空から降る銀の雪 ー大学1年12月ー カレンダーが十一月から十二月へ移り変わると同時に、季節は一気に冬を色濃く映し始めた。
街はクリスマス一色になる。
快斗は先月から数えて五度目になるクリスマスパーティーへの誘いを断り、次の講義へと移動していた。大学の中でも指折りの広さを誇る階段教室。一歩足を踏み入れた瞬間、大きく手を振る姿を見つける。
「快斗、こっちやこっち!」
遠慮のない大声に他の生徒までが振り返った。苦笑しつつも呼ぼれるままに平次の隣へ腰を下ろす。平次を挟んだその隣では、新一が小説の世界へ飛び立っているようだ。
「もう部屋片づいたんか?」
「まぁね」
快斗が生家を出てまだ数日。特に問題もなく、上々のスタートを切っていた。
「せやけどお前の母ちゃんもワイルドやな。一人で世界旅行やろ。なかなか出来るもんちゃうで」
「オレもよく驚かされる。でもワイルドって言えば新一のお母さんのが凄そう」
あの日、有無を言わせぬ笑顔で母を連れ去った有希子のことを思い出す。
「確かに、って──あれ? お前、工藤の母ちゃんに会ったことあったか?」
思わず噛み締めるように言ってしまったが、これは失言だ。
「だって有名じゃん。新一の両親って」
「あー、そりゃそうか。あれだけのバックグラウンドを持つ親なんて、そうそうお目にかかれるもんちゃうよな」
素直に納得してくれた平次に、快斗は内心胸を撫で下ろした。『快斗君』と呼ぶ無邪気な笑顔には、当分お目にかかりたくない。すると小説が一段落ついたのか、顔を顰めながら新一が顔を上げた。
「……お前らなぁ、人の親を話のネタにすんな」
不機嫌そうな新一から慌てて視線を外すと、平次は白々しくも話題を変える。
「そういえばお前パーティーの誘い、ことごとく断ってるんやて? こないだ泣きつかれたわ」
ゲッと口をへの字に曲げて、快斗は仰け反った。
「服部にまで話行ったのか?」
「なんで行かんのや?」
「いや、別に。ただ何となく……つか、そういう二人こそクリスマスどうすんの?」
快斗の問い返しに、平次と新一はチラリと目を合わせる。
“なんだったらオレんとこで集まって過ごすのもいいんじゃね?”
その様子に言葉を飲み込むと、僅かに眉根を寄せながら新一が口を開いた。
「オレら毎年クリスマスは事件で終わっちまうことが多くてな。予定入れないことにしてんだよ」
「祭り事がある時は、なんやかんやと忙しなるから」
困るよなぁ──なんて顔をしながらも、どこか浮き足立っている二人を呆れるように見つめた。
(推理バカが二人……)
結局二人とも謎解きが何より好きなのだ。別にどうしても三人で過ごしたかったわけではないが、こっそりと拗ねる快斗であった。
そうして十二月も半ばを過ぎるといよいよ助走がつくのか、探偵二人が大学に姿を現わすことはめっきり少なくなった。楽しい話題と平行し犯罪が急増するのは世の常である。
「つまんねー」
いくら拗ねてみたって現状は変わらない。張り合いのなさに溜息を吐きつつも、同じ講議を取っている探偵達の為にせっせとノートを取り続ける毎日てある。
そして『快斗へ メリークリスマス 』と、たった一言が添えられたカードとプレゼントが届いたのは十二月二十四日のことだった。
「……ったく。今どこにいるだとか、元気にしてるとか、そういうことは書けねぇかな」
文句を言いつつも、丁寧に包装を剥がしていく。そこには芥子色の柔らかい肌触りをしたマフラーがあった。行方不明とそう変わらない母からのクリスマスプレゼントに、「仕方ねぇな」と快斗は苦笑したのだ。
結局はイブも含めたクリスマスをマンションで過ごすことに決めた。よくよく考えてみれば、この時期はいつも色んな意味で忙しくてゆっくり過ごすことなどなかったのだ。
「まぁ、こんなのも悪くねぇな」
窓ごしに広がる空は、どんよりとした厚い雲に覆われている。雪が降るかもしれないとゆるく笑みを浮かべて、手の中にある柔らかなマフラーの感触を楽しんだ。
