俺には、応援しているアイドルユニットがいる。
リョーマとリョーガというその二人組の兄弟アイドルは、数年前から活動を続けており近頃着実に知名度を増してきている。
彼らに出会ったのは、先輩に連れられて初めて入ったライブハウスでのこと。様々なアーティスト達が出演するそのイベントの中で、終盤にステージに立った二人の歌声とパフォーマンス。
確かにどの出演者達も上手ではあったのだがその中でも特に一際印象に残ったそれに、この手の感性に疎かった自分が強く心を惹かれたのは確かだった。
そのライブが終わったあと気付けばその二人の情報を調べていて、彼ら兄弟がまだ駆出しの存在だったことを知った。
次の出演予定として発表されていたイベントにも自然と足を運び、そうして気付けば彼らの出演する場所ならば都合を合わせてどこへでも通い続け、彼らの活動の助けになればという気持ちで買い始めたライブグッズ達が生活を彩り、今はもはや彼らの存在が自分の人生の一部であると自信を持って言える程だ。
とりわけ弟のリョーマの方を俺は応援していて、出会った当時のまだどこか幼さの残る容姿や声ももちろん好きだったのだが、近頃のぐっと背も伸びてすっかり大人びた姿や歌声もまた別の良さがある。
彼のクールでどこか生意気とすら映る、しかしその内には熱いものを秘めている立ち振る舞いは昔から少しも変わらなくて、あんなに可愛い弟がいたらどんなに素晴らしいことだろうかと、姉しかいない自分の人生を振り返りながら彼の兄を名乗るリョーガに軽率に羨望すら覚えてしまうこともあった。
そんな彼らの情報収集を密にするために今まで触れた事のなかったSNSも始め、彼らの活動や日々の何気ない投稿を追いながらファンの仲間とも穏やかな交流を持っていた。
そんな中ふと自身のアカウントに声を掛けてきた、とあるファンの一人。
今は女性ファンが圧倒的に多い中で貴重な男性のファンあること、そして自身と同じく弟のリョーマを特に応援しているのだということ。そして何より今では比較的大きなステージに立つようになった彼らだが、そんな二人のまだ最初期の小さなライブハウスで活動していた頃から知っているというのを節々に感じるその言動に、自然とこのSNS上での交流が増えていった。
そして先日、一年の締め括りのイベントでもある二人のバースデーライブの開催が史上最大規模で開催されると発表され、ファン全員の熱が高まっている中で自然と湧き上がってきた気の合う同士ともっと語り合いたいという衝動。
それを何気なく自分の投稿で溢せば彼がそれをすぐに拾い上げて、瞬く間に直接会って話す約束が取りつけられた。
そうして待ちに待った当日、指定されたのは家からも然程遠くないとあるカフェだった。
中へ足を踏み入れると外から見るより案外小さくはない店内が程よい喧騒に包まれていて、確かにここならあまり気を遣うことなく会話ができるなという印象を受けた。
あとから一人来ることを告げて二人掛けのテーブル席に通されると、メニューを一通り眺めてから本日のおすすめブレンドを注文する。
一息ついて腕時計を見れば、まだ待ち合わせの時間までは三十分以上もある。
流石に張り切りすぎてしまったなと思いながら、彼とのダイレクトメッセージを開き早く着きすぎてしまったことを詫びながら座った席の場所と簡単に今日の服装を打ち込んだ。
そして間もなくそれに対する肯定の返事と共にこちらは時間通り着く予定だからもう少し待っていてほしい、とメッセージが届いた頃合に手元に注文したコーヒーが運ばれてきた。
テーブルに載せられた瞬間から漂う香りの良さに惹かれるままに一口飲めば、想像以上の香ばしさが口を満たした。
その美味しさにこの後の時間への高揚感が少し落ち着くようで、思わずひとつ溜息をつく。
そして待ち時間の暇潰しに、再びSNSを開きリョーマのページを遡る。
その画像一覧に沢山並んでいる彼の愛猫の写真達を見ればどれだけ彼がこの子を溺愛しているのかが伝わってきて、何度見ても思わず顔を綻ばせてしまう。
そうして楽しいひと時を過ごしているうちに、気付けばあっという間に待ち合わせの時刻まで時間が経っていたらしい。
「お、ちゃんと来てくれたな」
不意に頭上から降ってきた、軽く弾んだ男の声。
その声につられて顔を上げれば、そこにはジャージを羽織りフードを目深に被ったラフな格好の姿。それなりに背格好の良いことが佇まいからもわかるその男は、こちらから声を発する前にまるで遠慮なく向かい側の空いた席に腰を降ろした。
その様子を見る限り、おそらく彼が今日待ち合わせをしていたあのアカウントの人物なのだろう。
