後何年、後何ヶ月「あの! 先生は、恋人とかいるんですかっ……!」
「恋人はいないがお前みたいな生徒は願い下げだ。二度と赤点を取るな、次は追試無しで留年させてやる」
それはもう、惨敗だった。取り付く島もない。想いを伝える前から断られてしまった。
「先生、……好きな人はいますか?」
「君は僕のプライバシーを暴いて何か楽しいのか? 大体君の『好きな人』とやらの定義は何だ?」
「その、ずっと一緒に暮らしたい人、とか……お前の作った味噌汁が毎日食べたい、とか!」
「これはまた……それは好きな人ではなく結婚したい人、ではないのか?」
「だって、好きな人は結婚したい人ですよね?」
「誰もが君のようにはいかない」
わたしにとって好きな人はずっと一緒にいたい人なのに。
「先生! わたしと友達になってくれませんか?」
「随分妥協したな。よく覚えておきなさい、友人はどこまでいっても友人だ。それ以前に生徒と友人関係を築く教師がどこにいる」
「そんなの分かりませんよ!」
「これだから夢見がちなお嬢さんの言うことは」
わたしたちの関係では、友達になるのも難しいらしい。
「先生、第一志望に受かったら褒めてくださいね」
「まぁ君は僕の生徒だ。万が一受かったのならそれなりに対応しよう」
「落ちる前提で話さないでください!」
「今の成績では奇跡のひとつも起きなければ無理だろう」
先生の恋人にしてもらうことと比べたら、受験なんて奇跡にほど遠い。
「先生、褒めなくてもいいから一度だけ抱きしめてもらえませんか」
「……僕は、君のことをもう少し聞き分けの良い生徒だと思っていたけれどね。何度も言っただろう? 生徒が教師にそのようなことを求めるものじゃないよ」
「じゃあ、わたしが卒業したら……!」
「卒業したらこんな田舎を離れて都会に出るだろう。そうなれば、いくら君でも少しは今よりまともな男と知り合いになれるだろうさ」
「そんなことない!」
「この程度で癇癪を起こしているうちはただの子どもだ。今日はもう家に帰りなさい」
一度だけも許してもらえなかった。
「先生、今までありがとうございました」
「礼は必要ない。これは仕事だからね」
「わたし、明日から生徒じゃないです。だからね先生、」
「あぁ、本当に君は諦めの悪い子だ。趣味も悪い。もうすぐ遠くへ行くんだろう。新しい生活のことだけ考えていればいい」
「わたしの好きな人は、ずっと一緒にいたい人は先生だけですよ」
「やれやれ、今までは空気を読めていたくせに、今日に限ってワガママなのか」
好きの一言ですら「伝えても意味がない」と圧力をかける先生の前では言えなかった。
でもね、先生。今日で最後だから――特別なんです。
「先生、ホントに見送りに来てくれるとは思ってませんでした。ありがとうございます」
「……君はもう生徒ではないだろう。いい加減先生はよしてくれ」
「じゃあ竹中、さん……?」
本当は、ずっと前から彼を先生だとは思ってない。
「馬鹿だな。奇跡的な合格の祝いをこんな見送り程度に使うだなんて」
「だって、」
恋人も友達にもなれない、抱きしめてもらうことですら叶わない。最後に顔が見たい、くらいは許されたっていいでしょ?
