海の思い出「おかえりなさいませ、お兄様」
「はあ……何度言えば分かるんですか、アナタは……」
永里は由可里を見るなり、盛大に溜息を吐いた。
P地区には来るなと言われているにも関わらず、こうして足を運んでいるのだから当然の反応だろう。
しかし彼は決して由可里と顔を合わせることを嫌がっている訳ではない。
P地区には外の人間を良く思わない超能力者もいる。
中に入ることで彼らを刺激してしまい、事件に発展することもある。
そうなれば人間側にどんなに落ち度があったとしても、処罰を受けるのは超能力者の方だ。
双方の安全のために、あまり頻繁に出入りするべきではないのである。
「本日はきちんと変装をして、広夢様にお迎えに来ていただきましたわ」
「いつの間に連絡先を……まったく、ヒロムは忙しいんですよ」
「いやいや、むしろ助かったって。ゲートの近くウロウロしてても警備員うるさくねぇし」
「アナタもねぇ……」
永里は呆れた様子で由可里の向かい側に腰掛ける。
外はエアコンのおかげで涼しいが、外は暑い。
彼は長い髪を結い上げてポニーテールにしていた。
パーカーの下にはタンクトップを着ている。
「お兄様の夏の装いも素敵ですわ」
「ありがとうございます。アナタもすっかり別人ですね」
「俺も最初誰かと思った!」
「ふふ、あまり似合っていないかもしれませんが、変装ですから」
由可里も変装のため、普段とは違う格好をしていた。
下ろしている髪を2つに結び、日傘は持たずに、日焼け止めを塗るだけに留めた。
身につけているのは、量販店で売っているTシャツにショートパンツとスニーカー。
ワンピースやスカートを着ることが多い由可里にとっては、大冒険だ。
「そういう丈の短い服装はやめなさい、品がないですよ」
「わたくしの服装に品がないのであれば、お兄様の服装もどうかと思いますわ」
「……さっき素敵って言ったじゃないですか」
「ふふ、ごめんあそばせ」
永里は由可里を遠ざけるために素っ気なく振る舞うことも多い。
しかし由可里が素っ気ない態度を取ると、拗ねたように目をそらす。
兄は本当に自分を嫌っているわけではないのだと、由可里はよく分かっていた。
「それで、今日は何の用です」
「夏のご挨拶ですわ。お中元をご用意しましたので、皆様で召し上がってくださいませ」
「それはどうも、重かったでしょう」
由可里はハッとして俯く。
ジュースなら兄や兄の友人たちも飲むだろう。
そう思い、由可里は箱詰めにされたジュースを持ってやってきた。
しかし彼女の生活は、持ち物はほとんど使用人に持たせるのが当たり前だった。
「……お恥ずかしながら、広夢様に持っていただいてしまいました……」
「そんなことだろうと思いました」
「まあまあ、えーちゃん、そんな言い方すんなよ。女の子に重いの持たせらんねぇって」
永里が呆れるのも無理はない。
広夢には無理を言って迎えに来てもらった。
それに加えて、重い荷物まで持たせてしまった。
これほど失礼なことはない。
広夢は優しいので永里を宥めてくれるが、由可里は深く反省していた。
「いいえ、広夢様。わたくしきちんと身体を鍛えて、お正月までには米俵を自力で……!」
「そこまで鍛えなくていいから!てか笠地蔵じゃないんだから米俵はやめて!」
「そもそも来ないでください」
「必ず伺いますわ」
米俵は流石に量が多いらしい。
トレーニングに加えて、お正月の挨拶も考え直さなくてはならないようだ。
永里がぶつぶつと不満げに何か呟いているが、由可里の耳には届かない。
「あっ、そういえば。政府の方を通して、P地区全体におそうめんを贈らせていただきましたわ」
「ええっ!?」
そうめんは匿名の寄付という形で郵送した。
全員に行き渡るように事前に能力者の人数もきちんと調べた。
これならば誰にも迷惑をかけていないはずだ。
しかし広夢は立ち上がりかけるほど驚いている。
永里の方は無言で額に手を当てている。
「……ユカリ、そういうの本当にやめてもらえますか」
「何かいけませんでしたか?おそうめんよりお蕎麦がお好きな方が多いんですの?」
「ゆかちゃん、ゆかちゃん。そうじゃなくて」
「おうどんの方がよろしかったかしら」
首を傾げると、広夢が困ったように永里を見る。
「前も思ったけど、本当にえーちゃんの妹とは思えないくらい、天然だよねぇ……」
「どこで教育方針を間違えてしまったんでしょう……」
