抗う者達⑪ ──現在地、日本百名山の一つに名を連ねる某山山頂。
天候は快晴無風だ。格好のトレッキング日和だった。
山からの景色はとてものどかで、少し冷えた空気も山登りで温まった体に心地好い。
とても平和な登山だった。ハンデがあるにしても、志海にはとてもぬるい登山であった。
「梓ちゃんとK2さんも来れば良かったのになぁ」
えべたんがぼやく。もう何度目だろうか。いい加減諦めればいいのに、うるさいなぁ。
「仕方ないだろうが。穂高は仕事だし、K2は同じ時期に他の山登る予定だったって言ってただろう」
コージーがわずらわしそうに返す。……コージー。志海はやっとこの金髪の青年の名前を覚えた。
「今頃エベレストかぁ。療養から復帰して、もうエベレストとか凄いよねぇ」
「連続で狂気山脈登った奴が言うセリフか? それよりテッシンの名前もたまには上げてやれよ」
コージーが言う。えべたんが上げた名前の中に杉山はなかった。
「徹心はいいんだってば。登山やめるって言ってたし、客来なくても店開けとかないと信用なくすって言ってたし、せっかくのタピオカ専門店なくなるの困るし」
「……そうかよ」
そんな会話を聞くとはなしに聞きながら、志海はコンビニおにぎりの封を切る。
「へぇ、器用に開けられるもんだな」
志海の手元をのぞき込んでコージーが感心した。
「はぁ、これくらいなら別に」
ぼんやりと志海は返した。
志海の両手指は一部が欠損している。凍傷による壊死で切り落とすしかなかったのだ。
他にもベースジャンプの際に骨折した左足を脛の中ほどから下、右足は指全部を失っており、義足を着用している。
できなくなったことがいろいろあるが、意外にもそれほど不便を感じていなかった。
「で、志海サン、久し振りの登山、どう?」
えべたんが尋ねた。志海を今回のトレッキングに連れ出したのはえべたんだった。コージーが日本に来ているから日本の山に登ろうとかなんとか。志海サンもリハビリに一緒に行こう! と言われて、はぁ、まぁ、試しに行ってみようかと考え、ついてきた。どうせ断っても無理矢理駆り出されるんだろうなと思うと、とたんにめんどくさくなったというのもあるが。
「そうですねぇ、まぁ、こんなもんじゃないですか」
義足にしたことで、今までのような登山ができなくなったのは事実だ。狂気山脈でのダメージと、そのあとの長期療養により、身体能力も大きく低下している。しかしそれでも、この程度の山なら志海には全く問題なかった。
「やっぱ、志海サンには物足りないかー」
えべたんが笑う。
「いくらハンデあるって言っても、富士山ですらないしな」
とコージー。
「だから言ったっしょ。今の富士山はヤバイんだって。登山客多すぎで、山頂で渋滞したりすんだから」
そう言って両手を広げて肩をすくめるえべたん。
富士山は世界遺産に登録されたことにより、急激に登山客が増えた。……正直なところ、この場にいる誰もが、人の多い場所には行きたくなかった。狂気山脈初登頂を果たし、行方不明者も発見し、生きて帰還してきた彼等は世界的に有名となってしまったのである。煩わしいので注目されたくなかった。
「あの、もしかして狂気山脈に登られた方々ですか?」
──こんなふうに。
おずおずとしながらも、初老の男女数人が話しかけてきた。
「あ、はい、そーでーす」
えべたんが答える。コージーは日本語が分からないので、首をかしげるだけだ。
「まぁ! 偉業を成し遂げた皆さんにお会いできるなんて、とても光栄です。本当におめでとうございました」
一人の女性が顔を輝かせて言う。
「ありがとうございまーす」
えべたんも笑顔で答える。
「志海さん、だったかな。君も戻ってくることができて何よりでした」
男性が言う。
「あ、どーもー」
志海はいつもの作り笑いを見せて会釈した。
それから相手は三人の顔を見回し……一瞬何か言いたそうにしたが、やめたようだった。
「それでは良い登山を」
それではー、それではー、と登山グループは離れていく。
