奥様一年生未満「ご主人様、お待たせいたしました」
淹れたてのコーヒーは屋敷の主人のお気に入りの豆を挽いたばかりの粉で淹れた特別なものだ。数時間おきに呼ばれるたびに豆を挽いて、粉を量って丁寧に抽出する。
……ここまで用意をしていても、ご主人様は別にコーヒーにこだわりをもっていないことはもうとっくに知っている。
彼はわたしと会うために、コーヒーを頼んでいるのだ。
「ああ、来たのか藤丸」
「ご主人様、仕事中にこんなに頻繁に呼ばれたら困ります!」
「何を言っている? これもお前の仕事のうちだろう。俺の身の回りの世話がメイドの仕事だ」
「そ、そうは言っても……」
この屋敷では彼の命令が絶対だ。だけど、こんなに頻繁では困る。
ご主人様に呼ばれているとコーヒーを淹れるたびに、みんなが生暖かい目でこちらを見ているのだ。あまり呼びつけられると恥ずかしい。
「何だ、俺に休憩も取らずに働き続けろというのか? お前を呼んでも構わないように根回し済みに決まっているだろう」
「もう、ご主人様!」
みんなのあの視線は、そういうことか……!
「それにお前にはメイドの仕事以外にも、これから覚えることが山のようにあるだろう。俺と会話をしているこの時間も、お前にとっては学習のひとつだ」
結婚すれば屋敷の奥様になるのだ。
勉強しなくてはならないこと、覚えなければならない作法……色々な予定が詰められている。
「学習のひとつって一体……」
「忘れたのか? 妻としての振る舞い方を学べと言われているだろう。減点するぞ」
「な、なんですか妻としての振る舞いって!」
「マイナス十点。敬語は必要ない」
「ご主人様!」
「……また減点されたいのか、立香」
「っ!」
彼はメイドの藤丸ではなく、婚約者の立香を呼んでいるのだ。けれど名前を呼ばれるのは、どうもまだ慣れない。
「ほらどうした、妻は使用人じゃない。『ご主人様』じゃあないだろう? ふたりきりの時はもっと適切な呼び方がある。正しく呼べるだろう?」
「……アンデルセン」
この呼び方は慣れない。
ずっとご主人様だったのに、こんな風に呼ぶなんて。
「やれやれ、仕方のないやつだ。自然に呼べるようになるまでは時間がかかりそうだな」
「そ、そんなこと言われても!」
「練習が必要だという名目でなら、いくらでも呼びつけられる。俺には、都合がいいが……」
そんな、たくさん会いたいみたいなことを顔色ひとつ変えずに言うのだ。
一度でいいから、少しくらい余裕のなさそうな彼の顔を見てみたい。私はこの人の奥様になるのだから。
そう思って素早く隣に寄り添って、頬に口づけを落としてみる。婚約者なら、これくらいしたってバチは当たらない。唇以外への口づけは、挨拶でもあるのだから。でも少しくらいはドキッとしてくれるだろうか。
「…………」
いつもおしゃべりな彼だから、何か言われると思っていた。それなのに黙ってしまうから、わたしもつられて何も言えなくなってしまう。
「立香……」
「は、はいっ!」
しばらく続いた沈黙の後、いきなり話しかけられて声が裏返ってしまった。
「こなれてきたな。俺が少し過保護だったかもしれない。何にせよ良い傾向だ」
「あの……どうして肩を、」
彼が横からわたしの肩を掴むから、身動きが取りづらい。
「ーー黙って、目を瞑っているだけでいい」
「!」
そう言って、わたしの顎を掬って固定する。
わたしは容赦なく近づく距離と、明らかに唇を狙う動きに……あまりの緊張に耐えられなくなって、目なんて黙って瞑っていられない。
そうして、彼の唇を両手で押さえて止めてしまう。
「何故とめる……」
邪魔をされた彼は機嫌が悪そうだ。
だけどわたしにだって言い分がある。
「け、結婚前なのに! そういうふしだらなことはしませんっ!」
「おい、何がふしだらだっ……!」
赤くなった顔も、上がった体温も冷ますことができないまま、彼を置いて慌てて部屋を後にする。
(どうしよう、勝手に部屋を出てきちゃった……!)
あんな触れ合いは今までに経験がなくて、あまりにも突然のことだったから。
だって、いつもニ人で過ごしても、隣で話をするくらいがせいぜいで……あんな風に触れられたことはなかったのだ。
半ばパニックを起こしていたに近い。婚約者の行動としては、失格もいいところ。こんなことで奥様になんてなれるのか、心配になるくらいだ。
冷静になって熱が冷めた後に、自分の散々な言い分に葛藤しながら……結婚したら毎日あんなことが起こるのかと勝手にドキドキし始めてしまう。
ーーそれからさらに、数時間後。
本気を出した彼がわたしの自室まで乗り込んでくることを今のわたしはまだ知らないのだった。