたザクロのようになっていた。
「あ、やべやりすぎた」
左馬刻さんは、男の返り血で真っ赤になった拳をシャツで拭おうとするから慌てて止める。
「そんな白いシャツに血がついたらシミ取るの大変でしょ!はい、これで拭いて」
俺がズボンのポケットからハンカチを取り出そうと余所見したすきに、気絶していたはずの男がマイクを取り出し最後っ屁のようなリリックを俺達に放つ。
屁のようなリリックは、俺達に当たるとボフッツと霧散し一瞬眼の前が霧でみえなくなった。
「は、うざ」
ぼんやりとした視界の奥で左馬刻さんの長い脚が男の顔にめり込むのと同時にオヴォッツと汚い悲鳴が聞こえる。
視界が晴れ、左馬刻さんの無事を確認しようとしたが、今の今まで目の前にいた左馬刻さんが消えてしまった。慌てて周りを見渡すも、人影がない。
「え?左馬刻さん???」
すると、足元から「う」と鳴き声。
にゃあ?ゆっくりと視線を下に向けると、真っ白でふわふわの毛玉が赤い目でこちらを見つめてもう一度心配そうに鳴いた。
「左馬刻さん?」
「な」
1人と一匹は路地裏で見つめあった。
何の因果か、奇跡も魔法もあるんだよってか?いやさっきのリリックのせいなんだろうけど。
どういう仕組みかはさっぱりわからないが、左馬刻さんは白い大きな猫になってしまった。
いやでも左馬刻さんって普段からネコチャンっぽいと思ってたけど、あまりにも思った通りのネコチャンじゃん。あとで、あのモフモフの毛に顔を埋めさせてもらえないだろうか。
人間はあまりにも予想外の出来事が起こると現実逃避してしまう。
ざりざりと湿った感触にハッとした。心配そうに俺の手を舐めた左馬刻さんを見て我を取り戻す。
そうだ、俺なんかよりも左馬刻さんの方が急に猫になってしまって不安に決まっている。
まだ男にはなにも聞けていないけど、左馬刻さんが猫になってしまった以上早くここを去るに越したことはない。それに、あいつ左馬刻さんの最後の一撃で完全に伸びてしまったようだし。
とりあえず左馬刻さんを事務所に連れて行こう。
心配そうに俺を見上げていた左馬刻さんを抱き上げようと手を伸ばすとするりと逃げられた。
「なんで逃げるんすか!この恰好でここにいつまでもいるのは危ないんでとりあえず事務所にいきましょ」
「なうううぅ゙!」
「その大きさで事務所まで歩くの大変でしょ。俺が抱っこしていくから我慢してください」
「フ~~~~」
「そんな恐い声出しても今のあんたじゃ全然怖くないから。ほら捕まえた!」
抱っこが嫌なのか、俺の腕の中で獲れたての魚のようにびちびちと暴れる。
「暴れないでくださ・・・うわなんで猫ってこんなに伸びるんだよ!?」
必死に俺の腕から逃れようとする左馬刻さんを落とさないように、がっちり抱えながら路地を抜け大通りを急ぐ。
暴れ猫を抱えて急ぐ途中、通行人にギョッとされたり、女子高生にキャーキャー言われながらスマホを向けられた気がするけど、左馬刻さんが優先だ。
あとで、「BB猫泥棒!?」とかの見出しでネットニュースに載ったらいやだなあ。
ようやく事務所にたどり着いた頃には、諦めたのか疲れ果てたのか左馬刻さんは大人しく俺の腕の中に納まっていた。
一方俺は、道中で左馬刻さんがどうにかして逃げ出そうと腕に噛みついたり猫パンチしてきたのでボロボロだ。でも、本気で噛みついたり引っかかれたわけではないので、流血はしていない。
猫になってもなんだかんだ左馬刻さんは俺に優しいのだ。
