狂気山脈 アン・ネビス 通過後 暗い。
暗い暗い暗い暗い暗い森の中で恐怖していた。
手を這わせて何かを探す、震える手つきで祈るように、怯えるように、辺りを探りつくして、ふと思い出す。
私にはもう懐中電灯はないのだ。
暗闇の中で自身を照らしてくれたあの光は、もはや失われたのだ、と。
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インタビュー、祝賀会、授賞式、雑誌の撮影、またインタビュー。
あの狂気の山脈からの帰還後、目まぐるしい毎日を過ごしながらアンは常に苛立っていた。
「おい!お前、もう少しなんとかなんないのかよ、顔」
「は?」
「いや……うん、」
口の端を引き攣らせたコージーが諦めたかのようにため息を吐く。
第二次登山隊の面々は用意されたホテルの一室で思い思いに過ごしている所だった。
今日は山岳雑誌のインタビューのあとオーストラリアの地元テレビ局から取材を受ける予定があり、今は撮影の合間。
ソフィアはK2と何やら騒がしくしており、ミリアムは梓と差し入れのグミを食べている、撮影したばかりの写真にアレコレ文句をつけるコージーの横ではシャオが困った顔でそれに相槌を打つ。
話しかけられるその時まで、アンはどの輪にも入らず部屋の隅で一人遠巻きに座っていた。
「でもよ、どの写真もガキみたいに不機嫌丸出しで……折角オレがいい写真を選んでやってるってのに、写りがどうこうの問題じゃねえよ」
なぁ?と、コージーはシャオに目線を向ける。
しかし、青年はただ困ったように微笑むばかりで、何か言うつもりはないようだった。
グダグダと絡まれるのが鬱陶しくて、ますます顔を顰める。
「こういう顔なの、ほっといて」
「いや、違うだろ!明らかにお前変だぞ、帰ってきてから。……いや、頂上の……」
言い切る前にアンが立ち上がり睨みつけると、コージーもバツが悪そうに口を閉じた。
勢いよく引いたイスの音は想像以上に響いたようで、気がつけば部屋の中の全員がアンを見ていた。
「いつまで拗ねてるんだい、全く」
沈黙を破ったのはソフィアだ。拗ねてる?聞き捨てならない言葉に思わず語気が荒くなる。
「拗ねてるんじゃない!」
拗ねてない、そんなんじゃない。
あの日自分が目にしたもの。
異形の獣、山に似た《なにか》、実在してはならない神殿、正体不明の呪文、何より尋常ではない狂気。
「私は科学者だから、貴方達より理解しているだけ……あの山が、あの山の頂上にあったものが、どれだけ存在してはならないものなのか」
生物学的にも、物理学的にも、存在してはならないもの。今まで化学が解き明かしてきたこの星のルールを根本から覆す存在。
ソフィアの手にした力など、羨ましくもなんともない。正体不明の巨大な力を原理も分からず動かすなんて絶対、絶対に御免だ。
あんなものを欲しがっていると思われたなんて……考えただけで怒りでおかしくなりそうだった。
「どこからどう見ても拗ねてるよ」
「だから、違う!!あんな呪文……」
「いいや、アンタは、拗ねてる。呪文だなんだじゃない、自分の信じてきたものが足元から否定されたって駄々をこねてる」
「だ……ッ」
「まずは認める事だね、事実は事実だと。あった事はあった事でしょうがないんだ」
得体のしれないものを恐がるのは……別に恥ずかしい事じゃないよと、老女はいつも通りの不遜さで言い放って、そのままフイと壁の方を向いた。
一言も言い返せなくて、また沈黙が走る部屋でK2が言う。
「君が心配なんだよ、ソフィーも僕も。いや僕らみんな」
心配、心配?怒りがこみあげる。
貴方達はなぜ人の心配なんてしていられる?
科学も知識も何もかもが意味をなさない暴力的な悪夢の中で、ただ運が良くて帰ってきてしまった。暗闇の中に何かが蠢いていると知って、ただ《知っている》だけで何もできないと理解してしまった。
この世界には、私がいて良い場所なんてないと理解してしまった。それで、どうして。
「よかったら、これ」
静まり返った部屋に声が響く。
「これは私の国の御守り、除災招福って書いてあって……えっと、悪いものを避けて幸運が訪れますようにっていう意味なんだけど」
そう言いながら梓はちいさなお守りを手渡してくれた。
「私は頂上にいなかったから……気休めにしかならないと思うけど」
話しながらふと顔を上げた梓が、息を呑むのがわかる。しかし、手渡されたそのお守りを凝視するのがやめられなかった。
アンはあらゆる宗教の御守りと呼ばれるものを持ったことがなかった。登山者なら一つや二つ身につける者が多いが、自身のメンタルを整える以上の働きは期待できなかったし、強いて言うならアンは科学を、自身の発明を信仰していた。幼い頃に拾った、そしてあの山に置いてきた、科学の象徴ともいうべき光、小さな懐中電灯、それだけが御守りがわりだった。
でも、今は……神様や悪魔、呪術、祝福、存在しないものを拠り所にする、オカルトチックなアイテムにすぎないはずのそれが、悍ましい世界を知った後の目には全く別のものに見えた。
お守りを凝視したまま動きを止めたアンの手のひらにもう一つ、梓のものとは違う形の、御守りらしきものが渡される。
いつの間に近くに来ていたのか、それはミリアムの私物のようだった。
「もし欲しければ、私の集めていた資料を渡す」
いつも通りの静かな声が淡々と言う。
御守りを凝視しながらその言葉を聞き、自分の中で今芽生えた閃きを言葉にしようともがく。
もしかしてあの暗闇の中にもルールがあるのだろうか?
科学、物理とは違くても、知る事でそれを理解する事ができるのだろうか。
相変わらず怖い、立っているだけで不安で、寄るべない恐怖に涙が出そうになる、常に不安でイライラする。
でも、でも!!!!
手の中で光が、小さく瞬いた気がした。
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【狂気山脈帰還後】
オカルトに傾倒、科学だけではなくあらゆる呪術的な防護を施したウェアを作成するようになる。
以前は自分が存在してはいけない場所は無いと証明するため、自作のウェアで極地(山など)に登っていたが、現在はこの世で自分の存在していい場所を、それが例え服の中だけであっても、作りだす為に日々研究を続けている。
未だ満足行く服は作れていないので、恐怖や不安、焦燥感から常にイライラしている。
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