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    まかろ

    卓絵、SSを投げるとこ
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    まかろ

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    百古里のバウムクーヘン期のSS 6/13
    ひとり旅で女の子に出逢うやつ

    #ひよすが
    days
    #まかろのSS
    ssOfMaroro
    #バウムクーヘン百古里
    baumkuchenHyakkori
    #青羽根百古里

    百古里のひとり旅 考え事が際限なく湧きすぎて仕事に支障が出始めた。ミスの内容が些細な見落としや取り違えで済んでいるうちに、なんとかしなければならない。
     こんなときどうしたらいいのか、百古里もなんとなくわかってきている。一旦事務所から離れて冷静になる、それに越したことはないだろう。
     上司に休暇を申請した。条件付きで許可が出たので、レンタカーを予約した。一泊二日の旅程で、百古里は久しぶりに一人旅を決行する。

     こういう時、行先は特に決めない。道路標識で気になった地名を目指してもいいし、海や山や川などを目指してもいい。休暇の取得条件が『美味しいお土産を二人分買ってくること』だったので、最後にそれだけ忘れないようにしよう。
     青い車なので海に行こうと思い立つ。それくらいの簡単な動機でなんの縛りもなく行動できるのが一人旅の良さだ。1時間ほど走ればたどり着けるいつもの海はスルーした。リフレッシュのための一人旅の場合、思い出がある場所は採用しないのが百古里のマイルールだ。
     旅好きな両親が『訪れたあらゆる旅先を古里だと思えるように』とつけた名前は案外馴染んでいるような気がする。誰も自分を知らない土地なら、二度と関わることの無い人間が相手なら、少しだけ自由に振る舞える。
     数年前まで人間に悪意を向けられることが極端に怖いと思っていたが、仕事を始めたおかげで『世界はそれほど百古里のことを気にとめていない』と気づくことができて軽減されている。こんなに目立つ図体でも上手くすれば空気になれる。学校という狭い環境を抜け出してみれば、嬉しいことに『みんな他人』だ。それにもっと早く気づきたかった。

     一方通行の罠に捕まる。三周くらいしてやっとリカバリーをかけ、計画性の無さに小さく笑いながら幹線道路を目指した。仕事では計画的な行動を心がけているので旅ではあえて真逆のことをしているが、こういうのも悪くない。何せ時間はある。移動手段もある。そして、百古里の他には誰もいない。道を間違えたとしても誰も百古里を責めたりしない。
     仕事のことを考えると切り離せないのは恩人であり雇用主の千浦日和のことだが、彼女は本当に不思議な人だと思う。どうして百古里を拾ってくれたのか未だにわからないけれど、間違いなくそこから全てがいい方向に変わった。この感謝は百古里の原動力だ。
     本当に嬉しかったから、この日々が変わらず永遠に続けば良いといつしか思うようになっていた。けれど現実問題、彼女にどうやら想い人がいるだろうということに百古里は気づいてしまった。それは恋やら愛やら運命やらについて疎すぎて全くわかっていなかった百古里にとって、青天の霹靂といってよかった。

     嫌な考え事にシフトしてしまったところで、車は渋滞につかまる。カーラジオからは少し前に流行った失恋ソングが流れていて、百古里は思わず周波数を切り変えた。辛いけど否めない失恋について歌う男性ボーカルの声はノイズに紛れ、代わりになんだか落語のような老人の声が流れ出す。眠くなりそうなので携帯のBluetoothを繋げてR.A.Lを聴くことにする。すっかり止まった車列はまだまだ動きそうにない。
     黙るとすぐ日和と日和の想い人と、日和とのこれからについて考えてしまう。停滞した車の流れのように百古里の思考も澱む。
     考えれば考えるほど、どんどん自分自身が嫌になった。彼女が恋を叶えたら住み込みの自分は事務所を出ていかなければならないとか、助手としての役割もおおかた想い人に奪われるだろうとか、そんな最悪の思考になるからだ。自分自身への吐き気がするほどの嫌悪感で潰れそうになる。
     日和のことは誰よりも大事だし幸せになって欲しいと思っているはずなのに、なぜその幸せをともすれば邪魔しかねないような思考になるのだろう。どうかしている。
     成り行きで拾われた百古里よりも、能動的に日和の方から選ばれた運命の人のほうが役に立つのは当然だ。冷静になればちゃんと仕方ないと思えるのに、無意識に嫌だと思っている自分がいる。

     何故。

     近頃、自主的に禁句にした方がいいんじゃないのかと思うワードの最たるものだ。ついこの二文字が頭をよぎるし、よぎると大体辛くなる。
     これについて掘り下げると呼吸が苦しくなるし胸も痛い。胃痛や頭痛も併発することがある。それ以上考えることや、その先に何か『答えになりそうな感情』を探し当てることを身体が拒否しているらしい。
     このタイプの考え事は心身の健康に良くない。けれど、折角そう冷静に判断できるようになったというのに止められない。あの衝撃からすでに百古里はたくさん考えたし、もうとっくに考え疲れているというのに無意識にまだ何とか新たな発見を見出そうとしている。
     思いのほか百古里は往生際が悪い人間らしい。この初めての不調について、どうしても何かしらの形で納得したいのだ。

