抗う者達⑦ ──だというのに。
何かが、何かがそびえ立っている。
「……うげぇ……」
呆然と、えべたんが呟いた。
突風に見舞われ、避けるために入った洞窟の中で、四人はそれを見つけた。
奇妙な生物の化石だった。
身の丈は2.5メートルほどか。
胴体は表面が畝のようになっている樽と表現すればいいか、細い腕が放射状に突き出ており、胴体の頂と底にはコブもしくか球根に見えなくもないものが生えている。
「古代の海底生物みたいな姿だな」
杉山が言う。
「あー、なんかそんな感じに見える。古代生物って大体変なフォルムしてるよね」
納得してうなずくえべたん。
「……本当にそう思うか?」
八木山の言葉に杉山はため息をついた。
「お前はまたそう不安がらせるようなとを言う」
杉山が言い、
「まぁ、あのドロドロした奴のこともあるし、仕方ないけどー」
と肩をすくめるえべたん。
「それはそうだが……って、あずあず?」
穂高の異変に気付き、杉山は彼女の顔を覗き込んだ。
「っ、」
穂高は目を見開き、化石を見上げたまま硬直している。
顔面が蒼白だ。
「え、梓ちゃん、大丈夫!?」
えべたんがとっさに肩を揺する。
「梓さん、……わっ!」
八木山は呼び掛けたところで、穂高は失神して膝から崩れ落ちた。それをえべたんが抱き止めつつ地面に寝かせる。
「そういえば、梓ちゃんは初めてじゃない? ヤバイ生き物見たの」
えべたんが言う。
「事前に説明してはいたが、やはり目の当たりにするとショックだよな……」
と八木山。どうする? と杉山が問えば、
「ビバークだな」
答える。
「でもここではマズイから、他の場所へ移動しよう」
「荷物はえべたんが持つよ」
「頼む」
えべたんが穂高のザックを外し、杉山が彼女を抱きかかえた。
洞窟を出ると幸い突風は治まっていた。少しさまよった末に、ビバークにちょうどいい岩陰を見つけてテントを張る。
穂高のテントに彼女を寝かせたあと、三人で八木山のテントに集まり、少し早かったが晩御飯を取ることにした。
「梓ちゃんは少し怖い顔してるけど、静かに眠ってるみたいだし、とりあえずは大丈夫じゃないかな」
食事時ギリギリまで穂高に付き添っていたえべたんが言った。
「そうか。なら目を覚ませば、あとは大丈夫そうだな」
八木山が胸を撫で下ろす。
「もうふほひでななへんへーほるなは」
お湯で戻したフリーズドライタイプのリゾットをはふはふ食べながら杉山が言った。
吹き出すえべたん。
「徹心めっちゃウケるんですけど」
「口の中を空にしてから言え」
目を座らせて八木山が叱る。
「むぅ」
はふはふほふほふもぐもごごっくんし、杉山は改めて言った。
「もう少しで七千メートルだな」
「そうだな」
八木山が相槌を打つ。
「見つからなかったらどうするんだ」
「……引き返すさ」
「!」
杉山は目を丸くした。
「え、引き返すの?」
えべたんも驚いている。
「お前のことだから、てっきりもう少しねばるのかと思っていたが」
「えべたんもそのつもりでブラックアイスフォール登る気満々だったんですけどー」
えべたんだけまだ垂直登攀の先鋒をこなしていないので、この先では大活躍する予定でいたのだが、完全に肩透かしを喰らった形だった。
二人の反応に八木山は苦笑した。
「最初はそのつもりだったさ。せめてブラックアイスフォールだけでもって。……だけどな」
そこで彼はため息をつく。
「あまりに行程が不穏すぎる。俺一人ならともかく、お前等まで命の危険にさらすわけにはいかないだろう」
杉山の滑落に、自分の転落。今思えばえべたんの落石も同様だったかもしれない。
「決定打になったのは梓さんが失神したことだ。これ以上の精神的負担も、登攀に甚大な影響を及ぼしかねない」
「まぁ、確かにそうだが」
唸る杉山。険しい顔で彼は続ける。
「しかし、何も見つけられなければ……」
睡眠を確保できないお前の体はどうなる、と言外に問う。
八木山は小さく微笑み、首を振った。