「何言ってんのか分からなかったが、すぐに去ってくれて良かったな」
コージーが言った。
「ホントそれなー。結構、面倒な奴とかいるしー」
厄介な記憶を思い出したらしいえべたんがため息をつく。
「有名人はツライですよねー」
志海も小さく息をつく。帰国後の大挙してくるマスコミやら野次馬やらのあしらいに苦労したのは志海もだった。オスコー財団やネオステリクス、日本の警察のサポートがなければ、療養も日常生活も脅かされていたに違いない。志海達下山者はニュージーランドだけに限らず、世界の英雄という扱いを受けていた。何かあったら国際問題になりかねないということらしく、それなりに手厚く保護されていた。
「志海サンはまだいいよ。ほとんど病院にいたんだから。ウチ等なんかさー」
「あー、はいはい、タイヘンデシタネー」
何度も何度も聞かされた愚痴。もう満腹である。適当にあしらった。
もぐもぐとおにぎりを頬張る。三口で一個を食べきった。コンビニのおにぎりは小さいので食いでがないからこまる。
次にレジ袋からサラダチキンを取り出した。手軽に買えるたんぱく質なので以前からよく買っていた。封を開ける。力の加減調節が必要なので少しだけ手間取った。だが問題というほどではない。コージーが手助けするべきか気にして見ていたようだが、結局何も言わなかった。志海とて望んでいない。筋トレをもう少し増やそうかなぁと考えた。
「あ、そうだ。志海サン、次どうすんの?」
えべたんが思い出したように志海に尋ねた。
「次?」
「次の山に決まってんじゃん。登らないの?」
「登りますよ」
志海は即答した。求めるものはまだ手に入れていない。他の生き方など考えたこともないし、わざわざ考えるのも億劫だった。──今は、まだ。
「でもまだ決めてないです。この体でどれだけやれるのか分からなかったので。……それを思うと今日はいい機会でした。ありがとうございます」
「……」
「……」
えべたんとコージーからは奇異な目と沈黙が帰ってきた。
「なんでしょ?」
「志海サンがお礼を言った……」
「シウミが礼を言った……」
「いや、言いますよ、普通に」
いくらなんでもそれはひどくないですか。まぁ、いいですけど。志海は肩をすくめる。
「だって志海サン、今回の話、絶対迷惑がってると思ってたし」
「……分かってるなら誘わないでくださいよ」
基本、志海に誰かと馴れ合う気は全くない。狂気山脈の時のように、目的のために結果として群れざるを得なかったのならまだしも、そうでないのなら極力他人と関わり合いになるのは御免被りたいのだが。
「え、ヤダ。一緒行きたいじゃん」
「そーですか……」
なんというか、いろいろ弊害だなぁ、と志海。
それはさておき、もぐもぐとサラダチキンを頬張る。次の山のことを考える。できれば海外に行きたい。日本は狭いし低い。しかも同じ国の人間で言葉が通じる分、他者に絡まれやすい。
しかし今の体のことを考えると、時期尚早と言えなくもなかった。自らリスクを背負うのは本意ではない。志海は死にたいのではなく、万全のコンディションで極限状態に挑み、その最中で生ききりたいのだ。となれば、海外の山は今はまだ無謀の域と言えるだろう。
──あの時、あのまま死ねていればこんな悩みなど抱かずに済んだだろうにな。志海は内心でため息をついた。登る山に困るなんて、今までなかったことだ。非常にめんどくさいことこの上ない。
それを思うと、
「八木山先生って、本当、ひどい人ですよね」
と、恨み言の一つや二つくらい、出てきてしまうのも当然だろう。
……が、
とたんに。
「……」
場が一瞬にして静寂に包まれた。
「なんでいきなりディスられなきゃならん」
間もなく志海の背後から声が降る。
「次登る山の話してたはずなんだけど」
とえべたん。
「突然ヤギヤマの話になるからビックリしたわ」
コージーも言う。
「で、どう俺が悪いんだよ?」
「だってそうじゃないですか」
もごもごと二つ目のおにぎりを頬張りながら志海は返す。
「この体なので、次登る山を決めかねてて、めんどくさいなって」
