とっておきを、君に ――昼の苦手なすすきのに、一軒の萎びた……いや失礼、一軒のオーセンティック・バーがあるのを知っているか。
賑わう横長のカウンターに腰掛けた男がひとり、得意の語り口でそう切り出す。艶やかな黒髪、どこか他人を冷やかすような色気のある笑み。
向かいに立っていた初老のロマンスグレーは、競合店の話を堂々とする無配慮な客を叱りもせずに、静かにその話に耳を傾けている。
「いいや、知らん」
そしてその問いに対しにべもない答えを返したのは、黒髪の隣に座る金髪の男だった。
「そもそも俺はこの土地に来るのすら初めてなもんでな」
すらりとした身形を包むシンプルな黒のロングジャケット、その胸元には人目を引く大きな鏡をモチーフにした首飾り。
真夜中のバーでも色付きの眼鏡を外さないのは、顔を見られてはならないような後ろ暗いことがあるからだ、などと揶揄されたのも数十年前の話だ。
「そりゃ良かった、アンタついてるぜ!」
「コラ燕青クン、良い歳して人のコト指差すのはやめたまえ」
パチン、と小気味よく鳴らした指でそのまま隣の男を指差した上客の振る舞いを、さすがの店主も嗜める。しかし男はそれを気に留めず、話を続けた。
「明日の予定に書き加えてみてくれよ、『トロンプ=ルイユ』にバレンタインのチョコレートを買いに行くってね。きっと良い旅行土産になるよぉ」
「……チョコレート?」
今の今までちっとも興味がなさそうに、ぼんやりと手元のグラスを見つめながら葉巻を燻らせていた美しい男は、その単語を聞くや否や整った片眉を跳ね上げる。
「そりゃあ良い! オレは生憎チョコレートってやつに目がなくてね」
それからやっと隣のおしゃべりに視線を向け、サングラスの奥の瞳を細めた。
「オレは……そうだな、黒神、とでも呼んでもらおうか」
「クロガミ。格好良い苗字だな」
「だろ? たった今付けた割には気に入ってるんだ」
どこか酷薄そうに見える微笑みは実にミステリアスで、夜の照度の低い店内によく似合う。男は懐から薄いスマートフォンを取り出してから、お節介な隣人に質問を浴びせた。
「それで? その『トロンプルイユ』って店はチョコレート専門店なのか?」
「いや、さっき話していたカクテルバー」
「バー?」
首が、頭が僅かに傾いで金糸が揺れる。
「二月十三日火曜日。あした一日だけ、その店はショコラトリーになるらしい」
「らしい??」
さらに頭をかたむけた男の口元が不可解に歪む。
「ほら、日本人はバレンタインデーが大好きだからな。たまにはバーもチョコレートくらい売りたくなるんじゃないの?」
「いやいや待て、そもそもバレンタインデーは二月十四日だろうが」
「でもチョコレートを渡すやつが買いに来るなら、前日の方が都合がいいんじゃないのか?」
自分もそこまではわからない、と黒髪の男は首を横に振りお手上げのポーズで応える。
「じゃああれか? この国では肉屋も魚屋も今頃ショコラトリーになってるって寸法か」
「手厳しいねぇ」
シニカルな合いの手にもう一度首を左右に振った男は瞼を閉じた。
「ま、騙されたと思って寄ってみなって。燕青ってやつに紹介されたって頼めばカクテルだってつくってくれるぜ、きっと」
――黒神が日本に来た目的。
それは加工品としてのチョコレート流通の先進国で、自身が代表を務めるカカオ生産者団体の取引先を査察見学することに他ならない。
「こんな遠い土地にまで、ウチの農家の豆を使ったビーン・トゥ・バーの工場があるなんてな」
ビーン・トゥ・バー――豆の買い付けから板チョコが出来るまでの全行程を自社で行う製造スタイルを指す用語だ。
この場合、チョコレートをつくる工場による豆の買い付けはカカオ農家と直接行われることが多いが、小さな農家は言語や商慣習の差から、利益が増えると分かっていてもなかなか契約の締結、取引にまでたどり着けない。
黒神はそんな農家と世界各地のファクトリーを格安の手数料で結びつけサポートする活動を行っている。
数日前までは首都である東京に滞在し、二月十四日のバレンタインデーに向けたチョコレートの祭典やらパティスリーやらを視察。そして昨日この札幌という土地に移動して、今日はこの地に居を構える取引先――ある奇特なチョコレート工場を訪問。