事務所のソファを陣取り、乱れた毛並をせっせと毛づくろいしている左馬刻さんの隣に俺も腰かける。
路地裏にいた時は慌てていたのであまりゆっくり眺められなかったが左馬刻さんは猫になっても美しい。
真っ白でふわふわの毛皮を纏い綺麗なアーモンド型の赤い目は人間の姿の時よりもこころなしかうるうるして見える。
そして!そして!俺は心の中のオタクが抑え切れない。お鼻と肉球がピンク色!!!!しっとり濡れた小さなピンク色の鼻にさっきから触ってみたくてしょうがない。
しかし、左馬刻さんのふわふわの長い尻尾は先ほどからシタンシタンと地面を叩いている。これはネコちゃんが機嫌が悪いときのサインだ。うっかり衝動のままに触れたら最後、俺の指には今度こそ穴が開いてしまうかもしれない。
「左馬刻さん、俺が無理やり抱っこしたから怒ってますか?」
白く気高いふわふわの生き物は、俺をゴミを見るような目で一瞥し鼻を鳴らした。
せっせと毛づくろいしている手足は、胴体がもふもふの毛に覆われているせいでいつもよりかなり短くみえる。ちょこんと出ている前足を触ろうとするとサッと引っ込められた。
「ちぇだめか」
左馬刻さんは、俺にいじくり回されるのを懸念しヒョイとソファから飛び降り窓際に移動した。
大きく伸びをすると、窓の縁に置きっぱなしにしてあったタバコをちょいちょいと触ろうとする。
「あ!!!!だめだめ!あんた今猫の姿なんだから、タバコはだめでしょ!!!」
急に大きな声を出した俺に左馬刻さんは驚き毛を逆立てる。
「なんだっけそれやんのかポーズだっけ。はい、でもこれはだめです。猫のあんたには没収です」
左馬刻さんからたばこを取り上げ自分のポケットに突っ込むと、白い毛玉は俺に纏わりつき、なうなうと怒り始める。
というかよく考えたらこの事務所の中、猫ちゃんにとって危険なものだらけじゃないか。
俺の食べかけのチョコレートも、乱数の開けっ放しの裁縫箱も、寂雷さんの・・・あの人は全然私物出しっぱにしてないわ。とにかく、事務所の中は猫になってしまった左馬刻がうっかり誤飲したら大変なことになりそうなもので溢れていた。
左馬刻さんが人間に戻るまではあまり自由に歩かせない方が良いかもしれない。足に纏わりついていた毛玉を抱き上げる。最初嫌そうにもがいていたがそのままソファに腰掛け背後から優しくぎゅっと抱きしめると次第に大人しくなった。
腕の中にいる暖かくてふわふわのいのち。
猫をこんな風に抱っこするのは初めての経験かもしれない。
萬屋の猫探しの依頼はほとんど弟たちに任せている。
俺は猫にあまり懐かれないから。
犬の散歩や預かり依頼だと大抵の犬をメロメロにする自信があるが、猫相手だと全然懐かれないし威嚇されてしまうことのほうが多い。
二郎いわく「兄ちゃんの声でかいし、身振りが大きいから猫がビビるのかもね」だそうだ。
腕の中で左馬刻さんが大人しいことを良いことに、真っ白でふわふわの頭に顔を埋めて深く息を吸ってみた。
「多幸感がやべえ・・・噂の猫吸い・・・これはガンギマリだぜ・・・」
「う゛うう゛」
左馬刻さんが腕の中でミミをピコピコ動かし抗議の声を上げるが構うもんか。
ふわふわの後頭部からは、ほんのり甘いにおいと左馬刻さんがつけている香水の匂いがした。
はあ、猫の左馬刻さん最高。
今なら肉球も触らしてくれるかも、前足をそっと手に取るとさっきと違い手を引っ込められることはない。ならば・・
ぷに
うっっッツッツわ!!!!!!!!!なんだこの柔らかさは!??