「実は、案外どうにかなりそうな気がしてるんだ。捜しに来ることができただけで、充分気持ちに余裕ができているのかもな」
「でも睡眠時間増えてないっしょ」
えべたんが指摘する。現状は彼女の言う通り、それどころかむしろ減っていると言ってもいい。
彼女の言葉に、八木山は答えた。
「下山までに見つけられなければ、いったん気持ちの整理がつくだろう。もちろん諦める気は更々ないが」
今回が駄目なら、また登るだけだ。見つけるまで何度でも挑んでやる──八木山はそういう気概でいた。
「……」
えべたんは珍しく難しい顔をして黙り込んだ。
「徹心は自分と向き合い、歩む道を選び直したんだし……えべたんだってK2との約束があるだろ?」
「まぁ、ね」
うなずくえべたん。
「だから、助けを求めはしたが、俺のわがままで犠牲にするのは本意じゃないんんだ」
「そうか」
杉山は八木山の決定を尊重することにした。
「ならばもう何も言わん。最悪、四人で無事下山しよう」
「……そだね。ネオステの社長とも約束してるし」
「コージーを悲しませたら怒られるからな」
素直じゃない青年の、殊勝にも心配そうだった顔を思い出し、杉山は笑った。
「とはいえ、七千メートルまでもう少しあるし、下山途中で見つかるかもしれない。まだ諦める段階じゃないからな。最後まで、引き続き捜すぞ」
「任せろ!」
「おっけー」
二人からサムズアップが返る。八木山は仕方ないなと親指を立てた。
「あ、梓ちゃん」
しばらくしてテントのファスナーが開き、穂高が顔を出した。
「ごめんなさい、気を失ってしまって」
彼女は白い顔で申し訳なさそうに謝る。八木山は手を振った。
「気にしないでくれ。あんなものを見たら誰でもショックを受けるだろう」
「私達は前回もいろいろ目撃して耐性があっただけだからな」
と杉山。
「はい、梓ちゃん、お茶。ちょうど今淹れたところだから、温まって」
「ありがとう……」
えべたんからお茶の入ったカップを受け取り、一口すする。
「やっぱりこういう時にお茶って落ち着くわね」
「日本人だからね」
穂高の言葉にえべたんが笑う。
「……本当に、異様な山なのね」
ぽつりと呟く穂高。
「話には聞いていたけれど、想像以上」
改めて共に死の淵をのぞく覚悟を決めたはずなのに、決意した矢先に失態を見せてしまったと、穂高は落ち込んでいた。
「いや、今回は前回以上にヤバイからな」
杉山が言う。
「情けない話だが、正直あの化石を見た瞬間、『あ、勝てない』って思い知らされ、心臓が握り締められたような恐怖を覚えた。化石だったからまだ良かっものの、実際に生きていたらと思うとゾッとするよ」
体を縮こませる杉山。穂高は口元に手を当てて考える仕草を見せた。
「前に杉山君が言っていた、ミスカトニック大学が隠蔽していたって話、これが理由だったのかしら」
前回、思い出したと言って下山後に語った、狂気山脈にまつわる話のことだ。登山前、杉山がオーストラリアで調整中に見つけたオカルト雑誌からの情報によると、狂気山脈は1930年頃にミスカトニック大学の南極調査隊によって発見されていたにもかかわらず、その事実は隠蔽されたのだという。
理由はオカルト雑誌の名にふさわしく、人間には理解しえない異文明やモンスターの存在によるものだとしていた。
情報源が情報源ゆえに、杉山は忘れてしまうほどまともに受け取らなかったが……
「だろうな」
正しかったというわけである。
「鯨を倒した男でも、アレは駄目か」
八木山が苦笑する。
「あぁ。本能的に無理だと悟った」
「杉山君は戦うことを知っている分、そういう目線で瞬時に判断できてしまうのね」
穂高は納得した。
「私は、見た瞬間は冷静でいたの。これが言っていた化け物かって。本当に目の当たりにしてしまったって」
そこで穂高は身震いをする。
「でも次の瞬間、何処からか恐怖が物凄い勢いで押し寄せてきて、あっという間に恐慌に陥ってしまった。あれは、あれはいったい、なんだったのかしら……」
