名前の話「ん、朝……?」
「っ、頭いてぇ……」
爽やかな鳥の声と瞼の裏を刺すかのような陽の光でフランスは起き上がる。服は着ていたが何故か床に転がっていた。
真っ直ぐ天井に向かっていた視線をずらすと、一人用のソファに腰掛けた眉毛の立派な年下の男が自分の腹を足置きにしていた。その男はフランスと同じように今起きたばかりのようで、目を細めながらこめかみを抑えた。
昨日は確か、嫌々と手を取り合いあった隣のクソ眉毛ことイギリスを招いて二人だけのささやかな晩餐会を開いていた。先のアンタント・コルディアルを受けてのことだった。
上司がうるさいから仕方なくイギリスを家に呼んで、上司がうるさいから仕方なく今家にある中で2番目にいいワインを選んで、上司がうるさいから仕方なく一昨日から仕込んでいた肉で料理をして。ちなみに昨日のメニューは、上司がうるさいから仕方なく1週間前からああでもないこうでもないと悩み抜いて作った。
「おいお前、トレビアンなお兄さんを足置きにするんじゃないよ」
フランスはそう言って、のそのそと起き上がった。そのせいで足が大きく揺れたにも関わらず、この眉毛ときたらまだ半分夢の中らしい。少しイラッとしたフランスはそのまま立ち上がってイギリスに近づき、妙に薔薇色に色づいた頰を引っ叩いた。
「起きろよ」
「……いってぇな。仮にも真摯協商相手だろうが。それともなんだ、それがフランス式のモーニングコールか?それは失礼した。随分と野蛮でいらっしゃる。Good Morning、フランス王国殿」
始終眠そうな声をしてはいるがよく回る口は相変わらずのようで、爽やかな朝には相応しくない皮肉をポンポンと繰り出してくる。
しかし、イギリスはやはりまだ半分夢にいるようだ。揚げ足を取れる場所を見つけたフランスは、一気に機嫌が良くなった。
「は〜〜?お前本当に寝ぼけてる?今の俺は『フランス共和国』ですぅ〜〜!ばーかばーか」
「あ………?」
フランスはそう言ってら今度はイギリスの頬をつねった。起きろよ二日酔いのエセ紳士野郎。
2回目のモーニングコールが功を奏したのか、イギリスはだるそうに身を起こした。自分の得意の皮肉が不発だったことに不服そうにしてはいるが、それはそれとしてまだ眠そうだ。
昨日はちょっとした口論がいつも通りヒートアップして、二人ともパカパカとワインを開けて、それから胸ぐらをつかみ合って──そこから記憶がない。さもありなん、である。
怪訝な顔をしつつ目を眠そうに擦る様は、悔しいがいつかの幼少期を思い出させてくる。
だから嫌なのだ。謎の庇護欲が湧いてくるから。
口が裂けても言える話ではないが、こいつは体も顔も大人になったとはいえ、あの頃の幻影が見えてしまうほどの童顔だ。いや、己の中の執着がそうさせているのか。あぁいやだ、執着があるなんて認めたくない。こいつに対して、こいつにそんな特別の愛憎を抱いてるだなんて。しかも自分だけ。そんなの悔しいだろうが。
「つーか王国とかいつの話してんだよ。せめて帝国だろ」
「っせぇな……そんなに前でもねぇだろ……。大体お前最近名前変わりすぎなんだよ……数字ばっかだし……」
「ふん、まあお前には覚えられないかもね〜?」
「んだとこら……てかあんまりデカい声出すな。頭に響く」
煩わしそうにしながらも、イギリスはフランスとのやり取りを無理やり終わらせようとはしなかった。
懐かしくて、なんだか鼻の奥がツンとした。
パクス・ブリタニカなどと生意気にも呼ばれ、前しか見ずに、己のことなど眼中に無かっただろうこの男が──今はただ、まるで自分のただの幼馴染のようで。
思えば、数百年ぶりにこの男と二人きりでなんでもない食卓を囲んだ。
自然と口角が上がりそうになるのを、わざと意地の悪そうな笑みに変える。だらしない顔を見せられるわけがない。
するとソファから腕が伸びてきて、頬をつねられた。
「いった!!何すんだこの眉毛!お兄さんの美しい顔が伸びたらどうすんの!?」
「ふん、変な顔」
「ッ」
息を呑んだのは、ニヤリと笑ったイギリスに対して怒ったわけではなく、ようやく開かれたペリドットの瞳に自分の顔が映されたからだった。くそ、嬉しい、くそムカつく。もっと見ろ。昔はもっと。
国としての本能と、それ以外の何かがフランスの胸中でわあわあと喚いている。しかしそれに蓋をするのも得意だった。
「名前か……そうか……」
「……なにぶつぶつ言ってんの?てか坊ちゃん、顔離して?」
「名前、つけよう」
「何?」
なんだよ藪から棒に、そうフランスが返すと、イギリスはようやく顔を解放してくれた。
「俺には『フランス共和国』っていう立派な名前があるんですけど?」
「でもそれもどうせまた変わるんだろ?」
「うっ……いやそんな不吉なこと言うなよ!」
「お前だけじゃない。俺もそうだろ」
そう言ってイギリスは、さらに「俺たち」と言い直した。
「だから不変の名前があればいいんだ。そうしたらさっきみたいに言い間違えたりしない」
「不変って。俺たちは可変なのに?意味あるの、それ」