吸い付くようなすべすべの質感とぷにぷにの柔らかい感触の肉球に俺は夢中になる。
ぷに ぷに ぷに ぷに
取り憑かれたように、肉球を触り続ける俺にいい加減嫌気がさしたのか大人しくしていた左馬刻さんが腕のなかで暴れ始める。
「あ、ごめんごめん。こんな触られたら嫌っすよね。すんません」
慌てて、左馬刻さんと目線が合うように正面に抱き直した。
「なうなううううう」
「もう肉球触ったりしないっすから」
左馬刻さんを正面から胸の中にしまい、赤子にするように優しく撫でる。
俺の両腕に抱きしめられた左馬刻さんは、身体を強張らせたが撫でているうちにこちらに身を預けるようになった。
これ猫の姿にはなっているけど、左馬刻さん自我あるよなあ。
人間の姿に戻ったら、オトシマエで俺ボコボコにされるかも。
先ほどの潰れたザクロのようになった男を思い出し、ゾッとする。
恐怖を緩和させるためにふわふわの猫背を一心不乱に撫でているとだんだん「にゃあ」でも「なう」でもなく「ゴロゴロ」という音が聞こえてきた。
これはあれだ、ネコチャンが嬉しいときに出す音だ。今まで、猫とこんなに触れ合ったことがなかったから初めて生で聞いた。感激だ。左馬刻さんは今俺の手によりご機嫌になっている!
「左馬刻さん、気持ちいっすか?」
「」
腕の中に呼びかけると目をトロンとさせた左馬刻さんが返事をする。
かわいい~~~~~!!!俺が一生守る!!!!!
人間の左馬刻さんなら絶対しない仕草をされ、俺の中の庇護欲が爆発した。
それにしても、乱数も寂雷さんもなかなか事務所に帰ってこない。
事務所についてすぐグループメッセージを送ったら、寂雷さんから「乱数くんと今一緒にいるのですぐに行きます」と返信がきたのだが、なにかあったのだろうか。2人も猫の姿になってしまっていたらどうしよう。
返信が来ていないか確認するためにスマホを手に取るとちょうどニュースアプリの通知が鳴った。
『究極の癒やし【猫吸い】にゃんこは麻薬なのか!?』
いつもなら、スルーする見出しも先ほど最高の体験をしたばかりなので思わずタップしてしまった。
『猫吸いとは、人が猫に顔を埋めて息を吸う行為です。吸う場所は多くがお腹です。その他には-----』
猫吸いってネコチャンの頭じゃねえの?じゃあ俺がさっき至高と思ってたあれはまだ序盤だったってわけ?え、吸いたい。さまにゃんのお腹めっちゃ吸いたい!!!!
普段なら、チームの敬愛する先輩がいくら猫の姿になったからってお腹を吸わせてくださいなんて絶対に行動に移さない。しかし一度猫吸い(仮)をしてしまっていたためもう既に俺はラリってしまっていたのかもしれない。
「あの、左馬刻さんお願いがあるんですけど」
腕の中で、ゴロゴロ言っている左馬刻さんに優しく話しかけると、半分寝かけていた左馬刻さんが顔をあげる。
「お腹に顔埋めていいっすか?究極の猫吸いやってみたくて・・・」
寝ぼけ眼の左馬刻さんの前に、猫吸いの記事を表示させたスマホを持っていく。
赤いまんまるの目が細くなり「にゃう」と鳴いた。
猫語がわからない俺でもこれは否定の意味だと理解した。
「お願い左馬刻さん」
左馬刻さんを俺の顔の高さまで持ち上げると、対左馬刻さん 一撃必殺の上目遣いをしながらお願いをする。
ぴとり
肉球が俺の瞼に押し付けられて、俺の渾身の攻撃はあっけなく封印された。
「なにその攻撃かわいいんだけど!」
必殺のお願いを封印されてしまいもう俺が出せるカードはない。
だがしかし、俺はどうしても至高の猫吸いをやりたいのだ。かくなる上は
「お願いします吸わせてください」
俺は左馬刻さん、もといふわふわの白い神の前で土下座をした。
「・・・・」
完全に、左馬刻さんがドン引いているのがわかった。
しかし、男にはプライドを捨ててでもやらないといけないこともあるのだ。
そもそもネコチャンを前にして我々人間は下僕である。
「ネコチャンを讃えよ。ネコチャンと和解せよ」
「はあ」
左馬刻さんは大きいため息をつくとゴロンとソファに仰向けになった。ネコチャンもため息つけるんだな!