忙しないスケジュールだが、それに見合うだけの新たな発見も多い。
美しい長い金髪を臙脂色のマフラーの中に封じ込めた男は、ある建物の前で長い脚をピタリと止めた。
「しかし、寒い土地だなここは……」
カカオの生育地域は赤道の南北緯度の二十度、亜熱帯地域に存在する。
慣れぬ北緯四十三度の亜寒帯、未知の寒さに身体を震わせ白い息を吐きながら、黒神は目的の店の外観を確認する。
街の外れ、中小路にある小さな三階建てのビルの一階。
通り沿いに見える大きな窓からはカウンターが覗き、数人の客がゆったりと降る雪を見ながらマグカップで暖を取る様子が視認できる。
そっとドアを押し開ければ、ふわり、甘く豊かに香るチョコレートを使った焼き菓子の香りが、暖気と共に黒神の全身を包む。
ドアについた鈴が鳴り来客を知らせると、斜向かいのオープンキッチンとカウンターに居るスタッフが、いらっしゃいませ、と気持ちよく笑った。
(ほう、ショップとカフェが併設されてんのか)
キッチンのさらに奥にはガラス張りの工場エリアがあり、そこではスタッフが丁度豆の選別を行っているようだ。
アイランド型の木製の陳列カウンターには、原産国だけでなく指定農家まで記載された単一産地のタブレットが複数種、美しい包装を施されて並んでいる。
黒神はそれをそっと手に取った。
「…………」
グアテマラとの国境あたり一帯を指すソコヌスコエリア。そこで希少種であるクリオロ種のカカオを栽培している、見知った農園の名がしっかりと印字されている。
「げん、ざい、りょう……」
日本語を聞いて話すことには相当習熟した自負があるが、漢字、というものは流石にバリエーションが多すぎて手に余る。
黒神が農園以外の日本語を眉を顰めて少しずつ解読していると、背後からか細い声が聞こえた。
「失礼します、お客様がその、クロガミ……さま? でしょうか……?」
「あん?」
「ひえ……人違いでしたら、その、ごめんなさいっ……」
振り返れば小柄で華奢な店員がぶるぶると小動物のように小刻みに震えている。
「……いや、俺がクロガミ、で合っている。何か用事か」
「はい、あの、お見えになられたらお客様をアテンドするようにとオーナーから指示がありまして……」
「そりゃあ有難い、渡りに船ってやつだな。ひとつよろしく頼むぜ、お嬢?」
「お……?! あ、えっと、では、これからファクトリーの中をご案内しますが、店や工場のことでわからないことなどあれば、すぐにお尋ねくださいね?」
「そうだな、それじゃあ」
「はいっ」
「まずはこの漢字、読み方を教えてくれないか?」
白く長い指先が、とん、とチョコレートのパッケージを優しく叩いた。
「いらっしゃいませ」
仄かに灯る白熱灯が狭い店内を照らす。
オレンジに烟る店内、小さなカウンターの前に置かれた丸いハイチェアは六つのみ。
ハンガーラックも荷物置きも、置いてあるものには古ぼけたアンティークが目立つ。けれどもそのくせ、手入れは隅々まで行き届いているようだ。
「ご予約のお客様でしょうか?」
カウンターの中に立つ黒髪の美丈夫が微笑む。
「いや、していない……エンセイ、という怪しい男と、チョコレート屋の店員に紹介されてやってきたんだが」
「たまぁ、今日で何人目じゃ」
カウンターの中のもう一人、重たい前髪で片目を隠した、随分と幼い顔をした男が耳慣れない言葉を発する。
(しかし日本人というのは本当に年齢がわからんな)
「……今日は予約で満席か?」
黒神は余計な言葉を飲み込み、端的でシンプルな質問を投げ返す。
「いいえ、丁度客足が途絶えたところです。よろしければご覧になりませんか」
柔和な男の言葉を受け、突然の来客は羽織っていたコートを脱ぎながら店の中へとさらに足を踏み入れた。
こつ、こつ、と革靴の踵が木目板を叩く音がして、カウンターから出てきた童顔の男がその上着を滑らかに受け取る。
まるで良く出来た芝居の一幕のような光景は、ここでは日常茶飯事らしかった。
「ありがとさん」