理解を超えた事象に対する恐怖という理解すら、遥かに凌駕してしまった未知の恐怖、だろうかと穂高は分析する。
「梓さん」
考え込む穂高に八木山が呼び掛けた。
「はい」
「七千メートルに到達したら引き返すよ」
「八木山君」
穂高は耳を疑った。もはや諦めてすらいた心配が杞憂になるとは思わなかった。しかもそれを他でもない八木山がもたらしたのだから無理もない。
「だから、もう少しだけ一緒に頑張ってもらえないか?」
「もちろんよ」
心は今だ未知の恐怖に取り付かれている。しかし穂高の口は即答していた。
そこまで彼女の心は折れてはいなかった。
翌日。天候は降雪。
引き続き穂高が先頭に立ち、ひとまず次の壁までの行程をこなす。
それからビバークにするかどうかを話し合った。雪によって視界が制限される中、ナビゲートによる垂直登攀をすることに一抹の不安はあったものの、一ピッチのみということもあり、登ってしまおうことになった。
ナビゲートは八木山が行い、登攀をえべたん、ビレイヤーは穂高が務める。えべたんは満を持しての垂直登攀だ。とても張り切っていた。
「そんじゃ、やぎサン、よろしく!」
「あぁ。だが何か少しでも違和感があったら、俺の指示は無視して止まれよ」
「分かってるし! それ当然っしょ」
「頼むぞ」
八木山の言葉にえべたんは明るくオッケー! と返す。
「それじゃ行っきまーす!」
言うが早いか、早速登攀を開始するえべたん。その姿からは緊張も恐れも感じない。
おととい、八木山の転落を目の当たりにし、その命を背負わされたばかりだというのに。
「……」
彼女の天真爛漫さに救われているなと八木山は思った。しかも彼女は天才的かつ堅実な登山の才能によって実力を裏打ちされた一流のアルピニストだ。仲間としてこれほど頼もしい相手もそうそういないだろう。
きっと、約束通りいつかK2ともこの狂気山脈を制覇するに違いない──そう思わせる強さが、えべたんにはあった。
……だから、守られていたりするんだろうか。
「えべたん!」
三分の二ほど登った辺り、八木山は瞬時に叫んでいた。えべたんも気付いたらしく、片手を振って合図を返す。
「何かあったのか?」
杉山が尋ねた。分からないと八木山は首を振る。
改めて見ても何もない。
しかし一瞬、えべたんが手をかけようとしていた氷の下で何かが揺らめたように見えたのだ。今は気のせいかと思えるほどなんの形跡もないが、えべたんも気付いて止まったのである、決して看過していいものではないはずだった。
「念のため戻した方がいいわ」
八木山の不安を受けて穂高が提案する。八木山もそのつもりだった。どうせ現在のルートが使えなければ登り直すしかない。
えべたんに下るよう指示を出すと、がっかり肩を落としてため息をついていた。
「さすがに連続は無理だわ」
下りてきたえべたんが愚痴をこぼす。やる気に水を差されたのだから不満も当然だろう。
「だが何事もなかったのは幸いだったし、あのルートが使えないと分かったのも収穫だ」
八木山がフォローする。
「次は私が登ろう」
杉山が言った。
「何か少しでもおかしなことがあったら止まれよ」
「まさにそれでウチも助かったからね!」
「分かっている」
杉山は神妙にうなずいた。滑落の記憶があるので、さらに気を引き締めなければと気合いを入れた。
杉山は難なく登攀を終えた。
アレはいったいなんだったのだろうかと、八木山は内心で首をかしげる。しかしすぐに頭から振り払った。狂気山脈での出来事に答えを求めるのは不毛だと思い直した。
おそらく、人間には分かるはずもないものなのだ。前回の登山の時からそうだった。考えるだけ無駄だ。警戒を怠らないようにするくらいしか対策がない。
「もう少しで七千メートルだな」
八木山は言った。
「……雪の様子があまり良くないわね」
雪の降り具合を見回して穂高が呟く。
「周りが見えないんじゃ志海サン捜せないよね」
