七月 志摩誕のお話
「ねえ、ここ座っていい?」
ラーメンを啜ったところで頭上から聞こえた声に、勝呂は視線をそちらへ向けた。昼時の食堂はざわざわと賑わっている。そんな中立っていたのはかつての同級生、そして現在の同僚である神木だった。
「ええで」
空いている席を探すのが面倒なのか、空いていなかったのか、勝呂からすれば別にどちらでもよかった。普段一人で食事をする際は窓際の横並びの席を取るのだが、そこがいっぱいで仕方なく二人掛けの席で食事をとっていただけだったのだ。
神木はありがと、と一言紡いで正面の席に腰を下ろす。特に雑談をすることもなくいただきますと言った彼女の今日の昼食はパスタのようだった。
「ああそうだ、あんたに会ったら言っとこうと思ったんだけど」
唐突に神木がそう紡げば、勝呂は食事に向けていた意識を半分目の前の同僚へと向ける。
「あんたんとこの。来月誕生日なんやけどってうるさいのよね、どうにかしてくれない?」
「あー……、神木んとこまで行っとるんかアイツ」
即座に志摩の顔が浮かんで、勝呂は苦笑した。今は六月の下旬、来月になればすぐに志摩の誕生日がやってくる。あいにく当日は仕事で丸一日空いているというわけではないが、翌日は二人とも休みだった。
「今年は何するか決まってるの」
鬱陶しいと言いつつも、何だかんだ神木がこの手の話が好きなことは知っていた。話を振られたのだから多少はいいだろうと、勝呂は悩んだ末に顔を上げた。
「なあ、神木は誕生日何してもらうんが嬉しい?」
「はあ? 何よ藪から棒に……もしかして何するか決まってないの?」
神木は唐突に問いかけられてぱちぱちと目を瞬いている。そう尋ね返せば図星だったのか勝呂は眉間の皺を寄せて小さく唸っていた。
「毎年渡しとるとレパートリー無くなんねん……」
本人に欲しいものを聞いたところで、特に思いつかなければ何でも嬉しいと答えるのだろう。本人に聞けばと勝呂に聞かずとも容易に想像ができた。神木はパスタを口の中で咀嚼しながら考える。誕生日、恋人にされて嬉しいことは何だろうか。
「……ていうか、それあたしの答えじゃ参考にならないでしょ」
飲み込んでから、はたと気付いて呆れた口調でそう告げる。対して勝呂は真面目な顔をしていた。
「いや、なんかそっからヒントあるかもしれへん思うて。お前そういうの好きやろ」
「……あたしをいいように使わないでほしいんだけど」
まあ、と神木は続ける。思いついたことが無いわけではなかった。
「別に物をあげるだけが誕生日じゃないと思うし、旅行に行くとか、ちょっといいディナーに行くとか、そう言う普段はできない特別なことをするのでもいいんじゃない? 手元には残らなくても、思い出としては残るでしょ」
あたしたちももういい大人だし、そう神木はそう言って付け合わせのスープに手を付ける。
「あー……なるほどな」
勝呂は神木の言葉に小さく頷いて、口元に手を添えながらなるほどなあ、ともう一度呟いた。
物をあげることばかり考えていたため、何か特別なことをすると言うのは勝呂にとって目から鱗が落ちるようだった。旅行は日程的に難しいかと思う反面、翌日二人とも休みということも考慮すれば仕事終わりに志摩を引きずって近場で一泊するのはありかもしれない。そう思い始めていた。
真剣な様子で考え込む勝呂を見ながら神木はちらりと視線を少し奥へと向ける。しばらくじっと見つめていれば、その視線に気付いた男はない尻尾をこれでもかと振って近付いてきた。
「まあそうは言っても日も迫ってるし、計画するのも大変じゃない? もう面倒くさいし、何がいいか本人に聞けば?」
「本人?」
本人、神木がもう一度繰り返して勝呂の後ろを指差せば、勝呂もそれを追って後ろを振り向く。