     冷静になろう。その納得は本当に必要なプロセスだろうか。
     この件に関しては会ったこともない日和の想い人が主題である以上、建設的な解決方法など見つかるはずがない。おまけに何やかんや悩みつつも、結局目の前にその想い人が現れればちゃんと大事に出来てしまうのは目に見えている。
     つまり極論を言ってしまえば、解決しなくても問題はないはずだ。……ずっとどこかが痛かったり苦しかったりするのを、無視すれば。
    「あー、もう、日和さんの10分の1でいいから決断力が欲しい」
     虚しい独り言は車内の澱んだ空気の中に融ける。
     結論、百古里が全てを飲み込めば何の問題もない。痛みも苦しみもなかったことにすればいい。正体を知らない方がいいものも世の中には沢山あるはずだ。
     ヘッドレストに頭を預けてため息をつく。頭痛がしてきた、いつものやつだ。
    「こういうの、ボク案外顔に出てるみたいだからな……」
     難儀だ、そう思う。解決しなくてもいいと結論は出ているのに、この分ではきっと何かしらの落とし所がないと謎の身体症状が落ち着かないのだ。
     以前の自分はこんなにわがままだっただろうか。少し前までは何かに執着することもなければ大事にされたいと思うこともなく、あらゆる場合で自分の意向は優先順位の一番下だった。今回だって、それでいいのに。ずっとそうして生きてきたのに。

     苦しくなってきたので意識して大きく息を吸うと、一層胸が痛んだ。少し窓を開ける。淀んだ空気が流れ出した気がしたものの、代わりに排気ガスが入ってくるのでやむなく窓は閉めた。
     日和の大事な人は百古里にとっても大事な人だ、それは正しい。けれど居場所を奪う人間なんてできることなら退けたい。それも本音だ。
     どちらかの本心に従うと、もう片方の本心を偽ることになる。何故そんな面倒なメンタル構造になっているのか自分でもわからない。ただひとつ明らかなのは、百古里は異なる真逆の本音をどちらも平等に成立させられるほど器用ではないということだ。どちらを選ぶかは明白なのに、わがままな後者は捨てても捨ててもいつの間にか戻ってきている。
     そんなだからしばらくの間は辛くて泣いたり夜中に飲酒したりしてひっそり荒れていたが、今は無理やりにでも辛さを無視して振る舞うことでとりあえず落ち着いたといえる状態になった。一応はいつも通りに見えているはずだ。少なくともこの小康状態を維持しなければならないのだから、謎の感情や痛みの原因を知って納得したい気持ちは封印しなければ。
     言葉にしなければその感情はないのと同じだ。言わなければ誰にも分からない。耐えればいつか、痛いのも苦しいのも泡になって消える。我慢は得意だから『大丈夫』だ。そう繰り返し暗示をかける。
     大丈夫だ。大丈夫に決まっている。百古里は日和に魔法をかけてもらった助手なのだ。この魔法は12時に解けるようなヤワなものではない。
     百古里は自分のことを信じられなくても、日和のことは信じると決めている。日和はいまのところ百古里を必要としてくれていると、はっきり言葉にしてくれた。だからきっと、もう少しだけ大丈夫だ。残されたわずかな時間を大事にしよう。

     車はようやく動き始める。R.A.Lのアルバムも一周した。考え事を振り切ってアクセルを踏む。そろそろ昼時だ。
     空腹を感じてはいるものの、混んだ店は苦手で寄る気が起きないので運転をさらに続けた。峠をひとつ超え、気分で高速に乗り、ETCカードを入れ忘れていて精算に手間取り、聞いたことの無い地名で降り、方角だけで海を目指す。標識によれば、聞いたこともない海岸がもうすぐそばにあるらしい。
     目的地に着いてから宿を検索しよう。有名観光地でなければ割とこの戦法で大丈夫だ。最悪の場合は車中泊という手もある。
     そうして誰もいない海岸にたどり着いたのは三時前で、空腹のピークは一旦通り越して落ち着いていた。もう夕飯まで何も食べなくてもいいような気がして、付近の飲食店を探そうとする手を止めた。
     車から降りれば、淀んだ胸の内が潮の匂いで洗われた気がした。自分の力で知らない土地に来るということは、それだけで少し自己肯定感を回復できる。

     ずっと同じ姿勢でいたことで案外疲れていたらしく、歩き出してすぐ座りたくなった。大きく伸びをし、首や肩を鳴らしながら海岸を目指す。そうして、柔らかな砂の上に腰を下ろした。
     ぼんやりと波の音を聞く。何も考えずに、波が寄せては返すのをじっと眺めていた。穏やかな潮風が優しく髪を揺らし、少し開けた襟元から身体を撫でる。
     自然の多い場所はいい。他に人間が誰もいない空間は気が楽だし、ここになら存在していていいような気がしてくる。百古里はずっとここにいていい。誰も咎めない。無意識に呼吸が深くなり、胸が痛いのが治まっていることに気づく。
     そろそろ波打ち際に近づいてみようと思って立ち上がって伸びをすると、少し離れたところに赤いランドセルを背負った子供が見えた。灰色に曇った彩度の低い海で、その赤は鮮烈に目を惹いた。
     子供の年齢はだいたい小学校低学年ぐらいに見える。学校指定らしい赤い帽子を被っており、そこからはみ出た肩までの真っ直ぐな髪が潮風に揺られている。彼女は黙って体育座りをして海を眺めていた。
     百古里が立ち上がったのを視界の端に確認したのか、彼女はこちらを見る。百古里は目が合ってしまう前に慌てて目をそらした。子供に声をかけられておろおろしていたところに職質を食らったことが過去にある。関わらないのがお互いのためだ。