しかしあまりにも粗雑なその態度に思わず顔を顰めそうになるのをぐっと堪え、フードの影に遮られた瞳に視線を合わせた。
「……初めまして」
「別に会うのは初めてじゃねぇし、そんな身構えなくていいぜ?」
そして恐る恐る挨拶を投げかければ、それに素頓狂な答えを返して軽薄に笑ってみせる。
ついに眉間に皺が寄るのを抑えきれずじっとその姿を睨みつければ、その男の両手がフードに掛けられたかと思うとそれをばさりと脱いでみせた。
フードの下から現れたのは、緑がかった艷やかな黒髪。そして強い光を宿してこちらを見据える青い瞳。
その姿は明らかに、自分が応援しているアイドルユニットの兄、リョーガそのものだった。
「あなた、は……」
この数年間、ファンとして何度も見てきたのだから見間違えるはずも無い。
ステージと客席の間という隔たりがありながらも間近に見てきたその姿が、今はカフェの小さなテーブル一つを隔てた距離で真っ直ぐに自分だけを見つめている。
思わず漏れた感嘆に近い言葉のその先は形にならず、ただ呆然とその姿を見つめ返す他なかった。
しかしそんなこちらの様子をまるで意に介さず、通りすがりの店員を呼び止め自身の注文を告げると、その店員の背中が遠ざかるのを見送って再びこちらに向き直った。
「アンタとは俺もちゃんと話してみたいと思ってたんだぜ、随分前から俺達の事応援してくれてるもんなぁ」
確かに俺が彼ら二人のユニットの事を知ったのは、偶然にも彼らがこの活動を始めて間もない頃のことだった。
近頃は比較的大きな会場で単独公演が行われるようにまでなったのに対し、小さなライブハウスでパフォーマンスをする出演者の一組に過ぎなかったあの当時を知るファンが所謂古参というものに部類されそれを名乗るのは、ファン達の間でも自身のファン歴を語る上での暗黙の了解となっていた。
「だからどんだけ俺達のこと好きなのか気になっちゃってよ、試しにお近付きになってみたってわけ」
しかしそれが今本当に目の前にいることが、やはりどう足掻いても信じ難い。
彼の言う”お近付き”というのが、自身の弟のファンを装ったアカウントでもって自分達のファンに接触し、SNSを通して交流をし友好関係を築いた上で直接会って話をする機会までセッティングする事なのだとしたら、その回りくどい手口にただただ疑問でしかない。
「貴方は、本当にあの“リョーガ“ですか……?」
他でもないステージの最前で何度も顔を見たからこそ揺るがない確信があるというのに、それでも問いかけてしまったその言葉。
しかしそれに対する返答は、間に入ってきた飲み物を持ってきた店員の声に阻まれてしまった。
静かにテーブルの上に置かれたのは、鮮やかな色をしたオレンジジュース。目の前の姿は自身で頼んだそのグラスにストローを差すとそのまま一口啜り、美味いと満足そうに笑みを零す。
「そんなに疑うんなら証拠見せてやるよ」
そう言って徐ろにポケットの中からこれまた鮮やかなオレンジ色のカバーに収められたスマートフォンを取り出すと、テーブルの上に向けて構えて小さなシャッター音を鳴らす。
そして手元にそれを戻し指先でいくつか操作するのを眺めていると、不意にテーブルの上に載せていた自分の端末が震えた。
思わずそれを手に取れば、画面に浮かび上がっているのはSNSの新着通知。最新情報を逃さないように彼らの関連アカウントだけ都度通知を飛ばすように設定しているそれに触れて開けば、兄であるリョーガの新着投稿が画面に現れた。
やっぱ美味いな、という一言と共に投稿された写真は、テーブルの上に置かれたオレンジ色の液体が注がれたグラスが一つ。その妙な既視感の正体は、今目の前にあるオレンジジュースのグラスを向こう側から映しているからだろうことが容易に見て取れた。
「な、これで信じてもらえたか?」
そう軽く言い放ち微笑みかける姿に、言葉を失うとはまさにこの事だろう。
いったいこの現実をどうやって受け止めればいいのか、全く検討もつかないまま自分の端末を握りしめる手がじんわりと汗ばむのを感じた。
何か言葉を返したいが、しかし整理のつかない頭では何を言うべきかも分らず黙っていると、目の前の姿はそんな様子を全く意に介さずに言葉を続けていく。
「アンタ普通に客席の中でも目立つし、しかも昔からライブに毎度来てくれるもんだから俺達の間じゃちょっとした有名人だったんだぜ?最初はどっちかの知り合いかと思ったけど別にそういう訳じゃなさそうだったしな」
こちらの動揺と対照的に、まるで他愛もない会話のトーンで紡がれる言葉。