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン! 志摩さんどすえ~」
両手をひらひらと振りながら現れたのは、話題に上げていた志摩だった。コンビニで買ったパンを片手に話し相手を探していたところに、神木の視線に気付いて嬉々としてやってきたのだ。
「え、なになに、志摩さんに何聞くて~?」
へらりと笑いながら二人の顔を交互に見て首を傾げる志摩に、神木が続けて口を開く。
「だからあんたの――」
「神木待った」
誕生日のこと、と口にする前に勝呂が神木の言葉を遮った。遮られてぽかんとしている神木を一瞥して緩く首を振る。
「もうちょい、自分で考えるさかい。言わんといてくれ」
「……まあ、あんたがそういうなら」
むぐ、と開いた口を噤んで神木は小さく頷く。二人の会話に置いてけぼりな志摩はきょとんとした後で口を尖らせた。
「え~なに~? 二人で内緒話しとるんずっこいやん~教えてえや~」
片手でゆさゆさと勝呂の肩を揺らす志摩に、勝呂ははあ、とため息をこぼす。
「ひつこい、俺はもう休憩終わるしここ座ってええで。どーせ話し相手欲しかったんやろ」
「あ、坊正解~、てちょっと!」
食べ終えた食器を持って勝呂が立ち上がれば、ぶーぶーと文句を言いながらも空いた席に志摩は腰を下ろす。神木はまだ食べている途中で、あれ、と首を傾げた。
「ねえ、それあたしがコイツの話し相手になるってこと? 嫌なんだけど」
勝呂は話聞いてくれておおきに、と神木の主張を無視して礼だけ述べてその場から離れていく。
「出雲ちゃん殺生な~おしゃべり付き合うて~」
残された神木は、今度はメソメソと騒がしい男が目の前に座ったことで大きくため息を吐いた。
「ふふ、で、出雲ちゃんは坊と俺の誕生日のこと話しとったん?」
志摩とのおしゃべりには付き合う気がないとでも言うようにツンとしていた神木も、志摩のその言葉には目を丸くした。
「は⁉ あんた聞こえてたの⁉」
目論見通り反応を示す神木に、志摩はへらりと笑みを浮かべる。
「いや全然。でも坊が俺に内緒にするっちゅうことはそれかなあて。時期的にもそれしか考えられへんかったし~。で、図星?」
「……言わないわよ、あたしは」
それ以上聞くなという意味を込めてふいと視線を逸らせば、志摩はまた泣き真似をしながら出雲ちゃんのいけず~、と情けない声を出していた。何はともあれ、聞こえていないのであればよかったと神木は少し安堵する。言わないでと言われたのが台無しになるところだった。いや別にあたしには関係ないけどと素知らぬふりをした。
志摩よりも一足先に仕事を終えて帰ってきた勝呂は、ソファに体を沈めて端末を取り出す。アプリを開きっぱなしだったそこには宿泊施設の予約サイトの画面が映っていた。
「……どないするか」
目的は平日の一泊、目的の部屋の空室状況はまだ〝○〟が付いていた。神木に相談してからもさんざん悩んで既に三日が経過していたが、もう時間もないのもまた事実だった。ふう、と一度気持ちを落ち着けるべく一息ついて瞳を伏せる。ここを予約したらそこに行きつくまでのシミュレーションと、そこでの過ごし方、そしてチェックアウトしてからどうするかを考えているうちに勝呂の眉間は徐々に寄っていく。
「思い出、なあ」
志摩と過ごすようになって色々なところに行った記憶もあるし、そのどれもが思い出として残っている。志摩に覚えているかと問えば恐らく朧気だろう。別にそれでも文句はないが、そうなると今やろうとしていることも果たしてプレゼントとしての効力はあるのだろうか、志摩の中で思い出として残るのだろうかと疑問に思う。思い始めてしまう所為で、予約確定のボタンを押す手を躊躇ってしまっていた。
翌日も仕事であれば大人しく食事にでも連れ出そうと思っていたのだが、休みなおかげで選択肢の幅が広がる。遠出はできずとも都内にだってそれなりにいいホテルはたくさんあるし、逆に都内だからこそ普段泊まろうという発想にならない。