「知らねぇ。俺があると思えばある」
「お前ってそういえば意外とロマンチストだったね」
そう言った後に、今の発言は少し意地悪だったかもしれないとフランスは口をつぐんだ。しかし、イギリスは少し恥ずかしそうに片眉を上げたきりで何も言ってこなかった。
もしかして、この男は結構酒が残っているのかもしれない。
「『俺たち自身』の名前があれば、また戻って来れるかもしれないだろ」
「戻るって」
「ある日突然名前が変わっても、なにもかもが変わっても……その名を呼べばまた思い出せる」
「……もしかして俺の名前呼び間違えたの結構キてる?」
「お前だって、」
イギリスはフランスの揶揄いを肯定はしなかったが否定もしなかった。
「そうなんじゃないのか」
そう言ってイギリスは大きな目をフランスへと向けた。朝日に反射するペリドットはまるで新緑のようで。いつかの日、この男と出会って、遊んだ春の森の中を思い出させた。あぁ嫌だ。今日は嫌に昔を思い出してしまう。目の前の男のような懐古主義でもあるまいに。
「……まあお兄さん、ロマンチックなのも嫌いじゃないからね。飽きるまではその遊び付き合ってやってもいいよ」
「ロマンチック言うな。素直じゃないな」
「お前にだけは言われたくないよ」
フランスはそう言って、近くの二人がけのソファに座った。
「で、どんな名前にする?」
「そうだな……」
「意外と難しいな……あ、はいはい!俺思いついた!」
「なんだよ」
「アーサー」
そうフランスが言うと、イギリスはなんとも嫌な顔をした。それもそうだろう。
「なんだそのRの発音。ていうかお前ふざけてんのか?」
「ふ、ふざけてないって!」
「アーサーなんて名乗ったら、兄上になんて言われるか……!」
「お、俺しか呼ばないんだからいいだろ別に!」
フランスが勢いで言い放てば、イギリスは目を丸くした。意外な反応だった。てっきり何か殴る蹴るの暴力を受けるものだと思っていた。何かおかしなことでも言ってしまっただろうか。
「ま、まぁ実際アーサー王はかっこいいし……それに伝説についてはお前んちの詩人も手を入れてるわけだし……俺たちだけでしか呼ばないならアリか……?」
「そうだよ!いいじゃんよ、どうせ遊びなんだろ?」
「……俺は、まぁ別にいいか。じゃあ次お前な」
「おう、どんと来いよ。どんな名前付けてくれるの?」
フランスはなんだか少しだけ気分が良くなって、すんっと胸を張った。センスの無い名前を言ってきたら、すぐさまけちょんけちょんにして、それからその名前にしようと、そう言ってやろうと頭の中でシミュレーションしていた。
「もう決めた」
「おう」
「フランシス」
「フランシス……」
イギリスが口にした人名をフランスは復唱した。思っていた5倍まともな名前を言われて拍子抜けする。そうなるとさっきノリで決めた名前が柄にもなく申し訳なく感じてくる。
「ふーん……フランシスね……じゃあ俺んちだとフランソワか……」
フランス語風にアレンジをして、再度呟く。しかし、それに対してイギリスは「違う」と一言告げた。
「違うって、何が」
「お前はフランソワじゃなくて、フランシス」
「でもそれじゃ英語読みじゃん」
「どうせ俺しか呼ばないんだろ。だったら俺が呼びやすい発音でいい」
イギリスはそうやって、また可愛げのない言葉を付け足した。付け足しはしたが、自分で恥ずかしさの追い打ちをかけていることに気づいてないんだろうか。この男の感覚は出会って数百年経とうと理解ができそうに無い。今、お前はすごく恥ずかしいことを言っているんだぞ。
「仕方ないな〜。しょうがないからそれでいいよ」
「それとはなんだ。自分大好きなお前にピッタリだろうが」
「そうだね」
「……」
「ふふ、フランシス、フランシスかぁ……ふーん、お前にしては悪くないじゃん?フランシス、ね……」
これから先、何が起きても変わらない名前。錨のようなそれに不思議と心が温かくなった。たとえ人の真似事だとしても。
「アーサー」
「っ、なんだよいきなり」
「名前付けたんだから、呼び合わなきゃ意味ないだろ?」
「……っこの、調子乗るな、ふ、フランシス!」
「、痛いって!痛い!蹴るなよ、アーサー!」
足ぐせの悪いイギリスは容赦なくフランスの脛を蹴ってきた。寝る準備もしないまま寝たせいで、彼はきちんと革靴を履いている。上等のそれで蹴られると普通に痛い。
「なんか不思議だよな」
「?」
「まあ怖い。お前段々目が覚めてきたのね。まあいいや。なんか、こういのって人間みたいでいいな」
「…………」
「なんかさ、」
──友達っぽいって思わない?
フランスは思わずそう言葉にしかけてやめた。もしもそうじゃなくなった時が怖かった。そんなことを何百回と経験してきたというのに。ただ、今だけはどうしてもこの夢が続いて欲しかった。
*
そしてなんやかんやで戸籍が必要になり、咄嗟に名前が思いつかなかった二人は「アーサー」と「フランシス」のまま、なんとか苗字を捻り出して無事に公的な名前になってしまうのでした。