深夜0時を過ぎる頃──予想は見事に当たって、暗い空からひらひらと白い雪が舞いはじめた。
デパ地下でいつもは買わないような惣菜を買い、夕食は早々に済ませている。風呂にも入ってあとは寝るだけだが、もう少しだけゆっくりするかと簡単なつまみとシャンパンを手にラグへと腰を下ろした。テレビも音楽もかけず、文字通り静かなクリスマスを満喫する。そこへ静寂をうち破るインターホンが鳴り響いて、ギュッと顔を顰めた。
「こんな時間に誰だ……?」
若者の多い単身者向けのマンションだ。おおかた酔っ払いが部屋を間違えでもしたのだろう。不機嫌さを隠しもせずに深夜の訪問者を確認した瞬間、快斗は息を呑んだ。
「新一」
モニター越しでさえもいつもの生彩さは感じられず、一目で何かが起こったのだと知ることが出来る。慌ててドアを開くと、新一は顔上げてゆるく笑みを貼りつけた。
「よぉ。今、いいか?」
口元は弧を描いていても、こちらを見る目はどこか虚ろだ。まるで以前と真逆じゃないかと、快斗は腕を伸ばして大きく扉を開いた。
「入って」
すれ違い様、つんと鼻に刺激を感じる。
「飲んできたの?」
「ん? ああ、ちょっとだけな」
ウソだ。ちょっとなんてもんじゃない。きっとここに来るまでに大して強くもない酒を煽ったんだろう。
鍵を閉めて部屋に戻ると、新一は立ったまま窓から雪を眺めていた。けして広くはない細い背が暗い何かを背負っているように見えて、快斗はふいに湧き起こる抱きしめたいという欲求に動揺する。
抱え切れないほどのものを取りこぼさないようにと必死だった──いつかの自分が重なったのだ。どんなことがあろうと現実から目を反らさずに向き合って行くと決めていたけれど。時には蹲ってしまいたくなる。知らずぬくもりを求めてしまうこともあった。だが新一は素直に甘やかされることを望んではいないだろう。
快斗は何も気づいていないふうに腰を下ろし、シャンパンのボトルを手に取った。
「ちょうど一人でクリスマスしてたところなんだ。新一、付き合ってくれる?」
「なんだ、結局どこにも行かなかったのか?」
「うん、今のオレにはこのくらいが丁度いいんだ」
「今の?」
「そそ、今のオレにはな」
グラスに注いだシャンパンを渡そうと新一を振り仰いで、思わず目を細める。
(……ッ。なんて目、してんだよ)
意図などしていないのだろうが、蒼い瞳の奥がすがるように揺れていた。ぎゅうと心臓が締めつけられる音が聞こえるようだった。
「サンキュ」
さらに腕を伸ばしてグラスを受け取らせると、新一はようやく腰を下ろす。
「あんまり飲み過ぎんなよ」
「んだよ、オメーが出したんだろ」
念の為にと釘を刺せば、拗ねた目にじとりと睨まれた。酒が入っているせいか、いつもより少し言動が幼く感じる。
「そうだけどさ。ほどほどにしとけってことだよ」
「わかってらぁ」
「ホントかよ」
「うっせーよ、ほら」
細かな泡が反射してキラキラとひかるグラスを軽く掲げられ、苦笑いを浮かべながら乾杯に応えた。静かな部屋にカチンと高い音が響く。
「メリークリスマス快斗」
「メリークリスマス新一」
最初にぽつりぽつりと交わした会話もやがてなくなり、静かにグラスを傾ける時間が過ぎていく。
どんなに酒を入れたところで、思考を奪うほど酔うことができないのたろう。たとえどんなに傷ついたとしても、戦わなければいけない時がある。その覚悟がどういうものかを、快斗はよく知ってた。
「なぁ、どうしてオレのとこに来たんだ……?」
唇を動かさずにささやくようにつぶいた言葉は、新一の耳にはっきりとは届かない。
「………なんか言ったか?」
「いんや、べつに」
「んだよ、わかんねぇよ」
何でもないよとわかりやすく誤魔化せば、新一はふは……と笑って横になってしまった。
「かいと」
「うん?」
「………ぁんで、こんな寒いんだろな」
「え、寒い?」