志海が答えた。
「それで捜しに戻った俺のせいか。知るか」
「えぇ、そうでしょうけど」
そう言って志海は肩をすくめた。本当に八木山の言う通りで、以前にも話した内容に通ずるが、志海の都合は志海のものであり、八木山の知ったことではない。
が、逆も然りなので、やはり若干恨めしいのも事実だった。
「っていうかヤギヤマ、何処まで写真撮りに行ってたんだ」
コージーが尋ねる。
「そーだよ。どんだけ小説の資料用撮ってきたんだよ。待ちくたびれてお昼食べてたじゃん」
えべたんも言った。
「すまん。お前等に話かけたそうにしていたグループがいたんで、様子見てたんだ」
八木山は苦笑した。
「は!? 一人退避して見てたの!? ひっど」
「お前、ひどい奴だな」
えべたんとコージーが八木山を批難する。
「だから言ったでしょう。八木山先生はひどい人なんですよ」
あははと笑う志海。
「まぁまぁ、いいだろ。すぐいなくなったんだし」
「それ結果論って言うんですよ、先生」
「お前に正論で諭されるのは癪だなぁ……」
「僕は僕でそれ心外だなぁ」
しかしえべたんとコージーは首を振った。
「志海サンは言えた立場じゃないと思う」
「正論ぶっちぎって死ににいく男が何言ってんだ」
「ほらな?」
「えー」
矛先が八木山から自分に移ってしまった。こうなると完全に流れが悪いので黙ることにする。
「……お前が登れそうな山な、実はいくつかリストアップしてあるんだ」
突然八木山が言う。
「え」
「でもここが登れたんなら、もう少し難易度上げてもいいな」
まさか、と嫌な予感がする。
「一緒に登るつもりとか言わないですよね?」
「海外に出るなら、お前一人より、実績のある誰かと一緒の方が利点あるだろうが」
「……」
確かに。障害を理由に他の登山者や現地の人間に嫌厭されないようにするためには、実績のある同行者という存在は非常に有益である。
「志海サン、スゲー顔してるし」
気付けばえべたんがスマホを掲げて撮影していた。あとで杉山に見せるらしい。志海も今食べているおにぎりに入った梅干しのように渋い顔をしている自覚があった。
「あ、スケジュールが合えばウチも一緒に行っていい?」
「いいんじゃないか?」
良くないです。全く良くないです。そう言いたいが、言えない。
「全然良くないって顔してんぞ」
コージーが言う。
「知ってる」
「うん、分かる」
八木山とえべたんがしれっとうなずく。
「……はーーーーーーーー」
とうとう志海は観念した。八木山が提示した利点は諦められなかった。となれば、彼を利用できるだけして早急に実績を重ね、自立するしかない。
志海は頭を切り替え、脳内で筋トレのスケジュールを組み直し始めた。
本当に、この八木山という人間はひどい男だ。
いや、彼だけではない。えべたんも、そして杉山も、同様だ。
あぁ、全く以て調子が狂う──
二回目の刺激で、八木山は息を吹き返した。
深い安堵が部屋を満たす。
外で待機してた医療スタッフが、八木山を速やかにタンカで運び出した。それに続こうとした穂高は目を覚ましていた志海を気にしていったん立ち止まったが、杉山が軽く手を上げて合図すると、うなずいて退出する。
部屋に残ったの杉山と、えべたんだけだ。
「ッ、」
「わっ、と」
緊張が解けた志海の体から一気に力が抜ける。腕から滑り落ちた志海を、えべたんは慌てて支え直し、静かにベッドへ横たわらせた。
「どうにか、持ちこたえたな」
片手で顔を覆い、震えるため息とともに杉山が呟く。
「ギリギリだったんじゃんね……」
えべたんも彼女には珍しく気落ちした声で言う。それもそうだろう、今まさに仲間の死を垣間見たのだから。
八木山が自覚していたかどうかは分からないが、彼は限界を迎えていた。だが、危ういところでなんとか全ての要因が間に合ったのだった。
「……んで、来た……です……」
なんで来たんですか。志海は問う。
「愚問だろ、それ」