田舎の電車は乗り込む人が少ない。ガラリとした電車の前、駅のホームで向かい合う。発車まで後数分。
「もうそろそろ電車乗りますね」
「待て。遠くへ行くんだ、もう生徒ではない君に餞別をあげよう」
「えっ……」
急に引き寄せられて彼の腕の中に収まる。こんなお別れの日にあっさりと。……狡い人。酷い人だ。
――でも、それでも好きな気持ちを変えられない。
「こんなの狡い」
「何を今更、僕がろくでもない大人だということくらい知っていただろう?」
「……最後なのに、諦められなくなっちゃう」
こんなんじゃ会えなくなっても今日のことを思い出しちゃうよ。
「諦めなくてもいずれ別の恋をして忘れられる」
「他の人なんか好きにならないもん!」
「まったく、君は物好きで困った女だよ。本当に……」
先生はそう言って腕の力を強める。苦しいくらいの抱擁は、元生徒への選別にしては贅沢すぎる。
「君が生徒ではなくても、ひとまわりは歳下だということに変わりはない。歳の差は何年経っても減らないよ」
「そんなの分かってる」
「君ならもっとまともな人生を歩めるだろう。どうしてわざわざ厄介な道を選ぶんだ」
「だって、他の人じゃダメなんです。わたしは先生がいい」
「…………」
頭の上からため息をつく音が聞こえる。わたしは最後まで困った生徒で、先生に迷惑をかけている。
「逃げ道を用意してやったのに、脇見もしないか」
「……?」
「――僕じゃなきゃダメだと言ったのは君の方だ。責任は負いかねる」
急に拘束から解放された身体と、それから少し屈んでこちらに近づく端正な顔立ち。いきなり目を閉じる時間も、余裕もなく。触れるだけのそれは、ただの生徒には贅沢どころか未知の事態だった。
「せ、先生……?」
「こんな時まで先生か。よしてくれと言っただろう」
事態を飲み込めないまま、乗るはずだった電車がホームから出発していくのを見送る。
次の電車は一時間後。
「君はもう子どもでも生徒でもない。電車も逃したことだし、後一時間僕に付き合ってもらうとしよう」
手を引かれ、駅のホームのベンチに座る。まだ混乱する頭を整理しようとしてこんがらがるばかり。
わたしに分かったのは先生は想像よりも強引で、多分上品なコロンか何かを身につけていて――唇はとても柔らかいと、そんなことだけだった。
夏のはじまり 2022.6
「先生! ……じゃ、なくて竹中さん」
「まったく、いい加減慣れたらどうだ。君が僕を呼び間違えるたびに僕が通報される確率が上がる」
「通報だなんて! もう先生じゃないでしょう」
スマホをスピーカー設定にして、枕元に置きながら会話する。慣れ親しんだスタイルに、まだ慣れない呼び方。
今は遠い地元と彼に寂しくなるけど、こうして頻繁に連絡を取り合えるのが嬉しい。
「――はい。じゃあまた連絡しますね」
「あぁ分かった。寝る前に戸締りを確認するように」
竹中先生、と彼のことを呼んでいたのはもう随分前のことに思える。
もう先生ではなくなった彼と、生徒ではなくなったわたし。……今は恋人同士だと、言っていいのだろうか。
恋のはじまりは「恋人になりましょう」だけ。そう思っていた。だけどわたし達はそんなやり取りを一切していない。代わりにわたし達の間にあったことと言えば……。
「……っ!」
慌てて枕に顔を埋める。地元から旅立つ最後の日、見送りに来てくれた先生。
(もう生徒ではない君に餞別をあげよう)
(――責任は負いかねる)
もしかして夢だったんじゃないだろうか。
思い出すたび、未だに信じられない。でも随分前のことなのに一度きりの感触を覚えている。つい、こうして思い出しては自分の唇に触れてしまうほどに。
(ちょっと乾燥してるかも)
先生の、(スキンケアなんて気にしていなさそうなのに)柔らかくてカサつきひとつなかった唇を思い出してリップクリームを塗る。
ベランダに出てぼんやり夜風にあたりながら、あの日のことを思い出してしまうのだ。
「一人暮らしの女が深夜にベランダに出るなんて考えなしにも程がある。防犯意識のなさが露わになるな、藤丸立香」
「えっ!?」
人通のないマンション前の道路に、すらりと背の高い人影。街灯で照らされた影は長く伸びて、マンションに重なるほど。いや、そんなことよりも……。
「竹中先生!」
「……その呼び方はよせと言っているだろう。今日二度目の注意だ」
必死になって目を擦っても消えない。遠く離れたところにいるはずなのに、確かに間違いなくわたしの目の前にいる。
姿を認めた途端、一目散に部屋に戻って玄関へ駆け出す。
サンダルを引っ掛けて、脇目も振らず外へ飛び出す。
エレベーターが来るのなんて待っていられない! 階段を一段飛ばして駆け抜けて彼の元へ。
玄関先に彼の姿が見えて、それが幻でないと分かって心底安心する。勢いよく降りてきたから髪が乱れてないだろうか? 少しだけ手櫛で整えてから彼の元へ歩き出す。
「先生、どうして?」
「竹中、だ」
「……竹中、さん」
彼は毎回指摘してくるけど、思わず先生と呼んでしまうのだ。
