バニーボーイ坂本龍馬に女遊びの趣味はない。
正味な話、女という素体が良いなら放っておけば勝手にわらわら集まるばかり、対話をしたところで彼女たちが自分に求めるモノに辟易してしまって草臥れる一方だ。
だがしかし、相手あってのビジネスにおいては未だその趣味が共通の体験を生むことも事実であった。
「ふぅ……」
夜の遊び場は月に一度のイベントデーとやらでいつもより一層姦しい。ついに耐えかねた龍馬は雉撃ちと偽り店を出て、非常階段と示されたドアを見つけるとそっと、丸いドアノブを回した。
(あ、開く)
押せば素直に開く扉、隙間から外気が吹き込んでのぼせた頬を撫でていく。
丁度建物同士の間にあたるのか、表通りのネオンの明るさや騒がしさが嘘のような、闇深いビルの谷間。
わずかな踊り場はまるで夜の公園のベンチのようで、龍馬は後ろ手にドアを閉めるとそこへ静かに腰を下ろした。
(…………月だ)
夜でも――いや、むしろ夜の方が明るいようなこの街で、こんなに美しい月を拝むことができるとは。
龍馬はしばらく身動ぎもせず、顔を上げたまま頭上の灯かりを眺めていた。
時折排気口を伝ってなのか、ホールに響くアナウンスがうっすらと聞こえてくる。
(Bの十四番、Bの十四番!)
番号を示す声につられて、左手に持っていたビンゴカードへ視線を落とすが、ぽつりぽつりと穴の空いたカードに聞こえた番号は見当たらない。
「……」
賞品が何かすらよくわかっていないゲームのことなど気にすることもない。手にしたカードを仕舞い込もうとした瞬間、非常扉から人影が覗いた。
「んあ? 先客かえ……」
色気のある嗄声、ひょこんと動く長い耳、細く高いピンヒール。
「…………テツさん?」
心当たりの源氏名を呼べば、あべこべなバニースーツに身を包んだ男がぱっと片目を見開いた。
「たまぁ、龍馬やか! こがなとこでなにしゆう?」
「あはは……」
店から逃げ出してこんなところに居るとも言えず、龍馬は笑ってお茶を濁す。
キャストの男もそれを察したのか、呆れたように肩を竦めて見せた。
「ここはわしの特等席やぞ」
「ああごめん、いま……」
「ちくと詰めぇ」
退くから、と言うより早くバニーボーイが顎をしゃくる。
龍馬が大きく開いていた股を閉じて居住まいを正すと、テツ、と呼ばれた青年は息を吐いた。
「僕、座ってていいのかい」
「特別じゃ」
(こん前はえろう稼がせてもろうたきに)
にやりと口の端を上げた青年の台詞は、恐らく先日龍馬が得意先の女社長を連れてきたときのことを指しているのだろう。
「……ありがとう」
要求通り龍馬が身体を少しフェンス寄りにずらす。すると立派な体躯のバニーボーイはその隣にどかりと遠慮なく腰を下ろした。
狭い非常階段の踊り場は、男二人が並んでぎちぎちだ。
「お〜……もう外はこがぁに冷いがか」
コスチュームと言うのも憚られるような、ほぼ肉体を剥き出しにしたあべこべなバニーガールの艶姿。
それは些か秋口の外気には不向きのようで、キャストはぶるりと身体を震わせる。
「ああ、これ、使って」
龍馬は自分が着ているスーツのジャケットを脱ぐと、やや前屈みで腕を組んで寒さを凌ぐ青年の上半身を包むように、それを軽く羽織らせた。
「……ひひ」
拒むこともなくされるがまま、肩でジャケットを受け取った兎が悪戯っぽく笑う。
「りょうまぁ」
「?」
表情の意味がわからず首を傾いだ美丈夫の首に、冷えた指先が這う。
「最初に来たときに教えたろ?」
「え?」
「キャストがひやいち言うたら、どうするがやった?」
顔を近づけ、焦点がぎりギリギリ合う距離で見つめ合う。
――ああ、この距離には、覚えがある。
「…………そうだね、教えてもらってた」
ふっと口元を緩めた龍馬はそれでなくてもぴたりと寄り添っていたキャストの腰に片手を回し、なるべく穏当にその身体をひたと抱き寄せた。
「おんおん、覚えちゅうやか♡」
兎が正解のご褒美とばかりに自らさらに身を寄せ、ふたりは丁度横並びに座ったまま、しっかりと抱擁しあう。
「テツさんは、休憩時間かい?」
「いんや、客が別のお遊びに夢中やきサボりにきた」
(Iの十八番! おっ、おめでとうございます〜!)