     少女に背を向け、遠ざかるようにして波打ち際を歩いた。打ち上げられた漂着物を観察しながら、時々水平線の方を見る。島もなければ船もいない、広い海原がどこまでも続いている。水平線は真っすぐに空と海とを分けていた。
     ああいいなと思ってスマホで写真を撮ると、日和からLINEが入っているのに気づいたので返事をする。旅の様子はどうかと訊かれていたので、今撮った写真を送ってみた。一緒に住まなくなれば、きっと出かけることも報告しあわないだろう。そうなればもうこういうやり取りもなくなるのだろうと思うと、寂しくなる。返事を待たずにスマホをしまって歩き出した。
     もうだいぶあの子から離れただろうと思って振り返ると、百古里のすぐ後ろを歩いている少女と目が合った。ランドセルを鳴らさないようにするためか肩紐を両手でしっかり握りしめた少女は、だるまさんがころんだの要領でピタリと止まる。一瞬の間。
    「……あのう、ダメですよ、知らない人に関わったら」
    「ひゃ!」
     声をかけると少女は慌てて百古里から離れていく。子供はよく分からない。よく分からないなりに怖がらせないように接しているつもりだが、ああまでの勢いで脱走されるとほんのり悲しい気持ちになる。やはり見た目が怖いせいだろう。今日はヤカラ服を封印して自分の着たいものを着ているけれど、それも全身黒で固めているせいで威圧感はある。
     波打ち際から離れ、また海が見渡せる砂浜に座る。曇り空は相変わらず晴れないので時間経過がわかりにくい。そういえばあの子は帰ったのかと視線を走らせれば、抜き足差し足で百古里に近づこうとしていた少女がまた悲鳴をあげて走り去っていった。釈然としない。
     もう好きにさせておくことにし、視界の端に少女を捉えた状態でしばらく気付かないふりをした。少女は忍び足で百古里に近づき、百古里のほうを気にしながら手が届きそうな位置に腰を下ろした。ちらちらこちらを見ている気配がする。居心地が悪い。それでも声をかけたら逃げるだろうから、百古里は黙ってアクションを待つ。