由可里なりに、普段兄と仲良くしてくれているであろう人たちに、何かできることはないかと色々考えた。
しかし2人の反応を見る限り、失敗してしまったらしい。
由可里は肩を落とす。
「ごめんなさい……わたくし、またお兄様たちにご迷惑を……」
「あー、全然!ゆかちゃんの優しさ超伝わってきた!みんなもありがたく受けとってくれるって!」
「送ってしまったものは、仕方がないです……少々騒ぎになるとは思いますが……」
広夢は慌てた様子で慰めてくれた。
永里の方は考え込むように腕を組んでいる。
難しい顔をしているが、怒ってはいないようだ。
数度唸ってから、渋々と言った様子で口を開いた。
「……分かりました……ボクたちに送る分には構いませんから、P地区全体に寄付はやめなさい」
「……!かしこまりましたわ、お兄様!」
「しょっちゅう送るのもやめてくださいね!」
嬉しさのあまり、由可里は手を合わせて口元に当てる。
永里はしっかり念を押してきた。
もちろん由可里もよく分かっている。
「はい。ご迷惑にならないよう、お兄様と皆様のお誕生日と、お正月と、バレンタインと、春のお彼岸と、お中元と、秋のお彼岸と、クリスマスと、お歳暮だけに致しますわ」
由可里がにっこり微笑みかけると、永里は横目で広夢を見た。
目が合った広夢は気まずそうに笑う。
「ヒロム、誕生日教えましたね」
「こんなこと言い出すとは思わなくて……」
「はぁ……来月が楽しみですねぇ……」
なんだかくたびれた様子の2人に、由可里は首を傾げる。
永里が楽しみだと言っているのだから、迷惑ではないのだろう。
今からプレゼントのことを考えると、自然と頬が緩む。
広夢はどんなものが好きだろうか。
そんなことを考えていると勢いよくドアが開いた。
なつきと、彼に続いて正行が入ってくる。
「ただいまー!ゆかりの匂いがするー!」
「また来てたのか、懲りないやつだな」
「なつき様、正行様。おかえりなさいませ」
なつきは犬のように嗅覚が鋭い。
嬉しそうに由可里の周りを回って、匂いを確かめている。
思わず撫でたくなるほど無邪気な動きだ。
「ナツキ、こっちに来なさい」
「はーい!」
「あまり女性の匂いを嗅ぎ回るものじゃありませんよ」
「ごめんなさぁい」
永里が呼ぶとぱたぱたとそちらへ駆けていく。
頭を撫でられ、幸せそうに笑う姿が可愛らしい。
なつきを撫でる永里にも、永里に撫でられているなつきにも、羨ましいと由可里は思う。
正行は広夢の向かいに座る。
「あら、わたくしがなつき様のお席をとってしまいましたか?」
「気にするな、どうせ広夢の膝の上にでも座るだろう」
正行は珍しくシャツの第1ボタンを外し、団扇を忙しくなく動かしている。
涼しい風が由可里の方にまで吹いてきた。
プールにでも入ってきたのか、ほのかに塩素の香りがする。
「扇ぎましょうか?」
「いい。お前にやらせたら、永里に何言われるか分からない」
「お兄様が……?」
「分からないならいい」
正行はぶっきらぼうに言って、顔を逸らす。
なつきと違って、分かりやすく友好的ではない。
最初は目も合わせてくれなかったのだ。
しかし今は、席がなかったとはいえ、こうして隣に座って話せるくらいにはなった。
永里が、彼は恥ずかしがり屋だと言っていたのは本当なのだろう。
「ゆかりは、何しに来たの?」
「お中元持ってきてくれたんだよ、なっちゃんの好きなジュース」
「わーい!ありがとう!ゆかり!」
「どういたしまして、お口に合うといいですわ」
正行の言う通り、なつきは広夢の膝の上に落ち着いた。
撫でられて嬉しそうににこにこ笑っている。
「なつき様はどちらに行ってらしたんですの」
「学校!正行と!土曜日はプール開いてるから!」
「まあ、そうでしたの」
P地区ではテーマパーク代わりに学校のプールを開放しているらしい。
子供たちが退屈しないよう、先生たちが努力してくれているのだろう。
なつきは水中でバレーを楽しんだことや、かき氷を食べて帰ってきたことなど、嬉しそうに話してくれた。
「羨ましいですわ、わたくしお友達と海水浴に行ったことがございませんの」
「かいすいよくー?」
「海で遊ぶことだよ、なっちゃん」
由可里がそう言うと、なつきは首を傾げる。
P地区には海がないため、馴染みのない言葉だったようだ。
特になつきは幼い頃からここにいる。
知らないのも無理はない。
広夢が意味を教えると、なつきはぱあっと目を輝かせた。
「海!海って行ったことない!どんなとこ!?」