「ありがたいことにファンも増えたけどよ、アンタはそれでも欠かさず通ってくれてるの見えてるし……最近のスタンディングのライブじゃすっかり後方彼氏面ポジションに収まってて笑っちまったよ」
「……別にそんなつもりは、無いのですが」
ようやく理解が追い付いてきた頭で、さすがに聞き捨てならなかった言葉を拾い上げ思わず否定を返す。
確かにここ一、二年では圧倒的に女性のファンが多くなってきたので、前の方にいたらその体格故に彼女らに迷惑をかけてしまうだろうと、必然と邪魔にならない壁際を定位置とするようになっただけなのだが。
それすらもステージの上に立つ人間に知られていたのだと思うと、妙な気恥ずかしさのようなものすら込み上げてくる。
「アンタ、チビ助のファンなんだろ?随分熱心にアピールしてるもんな、チビ助も喜んでるぜ」
「もちろんです、俺は彼が好きなので」
今までもリョーマへその思いを認めた手紙を届けたことは一度や二度ではないし、たまに開催される握手会などの直接彼らと束の間の交流ができるイベントでも、常に彼の列に並び続けてきた。
別段本人に認められたい等という感情は自身でも意識はしてはおらず、ただ彼を応援しているという気持ちをどうしても直接伝えたいが故の行動だったのだが、それが本人にも好意的に映っていると知りその点は素直に嬉しくなった。
「でもよ、なーんかそれが羨ましくなっちゃってさ……俺もアンタに好きって言ってもらえるようになりてぇなって」
「貴方の事も好きではない訳ではないです」
「でもチビ助に対する好きとは違うんだろ!?」
「当然です。しかし貴方の事を好きなファンは余程沢山いるでしょう」
「まぁそれはそうなんだけど、なんか違うっつーか……俺にもよく分かんねぇんだけどさ、とにかくアンタと友達になりたいなって」
「……友、達?」
その脈絡のない言葉に思わず首を傾げれば、そうだと笑顔で返される。
「もうあのアカウントは畳むからさ、アンタの他の連絡先教えてくれよ。これやってる!?」
「えぇ、一応……」
そう言って画面を提示されたのは巷でも有名なメッセージアプリ。自分では家族とのやり取り等で最小限しか使っていないが一応アカウントは存在するので、聞かれたままに返事を返すとあれよという間に友達リストに新しい人物が追加された。
「これ、アンタの本名?」
「……?そうですが」
咄嗟には意図の読めなかった問いかけに反射的に肯定の返事を返すと、とくがわかずや、とその字面を追いかけて彼の唇が音を紡ぐ。自分の名前を声に出して読み上げられた、ただそれだけでどうしてか胸が高鳴ってしまう。
そして画面から顔を上げた視線が噛み合うと、屈託のない笑顔が向けられた。
「んじゃ、これからもよろしくな?徳川さん」
次の予定があるというのでその場はこれまででお開きになり、そのままカフェの前で彼と反対方向へ別れて帰路についた。
しかしその家に帰るまでの道程もどこか夢心地で、帰宅して夕飯と風呂を手早く済ませ、自室のベッドに転がってもまだ地に足が付かないような不思議な感覚が拭えなかった。
改めて手元の端末を操作してメッセージアプリを立ち上げると、その友達リストの一番上に見慣れないアイコンがある。
その丸く切り取られた写真の横に”Ryoga”と書かれたそれをぼんやりと眺めていると突然新着メッセージを知らせる通知音が鳴り響き、驚きのあまりに手にした端末を取り落としてしまった。
床の上に音を立てて転がり落ちたそれを慌てて拾い上げ画面を見れば、件の人物とのチャットルームが立ち上がっていた。
『今日はありがとな、徳川さん』
『アンタに会えて嬉しかった』
『また遊ぼうぜ、友達としてな!』
矢継ぎ早に送られてきた短いメッセージ達を何度も何度も読み返してその返答を悩んだ挙句、こちらこそありがとうございました、と一言だけをやっと打ち込んで送信ボタンを押した。
やはり今でもにわかには信じ難い感情のままに、一度そのアプリを閉じ馴染みのSNSを立ち上げるとリョーガのアカウントのホームを覗く。
未だその一番上にある目の前で飲んでいたらしいオレンジジュースを映した投稿を開き、その返信欄に並ぶファン達のメッセージをぼんやりと流し見た。
その中でもやはり彼の行ったこの場所に対する興味が一番強いらしい、このオレンジジュースを提供する店はどこかと特定しようとするファン達各々の投稿を横目にしながら、自分だけが知っているその答えをそっと胸に秘めつつ、どうかそのグラスの後ろに僅かに映り込んでしまった服の正体にだけは気付かないでくれと密かに願うしかなかった。