     しばらくののち、我慢比べに負けたのは少女のほうだった。
    「お兄ちゃん、おうち、かえらないの?」
    「はい、もう少しここにいますよ」
     答えても少女が逃げ出さないので、体ごと少女の方を向く。少女は少し驚いた様子を見せたものの、もう逃げずに百古里を見上げている。リスみたいな丸い目をした、色の白い少女だ。
    「いいなあ」
    「おうちが嫌なんですか」
    「うん……」
     少女は俯き、膝を抱える。百古里も実家に帰りたくないので気持ちはとてもわかるのだが、怪しまれがちな見た目をした成人男性に出来ることは限られている。じゃあどこかに連れて行ってあげよう、なんてやったら犯罪だ。
     慣れていないけれど、ただ声をかけるというのが最もマシな選択肢だろうか。
    「ボクもずーっと、何年も何年も、おうちに帰るの嫌でした」
    「ほんと! 一緒だ!」
     少女は百古里の前で初めて笑った。前歯が一本なく、乳歯の生え変わりが終わっていないのがわかる。細かく観察するようになってしまったのは職業病だ。誇らしい。
    「ええと、今は帰るの、楽しくなりましたけど」
    「……ふーん。なあんだ、まいの仲間かと思ったのに」
     あからさまに残念そうにされ、苦笑する。
    「まいさんっていうんですね」
    「うん。お兄ちゃんは?」
    「青羽根、百古里です」
    「変わった名前」
     にっこり笑ったまいはここでやっとランドセルを下ろす。砂浜に丁寧に置いているところを見ると、このランドセルを気に入って大事に使っているのだろう。百古里は畳んでいた足を伸ばし、少しリラックスした様子を見せてまいを見下ろした。
    「まいさんがどうしておうちに帰りたくないのか、ボクが聞いても平気ですか?」
     わざわざこんな話しかけにくい人間を会話のターゲットにしたのだ、どんな意図なのか知りたい。少女が見ず知らずの大人に伝えたい『何か』は、ひょっとしてSOSなのではないか。
     百古里の質問にまいは表情を曇らせたが、やがてぽつりぽつりと話し出す。
    「……ママがね、りんちゃんばっかり可愛がるんだ。りんちゃんはちっちゃくて可愛くて、でも、意地悪で」
    「妹さんですか?」
     頷くまいは、海を見ながら続けた。
    「りんちゃんが割っちゃった花瓶、まいのせいになったの。りんちゃんが転んで泣いたの、まいが転ばせたせいになった。お菓子をとったり、ノートを隠したり、いつもまいが意地悪するんだって。そんなことしてないのに、ママは信じてくれない」
     恐ろしい程に『人間』らしい妹だった。自分の妹より理解が及ばない存在にはなかなか出くわさないので、きっと扱いにくいどころではない妹なのだろうと百古里は思う。
     妹のきさみが百古里に冷たく当たるのは構って欲しいからだと最近になって分かってきたが、まいの妹に関しては動機が全く見えてこない。
    「それは…… 帰りたくないですね」
     辛うじてそれだけ返すと、まいは年齢より大人びた感じのする疲れた目で笑った。
    「まい、なにがいけないのかなぁ。なんでりんちゃん、意地悪ばっかりするのかな」
    「何ででしょう。聞いてみないと本当の気持ちは分からないと思います。でもそんな方、話しかけるのも嫌ですよね」
     まいは深く頷いた。泣きそうな顔をしている。彼女に必要なのは原因の究明ではなく、現状の解決だと百古里は判断する。かといって、平和的に姉妹を分離する方法をこれといって思いつかない。部外者にできることは皆無に等しく、無力さを痛感する。
    「まい、もうりんちゃんに会いたくない。でも、なんでそんな酷いこというんだって、ママ怒るの」
    「そうですか……」
     彼女の求める方法かどうかは分からないけれど、自分がされて落ち着くことをしようとして百古里はまいの頭を撫でる。
     見ず知らずの大人に悩みを吐き出さなければならないほど、少女は追い詰められている。すぐに解決する方法が思いつかないとしても、味方はいるのだと示す行動ぐらいはした方がいい。
     指輪が一つもついていない右手でぎこちなく撫でていると、まいは少しだけ笑った。
    「ありがとう、すがりさん」
    「いえ」
    「まいね、ママのこと大好きなのに、ママにも会いたくないの。まい、冷たいのかな」
     立てた膝に顔をうずめ、力なく呟くまいをどうにか夜の底から救い出したいと百古里は思う。まいは日和に会うまでの自分によく似ていた。このまま放っておいたら、ふらふらと海に引き寄せられてしまいそうだ。
    「家族でも、会いたくなくていいんですよ」
     百古里はそれを認めるのにずいぶん時間がかかったが、この子にとってはきっと今この瞬間に必要な気づきだろう。家族を愛することも家族に愛されることも上手くできなかった百古里には何も語る資格がないのかもしれないが、血が繋がっているからといって必ずしも愛し愛されなくていいと気づくと少し楽になる。
     どうかこの言葉が伝えたい意味をちゃんと伝えますようにと願いながら、百古里はもう一度だけまいの頭を撫でた。
    「ほんとに? 会いたくなくて、いいの?」
    「ええ。ボクにもちょっと意地悪な妹がいます。きっとボクのことが嫌いなんです。だからボクは、その子に関わらないようにしています」
    「そっか…… すがりさん、その子のこと、きらい?」
    「苦手、ですね。出来れば会いたくない」
    「やっぱり仲間だ!」
     百古里が思わず笑うと、まいは満足そうにした。
    「お姉ちゃんだから我慢しなさいって、ずるいよね。妹は一生妹だから、ずーっと我慢しなくていいんだよ」
    「大丈夫ですよ。それは妹さんが小さくて弱いうちだけです」
     自分の子供の頃を思い出す。お兄ちゃんなんだから我慢しなさいとは言われるまでもなく、百古里は自ら我慢してきた。それが一番疲れないからだ。姉妹たちとやり合う元気はない。
    「大人になってしまえばこっちのものです、まいさん」
    「そうなの?」
    「大人になればお姉ちゃんも妹も平等に、自分のことには自分で責任を持つんですよ。りんさんだって、どんな失敗もお姉ちゃんのせいにできなくなる」
    「ほんとに! いつ? いつ大人になれるかな」
    「まだ先かもしれませんけど、『大丈夫』です。まいさんはちゃんと家族以外に大事な人が作れるでしょうから、それほど長く感じませんよ」
    「絶対?」
    「ええ。辛いのって、永遠には続きません。いつか絶対終わります。りんさんとも離れられる」
     なかば自分にもかけているような暗示の言葉だ。辛いのは永遠には続かない。大丈夫だ。
     大事な人がくれた魔法の言葉は、決して百古里を裏切らない。ふと気づくと戻ってきている胸の痛みも、いつかは完全に消えるはずだ。
    「……内緒だよ、すがりさん。まいね、りんちゃんと離れるの、楽しみ」
    「はい。内緒にしますし、応援しています」
    「やったあ!」
     まいが手を挙げるのでハイタッチで応える。手のひらの大きさの差が微笑ましい。まいは百古里を見上げながら、そういえばというように口を開く。
    「すがりさんはおうちかえるの、楽しいんだよね?」
    「はい、ボクの帰りを待ってくれている方がいますので」
    「いいなぁ」
     この子のこの言葉には、きっと重たい意味が載っている。話の中に父親が一切出てこないことも、妹が動機のわからない悪質な意地悪を仕掛けてくることも、母が妹の話だけを鵜呑みにすることも、決してその全てがまいのせいというわけではないだろう。それなのに、帰りを待っている人間がいるというごく当たり前の家庭を彼女は羨まなければならないのだ。
     百古里がかけられる言葉は少ない。こういう時に的確に状況を改善出来る言葉をかけられるのは、やはり日和だと百古里は思う。それでも今ここで話し相手になっているのは百古里だ。百古里が解決しなければならない。
     少し考えて、意識してゆっくり語りかける。
    「いつかあなたも、きっとそういう方に出会えます」
    「いつかって、いつかなぁ」
    「楽しみにしていましょう。案外、それより早くりんさんが離れていくかもしれませんし」
    「うん!」
    「まいさんは『大丈夫』です。ボクと少し似ていますから」
     聴覚の隅にマナーモードにし忘れたスマホの通知音を捉えた気がした。取り出してみれば日和からの返事が来ており、時刻はもう5時をすぎていた。さすがにそろそろ、まいは帰らなければならないだろう。
    「そろそろ帰りましょうか」
    「……ずっとここでお話していたい。ダメ?」
    「ボクもまいさんとずっとお話したいですけど、知らない人と話すの、本当はダメなんですよ」
    「すがりさんは知らない人じゃないもん! だからいいの」
    「あー…… まいさん。ボクがどこで誰と暮らしているか、なんの仕事をしているか、何歳か、名前の漢字はどう書くか、まいさんはひとつも知りませんよね」
    「う……」
     静かに諭すと、まいは百古里の言いたいことをはっきり理解したようだった。聡い子だ。
     泣きそうな顔で俯くまいを見て、百古里はシャツの胸ポケットを探る。薄い金属製の名刺入れが手に触れた。
     オフの日でも名刺を持ち歩いているのは、お守りの意味合いに他ならない。ミスが増えて落ち込んでいるものの、それでも日和の助手をしているという事実は百古里のたったひとつの誇りだ。そのことを物理的に証明出来るアイテムは、持っているだけで心を落ち着ける。
     一枚取り出して、まいに向き直った。まいは相変わらず泣きそうな顔をしていたものの、百古里の手元に注目している。
    「ボクはまいさんが大人になったらまた会いたいので、これをお渡しします」
     丁寧に名刺を両手で渡した。彼女が大人になるのは軽く10年以上先の未来になるだろうし、その頃まで自分が千浦探偵事務所でちゃんと助手をやっていられるかもわからないが、名刺なら基本的に知らない人から貰うものだ。今の百古里から渡せる連絡先としては、これが最適だ。
     まいは名刺を受け取ってしげしげと眺め、これが一体何であるのかを理解したのか目を輝かせた。
    「名刺交換ができる歳になったら、ここに連絡してくださいね。楽しみにしています」
    「……! わかった!」
    「人通りの多いところまで送りますよ」
     海を出て、松の林をぬけて、一番最初に見えるコンビニまで送り届けた。まいは元気に手を振って帰っていき、百古里は空腹を思い出してコンビニの肉まんを買った。
     海を見ながら食べて、近隣に今夜の宿をとる。適当にとったビジネスホテルは繁華街の傍だったので、夕飯を外で食べる気が起きなくて宅配を頼んだ。明日はどこかでお土産を調達しなければ。