広夢の膝から飛び降り、由可里の側へ駆け寄ってくる。
ぐっと顔が近づき、塩素の香りが鼻をくすぐった。
きらきらと輝く目に由可里の顔が映り込む。
「ナツキ、近いです」
「あっ。ゆかり、ごめんなさい」
「構いませんわよ」
いつの間にか傍に来ていた永里がなつきの肩を掴んで引き離す。
由可里は気にせず、なつきの両手を取って揺らして見せた。
「そうですわね……海ってどんなところでしょう。言葉で説明するのは、難しい気がしますわ」
そう言うと、なつきは思い出すように少し宙を見上げる。
「んー……どんな音?」
「音は……波がざざーんと打ち寄せて、海風がびゅうっとふいていますわね」
「それなら、テレビで見たことある!」
伝わるか不安だったが、テレビを通してならば海を見たことがあるようだ。
なつきの目はますます輝きを増す。
「匂いは?どんな匂い?」
「匂いでしたら、潮の香りがしますわ」
「しおのかおりー?」
潮の香りは実際に嗅いでみなければ分からないだろう。
独特な、生命の香り。
爽やかに感じたり生臭く思えたり、日によって微妙に違っている気もする。
「海藻の匂いでも嗅いでみなさい、大体あんな感じです」
「そっかー!」
由可里が悩んでいると、永里が代わりに答えてくれる。
なつきは納得してくれたようだ。
「えいりは海行ったことあるんだね!」
「ありますけど……別に楽しくないですよ」
「わたくしは、お兄様とお出かけができて楽しかったですわ」
「それは、海が楽しいと言うんですか……?」
鷲ノ宮家の海水浴というのは、永里の言う通り楽しいものではない。
父の仕事が終わるまで遊んでいなさいと、プライベートビーチに置いていかれるだけだ。
「ずっと1人で、水に浮かんだりお山を作ったりしていましたの。なつき様のように、誰かと遊んでみたかったですわ」
姉の笑里や弟の聖里は1人で好きに動きたいと言い、分かれて遊んでいた。
永里は監視対象であるため、ビーチパラソルの下でSPに囲まれ、じっとしていることを強いられていた。
SPは常に傍にいたが、仕事中だからと言って遊んではくれなかった。
「そっかー、俺が一緒に行けたら良かったのにねー」
「是非ご一緒していただきたかったですわ……」
由可里がしょんぼりすると、なつきもしょんぼりする。
彼のように元気でころころ表情が変わる友人と遊べたら、どんなに楽しかっただろうか。
「あとは貝殻を拾って、お兄様の周りに並べていましたわ」
「毎年、儀式のようでしたね」
「お兄様に少しでも海水浴を楽しんでいただきたかったんですの」
由可里は溜息を吐いて、肩を落とす。
海にいる間は永里と会話することもままならなかった。
永里はとにかく外にいる間は何をすることも禁じられていたのだ。
SPに叱られない程度に彼と交流するためには、それぐらいしか方法がなかった。
しかし永里はそれも楽しくなかったようだ。
何かの儀式だと思われていたらしい。
1番楽しんでほしかった人にそう思われていたことが残念でならない。
「楽しいというか、面白かったですよ。この子は何をしてるんでしょう……って」
顔を上げると、永里は微笑んでいた。
由可里が来てから、延々と呆れ顔だった彼が笑っている。
それが嬉しくて堪らなかった。
「ありがとうございます、ユカリ」
「お兄様……!」
ぽん、ぽんと頭を撫でられる。
由可里は思わず握っていたなつきの手を、より強く握りしめた。
どれだけ離れていても、やはり永里は優しい兄のままだ。
「ゆかり、握力ないねー」
「なつき様、どうしましょう!わたくし、頭を洗えなくなってしまいましたわ!」
「えっ!?大変だね!?」
「撫でたぐらいで大袈裟です!洗いなさい!」
久しぶりの感触を忘れたくない。
由可里は、今夜髪を洗うことが惜しく思えてならなかった。
「まったく……今思い出しましたけど、アナタの無鉄砲さはあの頃から変わってませんね」
永里は呆れ顔に戻ってしまい、大きく溜息を吐いた。
「1度、ユカリが行方不明になったことがありました」
「ええっ?どうしたの?」
「あ、あれは……」
なつきや広夢が軽く身を乗り出す。
由可里も覚えている。
それが起きたのも海水浴に行った時のことだった。
海で浮かぶことにも、砂浜で遊ぶことにも飽きた由可里は少し沖に近い岩場で遊んでいた。
SPはついてきていたが、彼は革靴を履いており、裸足の由可里よりも動きが鈍かった。
由可里が後ろを気にせず、ずんずん進んでいるうちに、SPは彼女の姿を見失ってしまったのだ。
