帰宅した扉を開けると、家を出た朝方にはあった筈のスニーカーが一足無くなっていた。
その事実を淡々と受け止めて、いつも通りに玄関の灯りを点けると靴を脱いで中へと足を踏み入れた。
短い廊下を真っ直ぐに進んでいけば、突き当りのリビングへ向かう途中にある台所がふと目につく。
そのシンクの中には、淡いオレンジのグラスがひとつ。食器棚に入った青色のグラスと揃いの形をしたそれが、使ったまま洗われることなく放置されていた。
これは後で片付けよう、と頭の中で結論づけて、キッチンを離れるとリビングの照明を入れる。
照らされたその空間を見つめて抱いた、何となしの違和感。
普段は自らの手で整えられたその空間が、今はどうも整然さを欠いている。
テーブルの上のリモコンは定位置から外れたところに転がっているし、ソファの足元には何やら布の端がちらついている。
それを引っ張り出してみると、明らかに自分のものではないジャージの上着。
ここ数日は急激に暖かくなってきて確かに薄手の羽織物すらも必要ない気候ではあるが、こんな場所に放置するとはいかがなものだろうか。
思わず小さな溜息を吐くと、まずはこれを片付けようかと洗面所へと向かった。
そこにある洗濯籠にひとまず掛けておこうとして覗き込むと、一番上に皺になったまま放り込まれたTシャツが目についた。
まさかこれも入れたまま存在を忘れていったのだろうか、あわよくばついでに洗っておいてもらおうという魂胆であえて置いていったのか。
今ここでその理由を考えたところで、きっと当の本人にすらもさして深い理由はないのだろうと勝手に結論付けて思考を止めた。
何の連絡もなしにこの家の扉を叩いたかと思えば、暫く過ごした後また唐突にふらりと去っていく。
そんな気紛れな彼の思考など、きっと自分の思考では遠く及ばない次元を漂っているに違いない。
まずは洗濯の準備をしておこうかと視線を上げれば、洗面台の脇に並んだ二つの歯ブラシがふと目についた。
一人で暮らしているはずの、現に今他に誰もいないこの静かな空間を、じわりじわりと侵食されていくような感覚。
まるでここも己の居場所だと言わんばかりに、その存在を静かに主張するように増えていく物たち。
その光景はここで二人過ごす時間が日常の一部として溶け込んでいくようで、存外悪い気はしないものだ、と。
洗面台の鏡に映った顔が驚くほど穏やかな表情を浮かべていて、頬に熱が集まる感覚を覚えると弾けるように視線を逸らす他なかった。