     その晩、夢を見た。
     夢を見るとほとんどの場合ろくな目に遭わない。明晰で意識がハッキリした夢であればあるほどそうだ。しかし不思議と、今日に限っては嫌な感じはしなかった。いつかの満天の星空の夢を思い出す、穏やかな気分だ。
     百古里がいたのは昼間のあの海だった。誰もいない海岸にぽつんとランドセルだけ置いてある。大事に使われている、綺麗な赤いランドセル。まいのものだと確信した百古里は海を見渡した。
     遮るもののない砂浜で少女を見つけるのは容易で、すぐに離れた所にまいを見つける。まいだ、確かにそう思った。けれど明らかに見た目が違う。
     近づいて見ると彼女は振り向く。背は伸びているし、欠けていたはずの歯並びも綺麗だ。体つきは完全に華奢な成人女性のそれだし、化粧もしている。彼女はどういうわけか、百古里とほとんど同い年に見えるぐらいにまで成長していた。
    「百古里さんだ、本当に会えた!」
     笑い方はあの無邪気なまいと同じだったが、百古里は急に大人になった彼女をどう扱っていいかわからない。
    「え、えっと…… まいさん、ですか」
    「そうよ。ずっとお礼が言いたかったの」
    「ずっと、って。まだ一日も経ってませんけど」
    「私にとってはもう14年も前のこと。ありがとう、百古里さん。私、りんちゃんともママともちゃんと離れられたよ」
    「そ、そうですかぁ……」
     にわかに信じ難いがこれは夢だ。そういうこともあるのだろう。過ぎたであろう14年の歳月は、まい自身がはっきり体現している。どう見ても大人だ。いつも一緒にいるからどうしても基準が日和になってくるが、まいは日和よりも背が高い。
    「百古里さんにもらった名刺、大事にずっと持っていたの。お守りにしてたんだよ」
     ほら、と言いながら、彼女は自分の名刺入れから先程百古里が海で渡した名刺を取り出した。ちらりと見えた中身はその1枚だけだ。
     百古里の名刺は色褪せて少しよれているものの、14年の月日を考えれば相当大事に扱われていたことが分かる。よく見れば名前の横に、拙い鉛筆の文字で振り仮名が振ってあった。きっと特殊な読み方の名前を忘れないように、幼いあの日に書き記したのだろう。
     なんだか胸の奥が暖かい。あの小さな約束を信じて、彼女は心の支えにしてくれた。探偵助手らしいことなど何もしていないけれど、仕事が実を結んだように感じた。助手であるということは、そばにいる人の役に立ち続けるということだ。このやりとりも仕事に通じるものがある。
     ああして逃げずに人間らしい寄り添い方が出来るようになったのは、日和がいたおかげだ。日和に育ててもらったことで、百古里も誰かの助けになれるほどに人間として成長できた。
    「ありがとうございます」
     深く頭を下げると、まいは慌てて百古里の両肩を掴んで頭を上げさせた。
    「ちょっと! やだやめて! 私がお礼を言いに来たの! 百古里さんがかしこまらなくていいんだから!」
    「だってこんな、海で少し話しただけの知らない人ですよ。まさかずっと覚えていてくださるなんて」
    「少し話しただけで百古里さん、私の人生変えちゃったんだから。恩人! 知らない人じゃない!」
     まいは百古里の肩に添えていた手を離し、一息ついてから話し出す。
    「家族でも会いたくなくていいよ、大丈夫だよって、すごく嬉しかった。一緒にいたい人はまだいないけど、私今、一人で生きるのすごく楽しいんだ」
    「それは、……よかったです。ボクの経験がお役に立ったんですね」
    「うん、本当にありがとう。折れずに済んだの、百古里さんのおかげだから」
     満面の笑みを向けられ、百古里も自然と笑い返す。純粋に嬉しかった。近頃空回っていたことも、仕事のミスを繰り返していたことも、なんだか上手く立て直せるような気がした。我ながら単純な思考回路だが、この感じなら明日からも日和の右腕として誇りを持って過ごせそうだ。
     まいのおかげで百古里単体でも誰かの役に立つことが証明できた。きっとこれなら日和の助手として、そばにいる意味がある。
    「こちらこそ。あなたのおかげで、感覚を取り戻しました」
    「ほんと! よかった。やっぱり百古里さんも、何か悩んであの海にいたんだもんね」
     笑いあって、何となく波打ち際を歩き始める。百古里にとっては半日ぶりの、きっとまいにとっては14年ぶりのこの海。柔らかな砂の上をパンプスで器用に歩きながら、まいはくすくす笑って百古里を見上げた。
    「お礼をしようと思って、勇気をだして携帯に電話したらね…… 百古里さんの家族が出たんだよ」
    「えっ」
     衝撃の発言に思わず素の声が出る。随分先の未来で、百古里は実家に帰っているのだろうか。それとも、ありえないと思っていた結婚により能動的に家族を作ったのだろうか。身寄りのない子供を引き取るなどして養子を得たのだろうか。
     何にせよ、百古里の電話が鳴っているのを勝手に取れる間柄の家族は相当仲がいいはずだ。百古里は少なくとも今の関係の姉妹たちの前では、怖いので決して携帯を手放さない。
    「14年前に海で名刺をもらったなんて言って信じてもらえるかわからなくて、間違えましたって切っちゃった」
    「ええっと…… そう、ですか……」
     いったいどんな人が家族だったのか気になる。日和に対して『誰よりも幸せになって欲しい』と言った百古里に対して彼女が『幸せになるなら2人でよ』と返したのは、きっと『百古里だけが独り身だと気を遣うので、百古里も相手を見つけてほしい』という意味だ。
     だから遠い未来で百古里がもし新しい家族を作っているとしたら、それは彼女の希望を叶えたということになるだろう。そうやって日和と2人でそれぞれ幸せになれていたらいい。百古里の幸せは他の誰でもない日和と今の暮らしを保つことだが、それよりも優先したいのが日和の幸せだ。
     想像もつかない14年後、百古里も何もかも飲み込んで痛みを忘れて幸せになっていることを信じたい。勝手に心を痛めて勝手に我慢して縋りついている分際でおこがましいとは思うけれど、なんとか報われたい気持ちはある。というか、そんなものが芽生えたせいで色々おかしなことになっているのだ。
    「きっとまいさんのために番号を変えなかったんじゃないでしょうか、ボク」
     心の動きから目をそらすために会話に戻る。まいは相変わらずリスのような印象を受ける丸い目を百古里に向けて、楽しそうに笑った。