「どうぞ、お好きな席にお掛けください」
先程の未知の日本語ではなく一般的な標準語、というやつを流暢に操ってみせた男に促され、幸運な来客は右から三席目、ど真ん中の席に堂々と腰を掛けた。
カウンターの目の前には、透明なドーム型のケースに覆われた白いサーブトレイが数個並んでいる。その中に規則正しく鎮座しているチョコレートは、今か今かとその出番を待ち望んでいるようですらあった。
「当店のことは、何と?」
「バレンタインのチョコレートを仕入れるのに打ってつけだと」
トレイの前には、それぞれの商品名と簡単な説明を記載した小さなカードが添えられている。
「あれま、困った人だね燕青君も」
「バーより稼げるがやったら、こんままショコラトリーに鞍替えでもするかえ?」
黒神は従業員ふたりの会話を聞き流しながら、その文字の読解を始めた。
「ふむ……」
一番近くに置かれているのは、『りんごとカルヴァドス』、その右隣は『ハスカップとパチャラン』、左隣は『黄金しょうがとウォッカ』。
いずれもチョコレート以外の素材と、何らかの酒類を合わせたオリジナルのボンボンショコラを提供しているようだ。
「……これは、ここで食べることも出来るのか?」
「はい。当店は本日だけ特別にショコラトリーとして営業していますが、お客様のご要望があればこちらでお召し上がりいただいても構いません」
「ちなみにエンセイって奴には、頼めばカクテルも出てくると聞いたんだが?」
店主らしき男の背後の棚にずらりと居並ぶ夥しい数の酒瓶を見つめながら、客が問う。
「ええ、普段はカクテルバーを営んでおりまして。よろしければご一緒に楽しんでいただけますと我々も喜ばしい限りです」
「そりゃあいい! じゃあここで少しばかり味見させてもらおう」
「是非。ショコラはどちらを召し上がりますか?」
「全てひとつずつ」
「かしこまりました」
オーダーを聞くと、童顔の店員がいつの間にか手にしていた小皿にひとつ、チョコレートを載せてカウンターに座る客へと差し出した。
「では、まずはこちらからどうぞ」
「これは?」
「ベースで使っているチョコレートのタブレットです」
一口大に割られた、ミルクチョコレートのように明るい色味の板チョコレート。
「……ほう」
――この色には、心当たりがある。
黒神は出された一欠片を摘み上げると、すぐに口内に放り込んだ。
わざと歯でしっかり噛み砕けば最初に鼻から抜けるのはベリー、白い花、僅かに柑橘の混合されたような、甘酸っぱい香り。
破片が舌の上の温度で溶けるにつれ、ナッツやクリームに似たまろやかさが口いっぱいに広がり、最後まで穏やかで強い旨みを感じることができる。
一方でカカオ特有の苦味や渋みが極めて少ない、この特徴的な味は。
「この店のことをお話になっていた店員、というのはサンデイズ・チョコレートの方ですね?」
グラスを拭き上げながら美丈夫が言う。
「ああ、その通りだ」
「あの店の、メキシコはソコヌスコのクリオロ種のものです。特に焙煎についてはうちのヘッドバーテンダーのオーダーで、今日のために用意してもらいました」
昼間立ち寄った取引先の小規模工房ならではの機動力に、黒神は内心舌を巻く。
「……」
しかしこの、子供のような顔をしたバーテンダーも隅におけない。
苦味を想起させやすい焙煎香を抑え、目立ちがちなナッツ香ですら突出しないようにコントロールすることで、原料としてのチョコレートが菓子としてのショコラを邪魔しないよう、恐ろしいまでに気を遣っているのが良くわかる。
「いかがですか?」
「なかなかどうして驚かされた。次のボンボンショコラが楽しみだ」
「ありがとうございます。以蔵さん、次はどれを召し上がってもらおうか?」
「ほうじゃなぁ……ま、お客サンはチョコレートに詳しいお方みたぁやき、好きな順に食うてもろうてかまんじゃろ」
特段迷う素振りも見せず、以蔵、と呼ばれた童顔バーテンダーは残りのショコラをケースから取り出し、ひとつずつ皿へ供した。
「これは中のフィリングにりんごとカルヴァドスを。こっちはハスカップちゅうこん土地の果実に、パチャランちゅうリキュールを使ったジャムに近いフィリングを入れちょります」