「やった!!!!ありがとう左馬刻さん!!!!!」
ふわふわもふもふのお腹にそっと顔を埋めると、俺は思いっきり深呼吸をした。
-side 左馬刻‐
誘拐犯を蹴り飛ばし後ろを振り向くと、一郎の驚いた声がする。
「え?左馬刻さん???」
「どうした」
なぜか、目の前にいる俺をスルーして俺の足元をみて俺に呼びかける一郎が心配になって声をかける。
「おい一郎?」
何がどうなっているかわからないが、先程のドグソが最後に放ったゲボリリックが一郎の頭をおかしくさせてしまったらしい。というか、幻覚が見えているようだ。
俺に一郎がどう見えているのかわからないが、さっきから俺の足元にばかり興奮ぎみに話しかけているので、なにか小さい生き物に見えているらしい。
とりあえず、おかしくなってしまった一郎を事務所に連れて帰ろうと手を引くと、逆にこちらを抱きかかえるような姿勢をとってきた。
「なんで逃げるんですか!」
「は!?逃げてねえわ!おかしくなったのはお前の方だろうが!」
じりじりと一郎が腰を低くして俺様を壁に追い込み捕まえようとしてくる。
一度マイクで気絶させて事務所に連れて行こうと、マイクを起動し息を吸い込んだところで一郎が俺様を持ち上げ肩に担ぎ上げた。
「おい嘘だろ!?????」
いくら、一郎が超ド級の高校生男子だったとしても、こちらもまた規格外にでかい186センチの成人男性だ。普段の一郎だったら、そんなヒョイと俺様を持ち上げるなんてことできない。
しかもどんなに暴れても、がっちり抱きかかえて腕から逃げられないなんて異常事態だ。
ヒプノシスマイクの効果は、脳に作用する。脳は普段身体が100%の力を出せないようにあえてリミッターとして働いているらしい。今の一郎は、そのリミッターが解除されている状態なのだろう。粗悪なゲボ違法マイクだと思っていたが、危ねえ代物じゃねえか。
俺様がここで下手に暴れると一郎が怪我をしてしまうかもしれない。
通行人にギョッとされるので、せめて抱き方を変えて欲しくて身を捩ってはみたが抵抗虚しくそのまま運ばれるしかなかった。
事務所に着くと、一郎がそっと俺を床に下ろす。
一郎に抱きかかえられてもみくちゃにされた衣服や髪を整えていると、どこかわくわくうきうきした表情の一郎が近づいてきた。
「左馬刻さん、俺が無理やり抱っこしたから怒ってますか?」
語調はしおらしくしているが、この態度は反省していない時の一郎だ。左馬刻さん、左馬刻さんと犬のように懐いてくる一郎が可愛くて甘やかしている自覚はあったがこれは甘やかし過ぎたかもしれない。
様子がおかしい一郎の言動から察するに、一郎には俺様が猫に見えているらしい。あと多分、俺様から発せられる言葉も理解していない。
なるほどガキ攫いと猫泥棒の因果はこうだ。
ガキを猫にするマイクではなく、攫ってる現場を見てしまった人間にガキが猫に見えるように幻覚をみせるマイクだったってわけだ。
だから、猫を追いかけ回している不審者情報がでてる割には猫の迷子の情報は上がってこなかったんだろう。
幻覚系マイクは、大概が第三者からの指摘で幻覚が覚める。乱数くらいのスキルを持っていれば別だろうが俺様がボコしたあの男にそれ程のスキルがあるようには見えない。センセー達が、一郎に指摘すれば一発で幻覚は解けるだろう。それまでは、適当に一郎をいなして過ごそう。
しれっと、俺様の手を触ろうとした一郎をかわし煙草を吸いにいく。
置きっぱなしにしてあった煙草の箱に手を伸ばすと、一郎がまるでペットでも叱るように大声を出したので思わず飛び上がる。
公衆の面前で抱きかかえて運ばれるという醜態を晒し、ヤニも摂取できないしで俺のイラつきはピークに達していた。
一郎の胸ぐらを掴み煙草を取り返そうとすると、またヒョイと抱きかかえられる。腕から逃げようともがきまくるが、リミッターが外れた一郎の腕力は異常だ。先に俺の息のほうが上がってしまった。
てか、これ俺様だからどうにかなってるけど、本物の猫だったらこいつ抱き潰してしまうんじゃねえか、悲しきモンスターの一郎くん。