    「だといいな。住所も調べて、事務所が変わってないのもわかったんだけど…… 急に会いに行ったら迷惑かなって思ってたの」
    「14年振りですからね。ボクの方も、ひと目見ただけではまいさんだと分からなかったかもしれません」
    「でしょ。どうしよっかなって同僚に相談したら、なんかよく分からない砂時計みたいなのをくれたんだ。思い出の品と一緒に使うと時間旅行ができる、とかなんとか」
     ああ、なるほど、『そういう』アイテムですねと思う。そういうことであれば、今までにあった明晰夢のように不思議な力が働いていてもおかしくない。こういう謎の現象はたまにある。
    「つまりまいさんは、未来から夢を伝って出会った日のボクに会いに来られたと」
    「そういうことになるのかな。信じられないけど」
    「信じられないと思うような経験はこれまでにも何度かしています。たぶん、この夢はそういう仕組みなんですよ」
    「意外! 百古里さんは大人だから、こんなの信じないかと思った」
     まいはそう言ってくすくす笑う。よく笑う明るい子だ。
    「あっ。未来のことは質問禁止ね。その方がわくわくするでしょ?」
     先手を打たれてしまった。けれどどうしても気になるので、百古里は珍しく食い下がる。
    「折角ですから一個だけ」
    「なあに?」
    「電話に出たボクの家族、どんな方でしたか」
     それを聞くとまいは悪戯っぽく笑う。その楽しそうな笑顔はやはり、小学生の時のあの面影を残している。
    「それは内緒。結果が分かってて恋するの、つまんないじゃない?」
    「あー…… 出たの、奥さんだったんですか」
    「あっ!?」
     両手で口元を抑えて『しまった』という顔をするまいは、隠し事に向いていない性格なのかもしれない。
    「わーーーっ、ナシナシいまのナシ!」
    「ふふ。ボクのことだから、たとえ結婚していたとしても恋はしていないと思います。きっと利害が一致して一緒にいるんでしょう」
    「えっ、百古里さんそんなドライな恋愛観なの?」
    「いえ、その…… 現在進行形で込み入った諸事情がありますので」
     人並みに恋をする自分なんてまるで想像できないのだ。そんな迷惑すぎる感情を他人に抱いてはいけない。もしうっかりそんなものが芽生えてしまったら、すぐに無かったことにしなければ。大丈夫だ、見ないふりをすればいつか消える。おそらく。長い時間をかけて。
    「いつか聞かせてね。もう私、子供じゃないから」
    「……とにかく。どういう状況であれ一緒に暮らしてくれる人がいるって思ったら、安心しましたよ。ありがとうございます、まいさん」
     そう言ってまいを見下ろす。彼女はとても何か言いたげだったので、百古里の未来の家族についてまだ情報を持っているのだろう。気にならないわけがなかったが、同じくらい知るのが怖い。
    「絶対内緒。ここからはほんっとに内緒! 何聞いたって答えないからね。でも言いた〜い!」
    「何を聞いても混乱すると思うので内緒にしてください。14年後の世界がどうなってるかとか、自動運転の普及率とか、色々気になりますけど」
    「あっ、自動運転はねー、日産が……」
     得意げに口を開きかけるまいに笑いそうになりながら首を横に振って見せる。まいはハッとして、それからバツが悪そうに笑って誤魔化した。
    「言ってる側から言うとこだった! ほんと、隠し事苦手なんだよなぁ。ふふ、自分で確かめるんだよ、百古里さん」
    「ええ。そうします」
     色々と衝撃はあったが、日和と離別しても百古里がどうやら人生に絶望していないらしいという事実は、少し気持ちを明るくさせた。やはり彼女がくれた魔法は万能だった。きっとこれからも、ずっと『大丈夫』だ。
    「そうだ、私ね、探偵になったの」
    「え、そうなんですか」
    「まだ自分の名刺はないんだけど、作る時百古里さんの名刺のデザインを参考にさせてね。レトロですごくいい感じ」
    「レトロ……」
     まいの世代からしたら、14年前のセンスは確かにレトロなのかもしれない。未来の名刺の形態はどうなっているのだろう。電子化が進んでいてもまだ名刺の文化は残っているのだろうか。
    「百古里さんの名刺ね、少しずつ漢字を習って読めるようになったんだ。だからあれから何年かしてやっと、百古里さんが探偵事務所の人だってわかったの。最初は名前しか読めなかったけど、ちょっとずつ謎を解いてるみたいで楽しかったな」
    「ああ、そうか…… 確かに小学校低学年では、探偵と言う字はまだ習いませんね」
    「百古里さん、助手なんでしょ。ね、いつか私の助手もやってよ」
     楽しそうにそう言われ、百古里は首を横に振る。百古里は日和の助手だ。彼女以外をアシストする気は、今のところない。
    「ボクはずっと日和さんの助手です。日和さんに解雇されるまでは、他の誰の助手もしません。ごめんなさい…… 業務提携は歓迎します」
     36歳の日和がまだ百古里を助手として頼ってくれているかはわからないが、もしまだ事務所が存続していれば2人は16、7年来の熟練したコンビということになる。きっとお互いに、完璧に意志を疎通させて難題を乗り越えてきたはずだ。同業となったまいには、ぜひ千浦探偵事務所の歴戦の仕事ぶりを見て欲しい。
    「日和さんって、千浦探偵事務所の所長さんか」
    「そうです。ボクの恩人です」
    「じゃあ日和さんに直談判する!  もっと経験を積んでかっこよく事件を解決できるようになったら、今度こそ会いに行くからね」
     話しながら歩いていれば、いつの間にかランドセルの側まで来ていた。丁寧に使われていたであろうランドセルの傍に、不思議な文様の彫り込まれたレリーフが立てかけてある。レリーフの中央には砂時計がはめ込まれており、あと僅かで砂が落ちきりそうになっていた。
    「もう時間が無いの? 短かったなぁ」
    「そのようですね」
    「本当にありがとう、百古里さん。またね」
    「ええ。未来のボクによろしくお伝えください」
     手を振りあってから、百古里は砂時計を確認する。百古里の視線の先で砂はちょうど落ちきり、まいに声をかけようと顔を上げると海にはもう誰もいなかった。目を離した一瞬でランドセルも砂時計もなくなり、何も無い砂浜を波の音だけが静かに包んでいる。別れを受け入れると急に眠くなってきて、百古里は砂の上に仰向けになって目を閉じた。