「なに、ただの休暇だ。教員生活は生徒に合わせて長い休みがとれることだけが利点だな、まったく!」
「そんな、来るなら教えてくれればいいのに!」
「ただ気まぐれに旅行しているだけだ。元から計画していたわけではないよ」
仮にもわたしは恋人、だと思うのに何も知らされないなんて。来ると分かっていたら部屋をきれいにしたり、色々準備ができたのに。
とはいえやっぱり彼が訪ねてきたら、当然立ち話で終わりたくない。
「……良かったら、上がっていく?」
ほんの少しだけ、期待している。恋人が夜更けに訪問するのに、無感情でなんていられない。
「そうだな、来たついでだ。上がっていく」
「ど、どうぞ!」
「ああそれから――」
背の高い彼が少し体を傾ける。
「君はどうも用心が足りないな。気をつけなさい。……まぁ今更気をつけたところで帰る気はないが」
「!」
二人きり、誰もいないマンションの道端なのに、まるで内緒話みたいに。
密やかな声がどうしてこうも響いて聞こえるのだろう。
階段を上がっていく彼を追いかけて駆け出しながら、頭の中は彼の「気をつけろ」の意図を考えるばかり。段差に躓きそうなほど動揺していた。
……彼は連絡なしで来た割に結構迷いなく部屋に上がる。大きな靴と私のパンプスが隣同士で並ぶ。
「インテリアを気にかける暇くらいはあるようで結構だ」
部屋を見回しながら彼は言った。想像よりもずっと良い評価。
「ちょっと待っててね、今飲み物を……」
「いや、お構いなく。もう帰る」
「えっ来たばかりなのに!」
直接会うのは久しぶりだ。夜遅いけど、お茶を飲みながら少し話すくらい良いじゃないか。
勝手にやってきて、勝手に帰ってしまう。久しぶりの再会でもそっけない。
こんな時、お別れの日に彼がくれた餞別が夢だったのではないかと思うのだ。
「先生、あのね……ずっと聞きたかったことがあって」
せっかく想い人を家に招いたのに、二人して腰も落ち着けずに向かい合っている。
「先生のことが好きです」
「もう知っているよ」
二度目の告白にあっさりとそう返すのだ。先生らしいなとそう思っている。でも、今日は後もう少しだけ。
「……それで、先生も。そうだと思ってるんですけど! だから……」
――わたし達って、恋人同士、なんですか?
一息に吐き出して、声が少し震えたのに気がつく。
「君はこんな時間に部屋へ上げておいて恋人の自覚もないのか? それに先生と呼ぶな、何度も言っているだろう! 君が生徒なら僕はわざわざこんなところまで来ていない!」
早口で彼が一気に言い切った。
「無論だ。恋人同士に決まっている!」
少しの迷いもなく、断言された。
じわじわ、彼を恋人と思って良いのだと頭が理解する頃には部屋に二人きりなのが居た堪れなくなるほどで。
「自覚のなさは今更だが、まさかここまでとは。通りで君はそんなあられもない姿で表まで出てこられるわけだ」
「? ……あ!」
シャワーを浴びて、もう少しのんびりしたら眠ろうかというタイミング。明らかに外には出られないルームウェア。
「君の目の前にいるのはただの男で、さらに言えば君の恋人だ。その格好で部屋に上がっていけと言うのだから当然、自覚があるものだと思っていたけれどね」
今更ルームウェアが可愛いワンピースに変わるわけでもなし、どうしようもない。ただ気になって、カーディガンを羽織ってごまかす。
「あまり油断をするものじゃない。僕に余裕があると思っているのなら改めた方がいい」
それだけ言うと、彼は満足したように玄関へ向かってしまう。
つい、彼のシャツの袖を捕まえて止めたのはほとんど反射的なものだった。
気をつけろと言われたこと、余裕があると思うなという警告なんて、咄嗟の時には役に立たない。
ただ、恋人だと言われたから。
普段はなかなか会えないのだ、せっかく目の前にいるのに。
「あと、もう少しだけ……!」
生徒だった時から彼を困らせてばかりだ。分かっている。でも、顔を見て話すのは本当に久しぶりだから。
彼の方をまともに見られないまま返事を待つ。けれどいつまで経っても言葉は返ってこない。
「竹中さん……?」
恐る恐る、顔を上げる。苦虫を噛み潰したような顔。とても恋人に一緒にいたいとねだられた人の顔じゃない。
「――そういう台詞はもう少し自覚が出てから使いなさい。あぁそれからベランダの窓の鍵を閉めるように。防犯意識のない部屋だと分かれば狙われる」
「え、あの……!」
「暇なら明日にでも。……おやすみ」
「あ! ちょっと、先生!」
目にも止まらぬ早さで去っていく彼を二回も引き留めることは出来なかった。
(こ、恋人だって言ったくせに……!)
あんなにそっけなく、早足に帰る必要ないじゃないか。そんなにそっけなくしなくたって。
(――無論だ。恋人同士に決まっている!)
……いや、そっけないというほどではなかっただろうか。
一瞬の訪問にまだ気持ちが揺れている。
「恋人」の出ていった玄関からまだ目を離すことはできない。
顔の火照りがおさまらないまま、彼の旅行について確認しなくてはとスマホを手に取る。
――夏休みの真っ只中。
慌ただしい数日間の幕開けだった。