もうどうとでもなれ。
「うそ、やっぱきもい」
大人しくしている俺を良いことに、一郎はセットが崩れてしまった俺の頭に顔を埋め恍惚とガンギマリ。今は俺の手のひらをぷにぷにとしている。
良いのか一郎。お前が今癒やされると握っている俺様の手はクソゲボ誘拐犯をボコした時についた血がこびり付いてんだがよ。もう早く手え洗いてえ。
俺様の手のひらに満足した一郎は、今度は俺様を正面に向き直しぎゅっと抱きついてきた。一郎には、俺様が猫に見えてるんだろうが、こちらは全くそうではない。
全然、人間の男(でかい)と人間の男(でかい)が正面むいて抱き合っている状態だ。さすがに経験豊富な左馬刻様でもこの状態は初体験すぎて思わず身体が強張る。一郎が嫌と言うわけではないが、シラフの状態でこれは変に緊張し謎に心拍数が上がってきた。
一方で一郎の体温はぽかぽかと温かく、顔も胸元に押し付けられている状態のためガキくさい一郎のにおいが胸いっぱいに広がる。抱き抱える力こそ強いものの、俺を愛しい壊れ物のように優しく一定のスピードで撫でる様子に心拍数も落ち着きだんだん力が抜けてきた。というか、眠くなってきた。
一郎が何かと俺様に話しかけているが、生返事をする。俺のこと今は猫に見えてるんだろ?だったらこのまま寝かせてくれ。
微睡みかけていると、一郎がズイっと目の前にスマホを翳してきた。
なんだよ、せっかく寝かけていたのに。画面を眺めると馬鹿みたいな記事の内容にげんなりする。
「いやだ」
俺様のNOを察した一郎が、上目遣いで「お願い」をしたので、返り血がついていない方の手のひらで一郎のうるうるの目を覆ってしまう。
今日は一郎の無茶振りに付き合わされまくったから、もうどんなお願いも聞いてやらねえ。
っと思っていたのに、目の前で土下座して変な呪文を唱えている一郎に俺はドン引きしていた。
そのまま、上から踏みつけて地面とキスさせてやろうかと思ったが「お願いします」という一郎の目はマジだ。本気と書いて読み方は「マジ」ってやつだ、どうして、猫相手にそんな本気になれるのだろうか。
「はあ」
俺は今日一番のでかいため息をつくと、ソファに仰向けになった。
「やった!!!!ありがとう左馬刻さん!!!!!」
一郎は、ソファに寝転がった俺様の足元にくるとペロンとシャツをめくった。は?シャツめくるんかよ。てっきり服のまま吸われるものだと思っていたからギョッとして起き上がろうとするとそのまま素肌の腹に一郎は顔を埋めてきた。
後輩が己の腹に顔を埋めて深呼吸をするという奇妙すぎる体験に俺は身を捩っていた。
くすぐったい、めちゃくちゃくすぐったくて一郎の頭を剥がそうとするが、リミッターが馬鹿になっている一郎は全く剥がれない。
ダイソンもびっくりの吸引力で腹を吸われ続けていると最初は「無」だった感情がバグってきてだんだん変な気持ちになってきた。
くすぐったいの感覚が、なぜか腰の方まで伝わってきてもぞもぞする。
「んっ・・・おい!一郎!もうおしまい!!!」
殴って止めさせようとしたが、腰がもぞもぞするせいでうまく力が入らない。
「やばい・・・さまにゃんのお腹、お日様と甘いにおいと左馬刻さんのにおいがする・・・ごめんもうちょっと吸わせて」
俺の必死の訴え虚しく、一郎は恍惚の表情を浮かべフスフスはあはあ俺の腹を吸っている。
お日様の匂いってなんだよ。ぜってえしねえだろ、幻覚の作用って嗅覚までおかしくさせんだな。
ってか、世の中の猫飼いが猫吸ってるって本当なのか。こんなん飼い猫に嫌われんだろ。
現実逃避で世の飼い猫に思いを馳せ始めたころ、ようやく乱数とセンセーが帰ってきた。
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女子高生が撮影した『BBが暴れる左馬刻様を担いで爆走する動画』はその後様々なBGMと共にSNSで改変され海を渡り、国内外で有名なミームになるのだった。