     頭の上で携帯が鳴る音がして起き上がる。寝る前にセットしたアラームだった。海の匂いはしない。夢が明晰すぎて寝た気がしないため、疲れが取れきっていないが二度寝したら朝食を逃すと思う。
     ホテルの狭い部屋にはカーテンの隙間から朝日が差し込み、テーブルに置いた朝食券が照らされていた。ぼんやり見ているとあと30分で朝食の時間が終わることに気づく。すぐに着替えて出なければ。
     夢の中で百古里は誰かと家庭を持っていた。あくまで夢の話であるとはいえ、精神衛生にいい設定をもらったと百古里は思う。最長で14年以内に、百古里は利害の一致するパートナーと結ばれる。日和を快く運命の人の所に送り出すためだけに、なんとかして探すであろう相手は確実に見つかる。よかった。日和の幸せを邪魔しないで済む。対立するふたつの本音のうち、日和をより傷つけないで済む方の本音を通すことが出来る。
     この穏やかな毎日は、続いたとしても14年。あとたったそれだけの間しか、日和と共にいられない。永遠だと思いたかった時間には、あっけなく制限がついた。具体的な長さがわかったら、急に諦めがついた気がした。
     だとしたら、胸が痛いとか苦しいとか言っている場合ではない。仕事の出来なさに落ち込んでいる場合でもない。助手のくせに役に立っていないんじゃないか、などと心配している時間すら勿体ない。
     最後まで縋り付くと決めた。そして、別れを告げられたら幸せな彼女を笑って見送るのだ。それが百古里の役割だ。泣くのは独りになってからにしなければ。
     行動方針が決まってすっきりした。なおも続く胸の痛みは、これから長い時間をかけてなかったことになる。幸せな思い出をひとつずつ丁寧に味わいながら、やがてくる離別に備えるのはいい考えだ。日和との日々を想いながら一人で生きる時間は、きっと長いこと続く。その寂しい時間を少しでも彩るためには、記憶をなるだけ鮮やかに保つのがいいだろう。
     食事をしたら、遠回りしてゆっくり帰ることにする。折角Bluetoothを繋げたのだから運転中に電話してもいいかもしれない。些細なことで電話をかけるのが許されている今のうちに、少しでいいから日和の声が聞きたい。よく通るあの声で、1回でも多く名前を呼ばれたい。
     どんなに胸が痛くなっても、苦しくて考えるのが嫌になっても、日和のところに帰りたいと思う気持ちはなくならないのだ。この身体症状とも、上手く付き合って行かなければ。
     ともかく、まずは締切の近いものからこなしていこう。お土産をみつけるミッションを完遂させなければ。近くにご当地ミルクを使ったスイーツショップの看板があった、寄ってみよう。