「パチャラン?」
「スペイン北部で穫れゆう西洋すももの果実を、アニス酒に浸漬したリキュールじゃ。ハスカップもこの西洋すももちゅうがも、酸が特徴的じゃな」
流れるような説明が、静かな店内にそっと響き渡る。
「これはわしらの出身地で穫れゆう黄金しょうが……、んんと、ジンジャーじゃ、ジンジャーをガナッシュに混ぜちゅう。こいたぁを最後にするがぁおすすめじゃなぁ」
「へえ、……」
黒神は、手元に並んだ四角い物体をサングラス越しに睨め付ける。
見た目はごく普通のパティスリーのボンボンショコラと大差ない。
少し平たいチョコレートの表面に、転写シートで異なる柄が配された、小綺麗で余分のない仕上がりだ。
「じゃあ、いただくとするか」
利き手側に配されていたりんごとカルヴァドスのショコラを摘み上げ、一気に口に放る。
外側のチョコレートが心地良い歯触りと共に割れ、適度な柔らかさをしたフィリングが溢れる。カルヴァドス――フランス産のアップルブランデーの、オーク樽の豊かな熟成香と甘味に、フルーツとしてのりんごの酸味が混ざり合う。フレッシュな果実感ともったりとした重厚な甘味が爆発的に口内を席巻したあと、それを優しく包むようにクリオロ種のもつカカオの旨みがじんわりと広がり、嫌な後味を残さずに穏やかに香り続ける。
(これは……)
ここまで原料の個性を理解した製菓としてのショコラというものは、トップパティスリーの手にかかってもなかなかお目にかかれるものではない。
黒神が感嘆したように息を吐くと、その指は勝手に次の一粒を掴んでいた。
(ハスカップと、パチャラン)
噛めば、アニスの特徴的な薬草香か鼻腔を舐るように支配する。出てくるフィリングは野生ベリーのジャムのようで、説明通りチャーミングな酸味が生き生きと感じられる。それがやや強めのアルコールの辛みに似た刺激とカカオの苦味で細く確かな輪郭を与えられ、ただぼんやり甘酸っぱいだけのチョコレートとは一線を画す完成度を呈している。
「……ん?」
するりと違和感なく差し出されたショットグラス。
薄い黄金色の液体がゆらり、揺れる。
「よろしければどうぞ。チョコレートに使ったものと同じパチャランです」
「ああ、ありがとさん」
知らない酒とわかってすぐさまテイスティングを用意する手際、アニスの香り、原液の甘み。
そのどれもが心地良く、この店が名店だということが察せられる。
(……最後は、ジンジャーショコラか)
黒神は皿の上にひとつ残ったそれを手に取ると、ひといきに頬張った。
中はガナッシュが詰まっていて、そのこっくりとした甘さが、メインとなる生姜とそれ以外のスパイスで引き締められている。
「これは、とても良い仕事をしている。……最後に食べると特にそう感じるな」
「黄金しょうがち言うがは他の生姜よりも辛味が強いけんど、さらにこれには黒胡椒と唐辛子もほんのちくとばぁ、混ぜちょります」
「成る程」
チョコレートの甘味にシャープに辛味のキレが映えてさっぱりとして、口の中が重たくならない。
いずれもどちらがが突出してしまえば台無しのバランスを、見事に調和させている。
「……いや、恐れ入った」
「ふふ、だって、以蔵さん。良かったねぇ」
「ま、わしにかかればこがぁなモンじゃ」
目を閉じ少し顎を持ち上げ、自慢げな表情をして見せた一日限りのパティシエの隣から、店主は音も立てずに客前にグラスを差し出した。
「最後はこちらをどうぞ」
「……オランジェットか?」
口径の少し広がったロックグラスの縁に、円形に薄切りされた柑橘のチョコレートがけが添えられており、中にはレモン色と乳白色が混ざり合ったような、美しい液体と氷が満ちている。
しかし、どうにもその果皮の色は青みがかった黄色に近く、オレンジとは異なるもののようで、男はいつかのように首を傾げ、美しい金糸をさらりと揺らめかせた。
「オレンジの代わりに、これも僕らの故郷のシトラス――仏手柑を砂糖漬けしてチョコレートでコーティングしたものです」
「……ブシュカン?」
「仏教は? わかるが?」