「……まあ、いうて結局自己満足か」
本人の望むものではない限り、結局は志摩に喜んで欲しいからと思って選びはするものの、本人が本当に喜んでいるかはわからない。実際に喜んでいるとは思うが、勝呂は時折自信がなくなる。志摩と過ごすようになって長くなるが、果たしてこの先も続くのだろうかと。志摩であれば女性の一人や二人、すぐに交際相手として見つかるだろうし、きっとこの先、もしもこの関係に終わりが来るとするなら志摩にフラれる時だろうと勝呂は思っていた。
(俺はもう、あいつのこと手放せへんし)
ソファの背に凭れて息を吐き出すと、画面の上部に通知が入る。志摩だった。
『今駅着きました~腹減った~』
『なんや買うてくもんあったら今のうちに』
そう並ぶメッセージに既読をつけて、特にないから真っ直ぐ帰ってこいと返事を送る。それにすぐ既読はついたが、返事がこない。これは寄り道するつもりやなと思いながら、一度そのチャットを閉じる。するとそれとほぼ同時に着信の画面に切り替わって、勝呂は僅かに驚いた。
ディスプレイに〝志摩廉造〟と並ぶ文字を見て、眉を寄せながら通話ボタンをタップする。
「……なんやねん」
『ぼ~ん~、俺今コロッケの口なんですよ、コロッケ……』
通話が始まるや否や、急に志摩は話を切り出す。勝呂の予想は当たっていたようで、つまるところ、コロッケを買いたいから寄り道して帰ってもいいかというお伺いだった。別に子供ではないのだから何も言わずに買ってきてしまえばいいものを、志摩はそれはせずにわざわざ電話をかけてくる。それは最早、わざわざ小言を言われるために電話をかけてくるようなものだった。勝呂はスピーカー越しの弱弱しい声音になんとも形容し難い気持ちにさせられる。
「……ふは、」
「えっ、笑うとこありました今⁉」
唐突な笑い声に、志摩は電話の向こうで驚いた声を上げている。勝呂もどうして自分が笑ったのかよくわかっていなかった。それでもただ、志摩がいつものように話してくることがなぜだか安心したのだ。
「いや、なんもない。で、なんやっけ? コロッケの口がどーとかって」
『そう、あんな、今日昼飯んときにコンビニのコロッケ買お思たんやけど……』
志摩はコロッケの口である理由をつらつらと述べ始める。聞けば大したことではなかった。志摩が買う直前でコロッケが売り切れてしまって、準備ができるまで待てる時間もなかったので泣く泣く諦めた所為でどうしてもコロッケが食べたいのだと言う。
「……うんまあ、何でもええんやけど」
『ちょっ……俺の必死のプレゼンの意味は⁉』
スピーカーの奥で声のボリュームを上げた所為でびりびりと音割れがしている。うっさ、と小言を紡いでから勝呂は言葉を続ける。
「昼にコンビニコロッケは別にええけど、今買うならスーパーのやつにしぃや。六個くらい入って安いやつあるやろ」
『ふふふ、そう言われる思うて志摩さん今スーパーに居ります、ほめてください。この時間やと惣菜安なっとるからな~』
得意げな様子の志摩のほめてくださいに関してはひとまず無視をして、ああでも、と勝呂は今日の夕飯を頭に思い浮かべる。
「昨日のカレー温めるから、それのトッピングになるけど」
『あ! せやカレーありましたね、ええやん豪華や~』
うきうきとしている様子が声音から伝わり、勝呂は自然と口元を緩めた。
「ほなそれで。あと残りはコロッケサンドにでもするか……、パン冷蔵庫入れてもーてるし、ついでに新しいの買うて来てや」
『やったあ! 了解です~、ほなそれ買うてさっさと帰りますね』
気ぃ付けて帰りやと言いながら通話が切れれば、騒がしかった室内も途端に静かになる。それでも、勝呂は薄く笑みを浮かべていた。