肩をすくめるえべたん。
「だがとりあえず壁からは離れよう。落ちたら事だ。移動するのも今の内だろう」
「それもそうだな」
杉山の言葉に八木山はうなずく。
「俺が先行する」
そう言って歩き出す八木山。とにかく壁から離れ、同時にますます強くなっていく吹雪をできるだけ避けられるような岩陰を捜す。そこでビバークとなるだろう。
「これ、まじヤバじゃん! もうホワイトアウトだし!」
ある程度進んだところでえべたんが音を上げた。辺りは横殴りの吹雪で真っ白に閉ざされかけていた。
「これ以上は無理か。仕方ない、あそこでビバークとしよう」
八木山は言った。かろうじて見える範囲に岩陰があった。なんとかそこまで移動し、四人は速やかにテントの準備を始めた。
「今日で六日目か」
杉山の言葉に八木山はうなずいた。
「ちょうど食料半分消費して七千メートル、か」
「下山に少し時間かけても良さそうなんじゃない?」
えべたんが言う。しかし八木山は眉をひそめた。
「トラブルが起きた時のことを考えると、あまり猶予はないかもしれないな」
「切り詰めても伸ばせて五日ってところかしら」
と穂高。
「でもできれば避けたいな。こんな極限の果てみたいな山で無茶はするべきじゃない」
八木山が答える。現在地から身の安全の確保ができる場所まではあまりに遠すぎるのだ。食料が尽きてしまえば、下山すら困難になる。下山できなければ、死あるのみだ。
──ところが。
「やぎサンは本当にそれでいいワケ?」
「!」
ふいに、えべたんが問うた。
彼女の視線がまっすぐ八木山の目を射ぬく。
杉山と穂高も八木山を見た。
緊迫した沈黙がしばし通過する。
「……」
八木山はため息をつきながら空を仰いだ。
「いいわけない。……いいわけないだろ」
視線を戻した彼の顔には苦渋が滲んでいた。
本当は、そんな簡単に割り切ることなどできやしなかった。
狂気山脈は軽い気持ちで何度も挑める山ではない。せっかくの稀な好機なのだ、正直なところ、可能な限り足掻きたかった。
八木山は、自分の睡眠不足や命がどうこうではなく、ただ純粋に、志海を諦めたくなかった。
しかし。
「じゃぁ、もう少しぐらい」
「駄目だ」
いい募ろうとするえべたんに、八木山は言い切った。
「言っただろ。えべたん達の命を危険にさらすのは本末転倒だし、不本意なんだ」
固くなな意思で以て八木山は返す。三人を守るために、絶対に無事下山させるために、揺るがせてはいけない決断なのだと、彼は考えていた。
「でもさ!」
それに対し、えべたんは跳ね返すように強く言い返した。
「志海サンを捜しにきたのはやぎサンだけじゃないんだよ! ウチだって志海サン見つけたい!」
「えべたん……」
「昨日話したようにブラックアイスフォールは登らない。無事下山する約束を蔑ろにするつもりないし。でも、せめてもう少し時間かけようよ」
強い意思でもって八木山を見つめるえべたん。
それから杉山と穂高を見回し、言った。
「志海サン捜したい。手伝って」
「……八木山」
やがて杉山が諭すように呼び掛けた。
「はぁ……」
八木山は深くため息をついた。
「梓さん」
うかがうように名を呼ぶ。穂高は苦笑いを浮かべた。
「下山する速度を少し落とすだけなら大丈夫だと思う」
「分かった」
八木山は観念した。
「七千メートルに着いたら一日重点的に見回ってみよう。それで見つからなければ、ゆっくり下山しながら探す。……これでいいか、えべたん」
「おっけー! さんきゅー、やぎサン!」
えべたんはぱっと笑った。
「……いや、こちらこそ、ありがとな」
八木山は小さく礼を告げた。きっとえべたんは八木山の気持ちを代弁してくれたのだ。志海を捜したいという希望も、確かに本心ではあろうが。
それゆえの、礼だった。
「べっつにー。ウチは自分がしたいと思ったことを言っただけだし」
言われたえべたんは両手を広げてとぼける。
かなわないな、と八木山は苦笑した。