新一がやって来た時から部屋の温度は上げている。酒で体温があがっているにしても適温なはずだ。風邪を引いているふうにも見えないことから、それは体感的なものではないのだろう。閉じかけている目尻が、少し濡れているように見えた。
「………さみぃ」
丸くなる新一を、静かに見下ろす。
一人で抱えきれない荷物を持て余してしまった時、自分はどうしていたっけ。
(ああ、そうだ。むかし親父に連れてってもらった、なーんもない野っ原に行ったことがあったっけか)
ちょうど寒波が列島を覆った日で、凍るほどの冷たい風が何度も身体を撫でていった。あのころ新一と出会っていれば、自分も向かう場所が違っていただろうか。
己を抱き締めるように横たわっている新一の髪をそっと撫でる。
「疲れたんなら、少しだけ休めばいい」
過ぎたぬくもりは辛くなるから、抱き締めてはあげられないけれど。
「………んきゅ」
小さな小さなつぶやきとともに、新一の身体から力が抜けていった。後には穏やかに繰り返す小さな寝息。
(あの時、新一に出会っていたら……きっと向かう場所は違っただろうな。そばに行かないまでも、遠くから見ていたような気がする)
凛と立つ、その姿を求めて──。
決して強くはないから、常に気丈ではいられない。でも温かすぎると今度は立ち上がれなくなってしまうから。こうして存在を感じられるくらいがちょうどいいのだ。
眠る新一を毛布にくるんで抱き上げる。見た目以上に軽い体躯は、すっぽりと腕の中におさまってしまうほどだ。
ベッドに寝かせて首元までしっかりと布団を被せる。アルコールが入っているにもかかわらず白い頬を、指の背でそっと撫でた。
「とはいえ……こんな無防備な顔見せられたら、守りたいって思っちまうだろ。なぁ、名探偵」
深入りはしないだなんて、よくぞ出来ると思ったものだ。心を占める割合が日増しに増えていくことに戸惑ってばかりだというのに。
「今日はぐっすり寝ちまえ」
心に巣食う毒を消すことは出来ないけれど、自惚れじゃなく自分なら眠る新一を危険から守ることは出来るだろう。それがたとえどこかの組織の残党だとしても。
「安心しておやすみ、新一」
♢
翌二十五日の朝は快晴。澄み渡る青空の下を颯爽とバイクで訪れ、マンションの扉を潜るもう一人の来訪者の姿があった。
「朝から押し掛けてすまんかったな」
「いや、来るかなと思ってた」
浮かない顔でソファに腰を下ろした平次へ、珈琲カップを渡しながら快斗は笑いかける。
「昨日は別々の事件に行っとったから、朝に話聞いて慌てて出てきてん。家に行ってもおらんし、一瞬焦ったけど……お前んとこ来とってんな」
「うん。深夜に突然」
「そうかぁ」
はぁっと盛大な溜息を吐きながら、平次は立ち上がって寝室のドアをそっと開けた。余程疲れていたのだろう。ふとんの山が動くことはない。
馴染みの刑事から、新一が犯人の親族にかなりの暴言を吐かれたと聞いた。当の犯人も自害しようとしたところを寸でのところで止めることに成功したが、命に別状はないまでも重症とのこと。
探偵なんてものをやっていれば珍しい話ではないけれど、決して慣れるものではない。
(工藤のことやから、一睡も眠らんと一人で耐えてるとばかり思てたけど。そんな時に会いたい思えるほどの関係になっててんなぁ…)
振り返れば、静かにカップを口元へ運んでいる快斗が見える。
「よく眠ってるだろ」
「ああ、そうやな」
起こさないようドアを閉め、元の場所へと戻った。胸の奥で何かがチクリと刺さって、内心で首を傾げる。
「夜中うなされたりしてへんかったか?」
「心配でついてたけど、一度も目を覚してねぇと思う。安定した寝息だったよ」
平次はとうとう言葉にならない呻き声をあげて頭を抱えた。
「え? なに? なんかヤバかった?」
慌てる快斗をギロリと睨み上げる。
「……お前ってヤツは、平然とぬかしよってからに」
「へ?」
