幻想世界で息をする「アンデルセン! ……あれ、いないの?」
部屋に遊びに来てみれば部屋の主人はどこかに出かけてしまっている。
「この時間なら部屋にいると思ったんだけどなぁ」
ここにいないのなら食堂だろうか。すぐに戻ってきそうだし、ここで待っていた方が良さそうだ。お気に入りのソファに座って、勝手に本でも読んでいればすぐだろう。
「あっ」
いないと思った当人はソファに横たわって眠っていた。ーー音を立てたけど、まだぐっすり眠っている。サーヴァントは夢を見ないと言うけれど、起きている時よりも穏やかそうな表情。透き通った水色の髪と相まってまるで御伽噺の王子様。それこそ童話から飛び出してきたみたい。
「いつもこういう顔してればいいのに」
……でもあんまり他の人に見惚れられたら困る。やっぱり今のままでいいや。
こんな風にじっと観察して何も言われないチャンスはなかなかない。本人は「どこにでもいる男だ」なんて言うけれど、そんなことない。
まつ毛が長い。髪の毛は寝癖がついて変な方向に曲がっている。小さく呼吸を繰り返す桜色の、唇。
(すごく、柔らかそうだな……)
勝手に触れて咎められるような関係ではない。第一、誰も見ていない。目の前の彼ですら、今は目を伏せている。
そっと指を伸ばして、けれど触れるのは何だか気恥ずかしくて頬に行き先を変える。指先に当たった肌はぷにっと、もちっとする。化粧水なんかもろくに使ってない肌がこんなに綺麗で柔らかいなんて不公平だ。唇はもっと、柔らかいんだろうか。
もう一度あたりを見回す。誰もいない。彼の様子を見る。……まだ夢の中。
顔を近づけてこっそり触れても誰も、気がつかない。触れるまであと、もう少し。
「『はじめて』が夢の中だなんていくらか情緒が足りないな。観察力もない」
「ん!」
少しずつ近づいていた距離が一気に0になる。びっくりして身を引きかけて、頭をがっちり押さえられていることに気がつく。ただ触れるだけのそれがどのくらいの時間だったか、分からない。
「な……なにして」
「自分のことは棚に上げて苦情のタレ込みか? それは俺の台詞だ。俺に夜這いをかけておきながら何か文句があるのか?」
夜這いだなんて、とんでもない。そんな風に言われるほどのことはしていない。それに、文句があるのかと聞かれると。
「文句は、ないよ……驚いただけで」
けれど、改めて触れ合ったばかりの唇にどうしても意識がいってしまう。
「まったく、そんなに気にするなら最初から仕掛けなければ良いだろう。やる時はやられる覚悟をしてからにしろ」
鼻で笑って吐き捨てるように言う。どうしてこんなに余裕があるんだろう。恋愛経験はない、はずなのに。
でも情緒が何だと色々言ったくせして、今は良い雰囲気も何もあったものじゃない。こんなだからこの人はモテないのかもなぁ。
「……そっちこそ、情緒なんてないでしょ。はじめて、なのに」
「そんなもの、数が増せばどうせすぐに気にならなくなる」
訂正、こんなだからこの人はモテないに違いない。ーーモテない方が、私には都合が良いけれど。
「それはそうと」
「何?」
「……はじめは目を閉じたりするものじゃないのか」
情緒なんてカケラもないキスをしておいて、照れながらこんな質問をするのは何なんだろう。そんなの、ずるい。
「知らない! そんなの数が増えれば気にならなくなるんでしょ!」
ムキになって言い返す。目を閉じるかどうかなんて、考える余裕がなかった。
「まぁ、それは別にいい。お前の希望通り数でごまかすとしようじゃないか」
ちょっと、まるでわたしが何回もしたいって言ったみたいな言い方するのやめてよ!……そう言ってやろうと思ったのに。
するりと顎にしなやかな指が触れる。丁寧に指が滑るものだから、最初からこうしてくれれば情緒がどうとかそんな話しなかったのに、と思う。けれどこちらを見つめる表情に熱がこもっているのを見て、何も言い返せない。
童話の王子様なんて似ても似つかない目の前の彼に、結局数でごまかされてしまうまであと数分。やっぱりわたしはいつまで経っても彼には勝てずに負けてしまうのだった。