苦笑いを浮かべながら答える杉山。あの八木山が志海を放っておくわけがない、ということだ。……もう一つ、一番重要な理由があったわけだが、杉山は伏せた。志海が文句を言いたいのは八木山が捜しに戻ったという事実についてであり、何故と問うたものの、実際にはその理由は問題ではないだろうと判断した。
そしてその通り、志海は続ける。
「完璧、だったの、に」
「……」
「生きる、意味なんか、もう、ないの、に。あれ以上の、ものなんて、この先もう、絶対、手に、入らない、のに」
彼にとって、ベースジャンプの出来事は最高の瞬間だった。あのまま死ねたら良かったのにと、志海は心から思っていた。
──長いこと頭の奥底に押し込め封じていたものが、何をきっかけにしてか、ぞろりぞろりと這い出てきていた。それ等は、普段なら絶対に他人へは明かさないであろう本音や恨み言となって、志海の口からあふれ出ている。
それを聞き、杉山は──眼鏡がない志海に見えているか分からないが──小さく笑って首を振った。そして、
「生きようとしていた奴が言うセリフか」
志海の主張を容赦なく切り捨てる。
「……」
閉口する志海。杉山は続けた。
「お前のザックの中に、登山中には食べなかったドライフードの空袋が入っているのが見えたぞ。死にたかったなら、墜落したその場で静かに寝てしまえば良かったんだ。そうすれば無事凍死できた。死ねば何も、私達がお前を捜しているところだって、知ることはなかっただろう」
だが志海は立ち上がった。下山するために。怪我をした足をひきずり、手持ちの食料を切り詰めながら、山の中をさまよっていた。
志海は生きようとしていたのだ。それは紛れもない事実であった。何をどうして七千メートル付近の洞の中にいたのかは分からないが、彼が生きようとしていたから、八木山達はあそこで彼を見つけたのである。
……死ねなかった志海には、何も言えなかった。
「なぁ、三郎」
杉山は改めて志海の名を呼んだ。動物全殺しの異名が不釣り合いなほど、ひどく穏やかな表情をしていた。
「諦めるにはまだ早いぞ」
「徹心がそれ言うんだ」
言葉とは裏腹に、好意的な笑みを浮かべてえべたんが言う。杉山は立ち向かうことを諦めた男なのだ。その彼が、諦めるなと言う。
杉山がうなずいた。
「あぁ、私は諦めた。あの狂気山脈という強大な存在に、心を折られたんだ」
「そう、なんですか?」
「そうだ。……だが、新たに見つけたものもある」
「タピオカの美味しさ、とかねー」
えべたんが揶揄に杉山は笑う。
「タピ、オカ?」
「そう、タピオカの美味しさとか、な。あながち馬鹿にしたもんでもない。私は日本に戻ったらタピオカ屋を始めようと思っているんだ」
タピオカには、大事な思い出が詰まっている。その身を血で染めながら破壊と暴力を振りかざしてきた杉山は、大事にしたいと思ったものを、大事にするという生き方を見つけた。それを最後まで貫けるかどうかは分からないが、彼は挑もうとしている。
「そんな私だからこそ言うんだ。諦めるにはまだ早い。お前が何故あんな登山をしながら生きてきたのかは知らないし、知りたいとも思わないが……お前は山を登り続けるべきだ」
そう、杉山は断言した。
「お前の中にはまだ“山”がある。それこそがお前を生かしたものの正体だ。だから、登り続けろ。良いものにせよ、悪いものにせよ、必ず何かが見えてくるはずだ。それはきっと、お前の指針となってくれる」
「悪いもの、でも、ですか」
「あぁ。私には、それを否定する権利はないからな」
何せ、動物全殺しという業持ちの男なのだ。
「そういう、もん……ですか、ね……」
志海は呟いた。
「そういうもんだ」
うなずく杉山。
「そーそー、そういうもんだよ」
えべたんも同意した。
「そー、ですか……」
そもそも生き残ってしまった以上、やめるつもりはなかったけれど……志海は少し思考を巡らせた。
「まぁ、私はあまり心配していないけどな」
苦笑する杉山。志海は、どうしてですか? と目で問う。
「お節介がいるだろう。誰とは言わないが」
「一人とは限らないしねー」
「あー……」