「ああ、知ってはいる」
「その仏さんの手に似てるち言うてついた名前ながよ。これはそれたぁ品種が違うき、まぁるいけんど」
バーテンダー、いや、今日に限ってはパティシエの男が、片手に青々とした丸い果実を乗せて転がして見せる。
「それに合わせて、オレンジフィズならぬ仏手柑フィズと一緒にどうぞ」
「わかった」
コースターの上に置かれたグラスの中の、淡いクリーム色がかった液体。しゅわしゅわと細かい気泡が立ち上り弾ける音が耳に届く。
飲み口へ唇をを寄せれば、ふんわりと甘いチョコレートの香りに、爽やかな青さだがややまったりとした、独特の芳香が寄り添う。
一口、液体を口に含む。
炭酸のきつい刺激とは全く別物で、果実の特徴的な香りがより濃く、はっきりとした酸と皮目に由来する風味としてのほろ苦さが細かい気泡が弾ける度に鮮度良く口の中を駆け回る。
「これは……」
またしても、黒神の意思とは裏腹に指がチョコレートへ伸びた。
強い酸味と皮のほろ苦さは砂糖漬けのおかげで角が取れ、穏やかなカカオのまろやかな口当たりと柔らかい甘味、ナッツ香が仏手柑のクリーミーな香りと良い方向に合わさっていく。
そのままもう一度グラスの中身を嚥下すれば、加熱され変性した果肉のやや物足りない風味をカクテルのフレッシュな果汁が補強して、このシトラスの持つ本来の味を十全に楽しむことが出来る。
「……いやはや、参った、降参だ」
闖入客はふう、と大きく息を吐いた。
そしてハンズアップの真似事をして見せると、高らかに笑った。
「正直に言おう、舐めてたよ。こんなにイイモノを味わえるとは小指の先ほども思っていなかった。ついつい葉巻を吸うのも忘れるくらいにな」
あまりに直裁な初期評価に、童顔のパティシエがムッと口元をへの字に歪める。
その腰あたりをなだめるように叩いた店主は、少しいたずらに笑って見せた。
「それは大変良かったです、なにせ当店は完全禁煙なもので」
ちりん。
会話の終わりを待っていたかのように、柔らかいベルの音が響く。細く開いたドアの隙間から、随分と幼い少女たちがそろり、店の中を覗く。
「あの、……こちら、で、今日、チョコレートを売ってらっしゃるって聞いて……」
「ふだんは大人の方におさけをだすお店だって聞いたのだけど」
「ねえねえ、おさけのはいってないチョコレートも、ある?」
「なんじゃジャリども、一気に喋りなや!」
不機嫌そうな表情のバーテンダーがぴしゃりと叱咤すると、少女たちは意外にもきゃあきゃあとそれに食ってかかった。
「ジャリじゃあないわ! わたしたち、立派なレディですもの」
「そうです! とっても美味しいチョコレートを売っているって、聞いてきたんです!」
「ねえ、チョコレート、どこにあるの?」
「わ、わーった、わーった! ……レディ、おまんらぁが食えるがはこれじゃ」
「見えないわ!」
「椅子に登りな! いま見せちゃるき、大人しゅう待っちょれ」
わらわらと店内に雪崩れ込んだ幼い三人組が背の高い椅子に登ろうとすると、ヘッドバーテンダーはそれを牽制しながらカウンターを出た。
「随分可愛いお客さんだ。それじゃあオレはこの辺りでお暇するかね」
黒神はそれを横目で眺めつつ、ポケットからマネークリップで束ねられた紙幣を取り出す。
「お気遣いなく、まだお席は大丈夫で……というか、こんなにお代もかかりません」
代金を差し戻そうとする店主を手のひらで制すと、男はニヤリと笑った。
「いや、次に行くところもある。……なかなか来ることは無いかもしれないが、この土地に訪れた際は必ずまた、立ち寄ろう」
「ええ、またお会い出来るのを楽しみにしています」
「ああ、あとそこの子供みたいなオマエ」
「なんじゃと?!」
童顔のバーテンダーが、御冠の猫みたいに見えぬ毛を逆立てる。
「ファイン・カカオが入用で困った時は連絡しろ」
「お、おおっ、ん??」
カウンターの上を、一枚の名刺が滑る。
「メキシコ産のとっておきを都合してやるさ」
そう言い残すと、麗しい外つ国の男はジャケットを自ら羽織り、俄かに騒がしくなったショコラトリーを後にしたのだった。
[了]