「オレでも入れてもらえんかったとこに、あっさりと受け入れられたっちゅーことや」
チクチクと痛む胸の正体は嫉妬だ。肩を並べる一番の友でありたいと思う男の心に、するりと自然に居座ってしまった新しい友へ対するヤキモチ。
それでもどこかホッとしているのも真実で。
平次は震える息を一気に吐き出して顔を上げると、真直ぐに視線を合わせた。
「服部? どういうことだよ」
はっきりしない平次の態度に快斗は戸惑うばかりで、自分がどれだけ凄い位置にいるかをわかっていないようだ。
「このニブチン。お前が工藤の特別になったってことや!」
どんな時でも直球勝負の平次は、思いをそのまま言葉に乗せる。
「……はぁ?」
快斗はポカンと口を開けたまま固まった。頭の中ではグルグルと返す言葉が羅列されているのに、結局はそのどれも口にすることは出来ない。
「なんや複雑な気分ではあるけど──まぁ、喜ばしいのは確かや。お前に工藤のこと頼むって言ったのは間違ってなかったってことやな」
さすが俺、人を見る目もある。しみじみ頷く平次に、ようやく金縛りが解けた快斗は慌ててマッタをかけた。
「ちょっと待て。今、なんだって?」
「は? 何が?」
「何が、じゃねーよ。今なんつったんだって聞いてんだよ」
「何って、間違いやなかったって」
「その前だよ!」
平次は顔を顰めて腕を組むと、すぐに「あぁ!」と笑顔を見せた。
「このニブチン?」
「その後!」
「快斗が工藤の特別になった?」
「………っ」
途端、平次は珍しいものを見るように目を丸くする。
「なんだよ」
「せやってお前……顔、真っ赤やで?」
「」
「なんや〜、照れてんのか! お前も案外可愛いとこあるんやな」
「うっせぇ!」
「あほう、工藤起きてしまうやろっ」
苦し紛れに投げ付けたクッションはなんなく受け止められて、次の攻撃を静止する声にギクリと振り上げた手を止めた。
「………しまった」
「あほか、お前は……」
慌てて小声になる二人の耳に、ドアの開く音が聞こえる。見上げれば寝ぼけ眼の新一が立っていた。
「し、新一おはよう! すぐ珈琲入れるな」
快斗は慌てて立ち上がると、バタバタとキッチンへ逃げこむ。そんな友の背中を平次はニヤニヤと見つめていた。
「服部、来てたのか……」
転がり落ちるクッションの上に座り込んだ新一は、まだまだ半分眠りの世界にいるようだ。
「ああ、クリスマスに一人で過ごす寂しい友達のとこにでも寄ったろう思ってな」
そうして絶え間なく話つづける平次の話に耳を傾けているうちに、眠気が飛んで行った新一が眉間にぎゅっと皺を寄せてポツリと言った。
「……悪かったな」
「なにが?」
白々しいとぼけぶりに、プイと視線を逸らす。
「……べつに、わかんねぇならいい」
「そうか。それより今日はどうする? 折角やし何かしようや」
あっさりと話題を切り替えて楽しそうに話す平次に、新一は心の中で礼を言った。
その頃キッチンでは──
いまだ熱を持つ頬を冷まそうと、快斗がひとり四苦八苦していた。寂しそうだったにしても『抱き締めてやりたい』と思ってしまったことや、あまつさえ『守りたい』とまで考えてしまった自分を見破られた気がしたのだ。たまらず両手で顔を押さえて、しゃがみ込む。
「とくべつ……」
うららかな春の日を思い出す。無気力に過ごす日々のなか新一と出会った。
花びら舞う桜の木のもと──綺麗で、儚くて。
意思の強い澄んだ瞳に見上げられたあの日のことを、一日たりとも忘れたことはない。
春の嵐のような出会いだったと、記憶している。
さらに一年後。
ふたたび桜の季節に再会し、たくさんの表情を知った。そのたび心は惹きよせられて、深入りはしまいと思いながらも今ではこの有様だ。
特別になっただなんて言葉を、そのまま信じてはいない。
けれど新一が自分の特別になってしまったということは、そろそろ認めなくてはいけない時期に来たようだと──快斗は深い溜息をこぼした。