そして由可里も岩場で足を滑らせ、落下してしまった。
怪我は擦り傷と軽い打撲で済んだが、痛みに驚いて動けなくなってしまったのだ。
「普段ならすぐSPの方が駆けつけてくださるので、わたくし本当にひとりぼっちになってしまったのだと思って、とても怖かったですわ」
「こっちは大騒ぎでしたよ、あそこまで騒ぎにする必要ありませんでしたけどね」
永里はやれやれと言った様子で肩をすくめた。
鷲ノ宮家のSPは厳しい訓練を受けている。
そのSPが大勢で慌てている姿は、彼の目には滑稽に映ったのだろうか。
いや、違う。
「だからあの時、探しに来てくださったのですのね……!」
「うっ……」
「えっ」
由可里の言葉に、全員の視線が永里に向けられる。
永里は恥ずかしそうに目を逸らした。
あの時、由可里を助け出したのは永里だった。
あちこちから由可里を呼ぶ声がする中、彼は息を切らして岩場にやってきた。
怖がって動けなくなってしまった由可里を、永里は時間をかけて宥めてくれた。
由可里がやっと岩場を歩けるくらい落ち着いた後は、何度も後ろを振り返りながらエスコートしてくれた。
「お兄様のお肌が日に焼けて、真っ赤になっているのを見たのは、後にも先にもあれきりでしたわ」
「へぇ……俺も見たことない……」
「おれもー!すごーい!」
永里の肌は元々白いが、当時は軟禁状態だったため余計に真っ白だった。
それが真っ赤になるまで探し回り、由可里を宥めてくれたのだ。
「ボクの周りにいたSPまでいなくなったので、そんなに大事なのかと思って……あの頃は能力もあまり上手く使えなかったんです……」
永里はフードを引っ張って顔を隠す。
広夢と正行はそれを見て笑っている。
「なんだよ、えーちゃん。別に隠れることねぇじゃん、カッコイイお兄ちゃんエピソードじゃん」
「お前にもまともな頃があったんだな」
「はぁ……墓穴掘りましたね、完全に」
本当に大騒ぎするようなことじゃなかったんです、と永里は繰り返す。
「……そうか、お前が1番大騒ぎしたのか」
「こんな可愛い妹いなくなったら、そりゃ気が気じゃないよなー」
「お兄様……」
由可里は当時パニックを起こしかけていて、迎えに来てくれた永里の姿をよく覚えていなかった。
自分を落ち着かせてくれた記憶から、兄は比較的冷静だったと思い込んでいたが、そうではなかったらしい。
「今も気が気じゃありませんよ、こんなところにまでわざわざやってきて……」
「……ここで迷子になっても、また探してくださいますの?」
「当然です。今のボクならアナタが何処にいようと、10分以内に辿り着いてみせます」
能力が上手く使えるようになった兄は、すんなり自分を見つけてしまうだろう。
あの日のように必死になって自分を探してくれないかもしれない。
しかしそれも全て由可里の思い込みだったようだ。
「お兄様〜!」
「っ!?ユカリっ、はしたないですよ、よしなさい!」
嬉しい。
勢いよく湧き上がる喜びの感情に任せ、由可里は永里に抱きつく。
「いいじゃんいいじゃん、微笑ましいなー」
「よくありません、小さい子供じゃあるまいし」
「なっちゃんと俺もよくぎゅーってしてるじゃん」
「ナツキは別です。まったく……早く兄離れしてもらいたいものです」
そう言いながら、永里は由可里の背中をぽんぽんと撫でてきた。
甘えれば甘やかしてくれる兄がいるというのに、どうやって離れろと言うのだろうか。
「大好きですわ、お兄様」
「ボクも好きですよ。ですから、あまり心配かけさせないでください……それと……」
永里の声が急に小さくなる。
「今年も海に行くなら、貝殻でも拾ってきてください。ナツキたちが喜びます」
「また、来ても……いいのですか……?」
「今度はボクが迎えに行きますから、きちんと連絡しなさい。いいですね」
「……お兄様〜!」
「っ、よしなさいと言ってるでしょう!」
貝殻を、また拾ってきてほしいと頼んでくれた。
それが嬉しくて由可里は力いっぱい永里に抱きつく。
儀式のようだったとは言われてしまったが、由可里の思いはきちんと彼に届いていた。
今はもう、兄や兄の大切な友人たちに直接手渡すことができる。
目で見て1つ1つの色合いを楽しみ、耳に当てて潮騒を感じることもできるのだ。
退屈だった海水浴が、今年はうんと楽しくなる。
そんな予感と、叱りながらも無理やり引き剥がそうとはしない兄の態度に、由可里は華やかな笑顔を浮かべるのだった。