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    青羽根百古里。
    勘違いから始まった考え事で眠れないほど思いつめ、胸の痛みを堪えながらいつかくる架空のバウムクーヘンエンドに備える難儀な男。
    ただいつもどおり一緒にいたいだけなのに、願うことはそれだけなのに、なんでこんな複雑に思いつめてしまうんだろうね。
    あんまり大事にされなかった22年間を引きずってるからか、今でも人の優しさは自分に向くことがない前提で物事を受け止めてしまう。

    えーっと
    百古里は自分に向けられた決定的に好意を示してくれている言葉をなんと曲解し、日和さんには運命の相手がいると思い込んでいます。
    鈍すぎる故のこの勘違いから、坂道を転げ落ちるようにしてずっと夜の底に沈んでいた。感情があまりにも複雑骨折している。なのに探索者である以上、「何故」からは逃げられない。

    このままじゃ社用車で事故りかねないぐらいのメンタルだ!
    こんなわかりやすく落ち込んでいたら絶対日和さんに気づかれる! 
    って思ってKPレスに連れて行ったけど、そこでも結局なんの解決にも至れず、どうしようもなさが増したばかり……
    そこで、根本的な解決は無理だけど何かしなきゃならんと思って考えたのがこの話。
    彼の自己肯定感を探索に耐えうるところまで回復するためには、やっぱり趣味の一人旅なんじゃないのかな。
    クトゥルー的AFのおかげで元気になることもある。シナリオで見る夢なんて大体悪夢だけど。

    人間らしく笑うこと。誰かのために心を砕くこと。好奇心に従ってみること。
    今回は日和さんのおかげでそういう人間らしさを身につけた百古里が、似た境遇の子供と心を通わせることで自身の苦難を乗り越えていく話でした。
    日和さんに貰った生きる力は確実に百古里の武器となり、お守りとなっている。

    荒れに荒れていた心は、静かに覚悟を決めることで何とか落ち着きました。
    『あと長くても14年』という半端な時間はそれでも百古里にタイムリミットをはっきり提示したので、百古里はこの年数をなるだけ丁寧に暮らそうと決意しています。
    同時に、「日和さんが2人で幸せになりたいって言ったからボクも相手を見つけて安心させなきゃ」というアイデアファンブルが一旦解決した。
    今回の件で「探そうと思えば見つかるらしい」と理解したため。
    まかろはその電話の奥さん絶対日和さんだと思ってるけどどうだろうなーーー! まいちゃんは他に何を知ってたのかな〜

    想いは言葉にしなければないのとおなじ。
    だからなるべく、日和さんへの感情は言葉にして伝えようと心がけている百古里。
    だけど「運命の人がボクならいいのに」と思う気持ちだけは、言葉にしてしまったら泡にならず消えてもくれなくなってしまうから、考え事の過程であっても絶対に言葉にしないようにしている。
    その時点で既に感情の答えは出てるも同然なんだけど、認めたら最低最悪の失礼な感情を一番大事な人に向けることになるから見ないふりをしている。

    とはいえ「自分の幸せを諦めること、離別の運命を受け入れること」と「好きな人の幸せを一番に叶えること」はイコールなのに
    「好きな人への気持ちを殺すこと」はそれらとは別のベクトルの話なんだよね。
    見ないふりしたって生きてる気持ちは勝手に百古里を蝕むでしょう。
    難儀な感情! がんばれ百古里!
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