幼い頃に刃お姉ちゃんに誘拐されて、キスや筆下ろしで精通までさせられた丹恒。ずっと刃の事を忘れられず頭の片隅にあったけど、ある日突然刃は引越してしまいそれから会えずじまいになっていた。大人になった今、当時刃が働いていたソープに行ってみることに。
意を決して店内に入ってみたものの、女の子の一覧には刃の姿がなく、流石にもうこの仕事を辞めたのかと愕然として帰ろうとしたら、店の奥から電話を持った店員が現れ丹恒に渡してくる。
「刃ちゃんに何か用かしら」
電話の主はここ一体の風俗店を取り仕切っているカフカだった。
「刃ちゃん、今は固定客の相手しかしてないの。その人にもうすぐ身請けて貰う予定よ。でも君は何か話したいのでしょう?今夜、もう一度この店にいらっしゃい」
その話を聞いて胸の中に異様な焦りが過ぎる。
身請け、つまり刃はこの仕事を辞めて誰かのものになる。それは、ここで身を売るよりずっと良い事なのだと頭では分かっている。けれど、どうしようもなく不安定な感情になる。とにかく彼女の言う通り夜まで待つことにしようと店を後にする。
夜になり再び戻ってくると、何を言う前に最上階の部屋へ通された。やたらと絢爛豪華な部屋の中には、肌の透けたドレスを着た、あの頃と変わらぬ陰鬱とした表情の刃が1人ベッドに座っていた。
静かに丹恒を見詰める暗い瞳を見ているうちに、ふと、自分が彼女に会って話したいことを何も考えていなかったことを思い出す。けれど何かを話さなくてはと思考を巡らせ、口を開こうとするより先に、刃の方から声が上がった。
「何をしに来た」
淡々とした口調は記憶の中より冷たいものだった。
「お前にもう一度会いたくて」
そう告げると、刃は鼻で笑った。
「ならもう願いは叶ったな。出ていけ」
これ以上話す気はないとばかりに突き放され、丹恒は黙り込んでしまう。
すると背後から扉の開く音がして、誰かが中に入ってきた。
「刃、そう邪険にするものじゃない。彼だって君に会いたくて態々足を運んでくれたんだろう」
悠々としているが凛とした品格がある声音の人物は、驚くべきことにテレビなどでも目にする都知事の景元だった。まさか、刃の身請け人というのは彼のことなのだろうか……?
「初めまして、丹恒殿。私は景元という者だ。気軽に景元と呼んで欲しい」
柔和な笑顔を浮かべながら、刃のいるベッドの傍の椅子へ腰掛ける。
「彼女とは幼なじみでね。長い付き合いではあるが紆余曲折あって、彼女を身請けることになった。勿論、その後は結婚するつもりでね」
分かっていたことだが、結婚という単語を聞いて明確に動揺していた。
「心配しなくとも、私が必ず幸せにすると約束する。
そうだ、折角会いに来てくれたついでに、君と丹恒殿のことを少し教えてあげてもいいかい?刃」
刃は暫く逡巡した後、「好きにしろ」と呟いた。
景元からは以下のことが知らされた。
丹恒にとっては知らぬ事ばかりだった。
応星♀と刃♀の姉妹には父親が残した大きな借金があったこと。
応星は妹の刃との生活費と借金の返済のために無理をしてまで金を稼いでいたこと。
そんな中で丹楓と出会い、稼ぎの良い仕事をするようになったが、ある時"失敗"して2人とも消されたこと。
刃は応星がいなくなった後、1人で残りの借金を返済するため、身を売って働いていたこと……。
「君は、丹楓とは年の離れた兄弟として育てられたと思うが、実は丹楓と応星の間にできた子なんだよ」
俄には信じられず、たじろぐことしかできなかった。大きな失敗をした2人の子供となると体裁が悪いために、家族からは丹楓の弟として育てられたのだという。
「俺は…」
景元の言葉に続けるように、刃は俯いたまま話し始める。
「応星を誑かした男が憎かった。だから、その男と応星の息子の貴様も憎くて仕方がなかった。傷付けて復讐してやるつもりだった。……だが、お前のせいで俺は、弱くなった。
お前の顔などもう見たくはない。しかし、最後にそんな顔が見れて清々した。復讐は、もう十分だ」
刃は憑き物が落ちたような顔でふっと優しく微笑んだ。
今まで見た事がないほどに涼やかな笑顔だった。
自分は今どんな表情で、彼女を見詰めているのだろう?
確かに彼女にされたことは生涯忘れることのできないことばかりだ。傍目から見れば誘拐に猥褻行為……。しかし与えられるのは痛みではなく、心地の良さだった。居場所のない家で一人で眠るより、彼女に抱き締められて昼寝をする方が幸せだった。
今初めて、彼女に恋をしていたことを自覚した。恨まれていたなどとは知らず、ただ彼女のことが愚直に好きだった、と。
「俺は、お前のことを何も知らなかった。だが、お前のことを愛していた。あの頃から今もずっと」
刃はくつくつと笑う。
「それは良いことだ。俺はこの男の女になると決め、貴様と二度と会うことはないだろう。丹恒?
……精々、俺を焼き付けることだ」
にんまりと微笑んで、丹恒の傍に寄ると、刃は丹恒の唇に深く口付けた。甘い唾液を流し込み、丹恒の喉の奥へ吐息を押し込む
赤い瞳は満足げに細められていた。
刃に伴って、景元も部屋を後にする。
丹恒の唇には、刃が昔からよく付けていた甘い香りのするボルドーのグロスが鮮やかに残されていた。