薄ら聞こえるその声にふたりは苦笑する。
「おまん、ほんまに女? 男? 遊びが苦手なが?」
「まあ、得意ではない……というか、弱いんだ。僕、こういうの」
「ほぉん?」
「……テツさんはいつも自信満々で、弱いところなんてなさそうに見えるから」
(……なんか、憧れるなぁ)
へにゃりと眉を下げた男の瞳があまり深くは追及せず、代わりに男の頬をそっと撫でる、兎の指。
冷たい風とは正反対に、触れたところがじんわりと熱を持つ。
「……ほいたら、ここで会うた記念にひとつ、教えちゃおかぁ」
「え?」
「わしの弱いとこ」
「え」
さらにぴったりと、まるで恋人のように距離を詰めたキャストの唇が龍馬の耳のふちに触れる。
「……背中、背骨に沿って撫でとうせ?」
「せなか……」
「おん、じこじこ、上から下に……」
低い、嗄れた青年の声がひそひそと耳孔を擽る。肩掛けのジャケットの下、腰のあたりを抱いている手が熱くなる。
「こ、こう……?」
「ん、……」
龍馬は兎の背の中心に中指をあてがうと、そっとその指先を重力に委せ、ゆっくりと滑らせた。
しっとりとして、弾けそうなほど鍛えられた筋肉の間隙。
少し力を込めてなぞれば、胸椎の凹凸が皮膚越しにはっきりとわかる。
「ふ、……ぁ、……」
熱を帯びた吐息が龍馬の耳を嬲る。
ひとつひとつ、骨の形を感じながら降りる指先は腰椎をいくつか数えたあたりで合皮のホットパンツに阻まれてしまった。
「もうちくと、下まで……」
「服の中になっちゃう、よ、」
「おん、そんまま……」
平時であればそんなことはしてはならないと、すぐさま手を引っ込めることが出来ただろう。しかしいま、龍馬は柔らかく自分を抱く青年の身体と、耳に感じる吐息に理性の手綱を奪われている。
「つづけとうせ……」
鼓膜を浸す麻酔のような命令に、龍馬の指は迷わず布地の下に滑り込んだ。平たい骨盤を超えて臀の割れ目に到達する前に、なだらかな突起が触れる。
「ひッ」
瞬間、兎がぴくりとわずかに腰を引き攣らせ、息を呑んだ。
いままで偶然逢った客を揶揄うためにわざと押し込まれていた吐息が、急にがらりと趣を変えて切迫する。
「んッ……ふ…………」
「……」
尾骨の小さな丘陵を優しく指の腹で、爪で引っ掻けばその度にぴく、ぴく、と兎の身体が震え、先程とは比べ物にならない甘い啼き声が聞こえる。
(よわい、ところ……)
――そんなつもりは毛頭なかったが。
またひとつ、可愛いキャストの秘密を教えてもらえたらしい。
自分に縋り付くような素振りで、声を押し殺して見せる兎があまりに魅力的で、龍馬が夢中でその身体を弄っていると。
「りょうま、……」
預けていた上半身を離した青年が、そっと龍馬の頬を掌で包む。
じっと見つめる左のまなこが、隣立するビルからわずかに漏れた照明を受けてきらきらと濡れ、ひかる。
「テツさん、その……」
見目の良い顔が、形の良いうすい唇が、静かに近付く。
「……」
――いま、くちづけたら。
いま、あの日のようなキスをしたら、それこそ正気でいられなくなる。
だけど、こんな誘惑にはとてもじゃないが――
龍馬が観念して眼を瞑ろうとしたとき、遠くから一声が轟いた。
「おいテツ〜、そこにいるんだろ?」
『!!』
ふたりはびくんと眼を見開き、非常扉をじっと見遣る。
「そろそろイベント終わるから戻っとけよ〜」
声の主はドアの外を確かめるでもなくそう言うと、すぐにその場を離れたらしい。
「……ひひ、バレてもうた」
「ふふ、バレちゃったねえ」
色めいていた雰囲気はするりと影を潜め、どちらともなく悪戯を窘められた子供のようにくすくすと笑い始める。
「龍馬ぁ」
「ん?」
「今度は中で遊んどうせ」
にんまりと微笑んだ兎は、隙だらけの美丈夫の唇にちゅ、と柔らかく吸いついた。
「?!」
龍馬が言葉を返す前に、兎はするりとジャケットを脱いで持ち主の膝に乗せ、空気のように軽い身のこなしで立ち上がる。
そしてひらりと手を振ると、扉の向こうへと駆け出してしまった。
「………………」
呆然と座り込んだままの龍馬を下から吹き上がるビル風が撫で、冷える唇に先程のくちづけが嘘ではないことを知る。
逆に頭はぐつぐつと煮えたち、まるで酩酊しているようですらある。
「……いやぁ、商売上手だなぁ…………」
どうやら、もう暫くはここから動けないらしい。
龍馬は大きく息を吐くと、膝の上のジャケットを手に取る。
そしてわずかに残る余熱ごと、名残惜しそうに抱きしめた。
[了]