◆邪神の聲◆――――――
別に深く護ってやりたいと願っていたわけではない。
家族を捨てて逃げた男と男が残した借金や恨みの為に一人で死を選んだ女が遺したアレに同情したわけでもない。
結局のところアレは独り、少々馬鹿かもしれないが災いを切り抜け或いはとり込んで意外にも飄々と生きている。
護る必要などない。
なにより、他人の境遇を憐れむ心の余裕などありはしない。
ただ…チラつく死神にアレが気づかないようにしてやりたかった。
丸に逆三角のマーク。
革ひもでいつも腕に巻きつけているそれは他人にはアクセサリーでしかない。
けれど角都は何故かそれが気になり、飛段自身もいつからそれを持っているか知らなかった。
奇妙な安堵と共に纏わりつく衝動。
どうせ日陰、殆どチンピラ。それでも堅気なのだから死神の声を聞くことはない。
苛立ちに任せて潰した組の連中や、総長を慕う連中、野心のある者。
どれを取っても敵ばかり、恨みばかりの自分の傍にいれば事件が起こると分かっていて手放せずにいた。
飛段が望むのだからと好きに居座らせたし、今更大事にする体でもないから好きに触らせた。
いつからか総長に抱かれることは無くなり飛段と共に暮らす事は当たり前になっていた。
いつから…平和ボケしていた?
いつから、組員が仲間と呼ぶ存在を信じていた?
角都はそんな事を考えながら海岸沿いにある倉庫へ走っていた。
頭を引きずり下ろしたい奴はいくらでもいる。
その頭が総長のイロを辞めて若い男に乗り換えた…なんて下らない噂が広まっていれば利用しようと思いもするだろう。
走りながら何を焦っているのかと己に問う。
飛段が連中に殺されるとは思えない。
放っておけば帰ってくると奇妙な自信もある。
分かっていて走っている。
死神の口を塞ぐ為に。
「飛段!」
バンと倉庫のドアを開けると飛段はじっと足元を見つめていた。
その目はどこか恍惚としている。
一応、飛段には言い聞かせていた。
俺の所為で何かあった時は、何もせず逃げる或いは俺を待て、と。
「飛段」
ゆるりとこちらを向いた飛段の頬が赤く染まっていて、手には折り畳みのナイフが握られている。
彼が怪我をしているのではという心配はまるでない。
足元に転がる連中の返り血だろうという事はすぐに分かった。
「悪ィ、角都…俺…」
呆然と流れ落ちる声が穏やかに反響する。
「待ってろって…忘れてたわけじゃねぇんだ」
覚えていた。待っているつもりだった。
ヤクザが何人集まっても角都以上に怖い事などない。
引きずり込まれ、壁に叩きつけられ、崩れ落ちた所を取り囲まれても別に何とも思わなかった。
「お前が何か守ってくれてる事も知ってた」
それが何からかは知らない。
けれど気づかないほうが良いのだろうとは思ったし居候である以上角都の意思には従おうと思っていた。
「…………俺を…」
どういうわけでこうなったのか飛段は尚も死体を見つめたまま零す。
「俺をダシにお前の事、ヤるって」
「……」
そこに二つ意味が含まれている事が飛段の殺意と共に伝わってくる。
「―――ナニ、要求してもお前は……」
ぐっと握りしめられる手元で丸が揺れる。
血まみれの男は此方を向いて叫ぶように云った。
「俺と引き換えなら頭は何でもするって!アレは淫乱だから寧ろ悦ぶんじゃねぇかって!」
十人近く揃って酷く苛立つにやけ顔で犯しながら嬲り殺してやるのだと見下ろしてきた。
「だから…俺…」
もっと泣きわめいて、もっとボロボロになってあの冷血漢の情を煽れと連中は髪を引っ張った。
角都のものならなんとも思わない煙草の煙を吹きかけて厭らしくニタリと口元を持ち上げるのを見た時意識が飛んだような錯覚に陥った。
汝…
「俺…!」
角都に対するイメージが悪い事も、噂が歪んでいる事も今更。
それに苛立ったわけではない。
ただ男たちが寄ってたかって、その命と体と地位を自らのものに出来ると息巻いている事が気持ち悪かった。
俺のものにもならないのに…どうしてコイツらは…――――――!
隣人を殺戮せよ…――――――
そこからはよく覚えていない。
気が付けば血の海だった。
ざまぁみろと愉悦していた意識は角都が呼ぶ声に引き戻されて、今。
血だまりを気にせず踏んで飛段に手を伸ばす角都。
ナイフを取り上げ内ポケットにしまう。
「分かった」
転がった奴の指先が一つピクリと動く。
ナイフを拳銃に持ち替えて懐から出た手は放っておいても死ぬしかないモノに向かってゆらりと降りる。
空いた手で飛段の乱れた髪を撫でるのと同時に引き金は引かれた。
響き渡る銃声、さらに広がる赤。
「イロに手を出されてカッとなった俺が殺った」
「…?」
「あの人に真相を問いただされるような事があったらそう答えろ」
あの総長はそこまで無粋な事はしないだろうが念のため口裏を合わせる算段をしておく。
あの人にとってここに転がっているものはどうせ後で始末するつもりだった連中だ。
角都ではなくても幹部に牙を向けて失敗すればどのみち消される。
拳銃を懐に入れ、乱れた気を整えるように自らの煙草を咥えさせてくる角都を見つめながら飛段は頬の血を拭いもせず不思議そうに云う。
「良いのか…?俺をイロにしちまって」
「俺が誤魔化しきれなかった場合の保険だ」
恋人になるわけではない?
でも明確に否定しないなら良いように取る。
それよりも犯人を隠す必要などあるのか?
罪を被るのは何故だ。
だってこいつ等は殺されて当然だった。
飛段が何を云わんとしているかは分かる。
分かるからこそ、これを咎めるつもりも無い。
一度深く息をついて飛段の目を見る。
「今更…失うものなどないだろうが、こんな風に生きる必要はない」
分からない、追い出すのか?とでも云うように飛段の口元で煙草が上下に揺れた。
「それでもお前と居る」
「…あぁ」
観念したような哀しみを含んだ甘い相槌。
またくしゃりと髪を撫でる手は何かを祓うような熱を発している。
「だとしてもお前には別の生き方があるはずだ」
俺の業まで背負うことはない。
そんな真似はこれっきりだと角都は眉を寄せた。
顔を拭いてやらねば、服を用意してやらねば、ここから離れなければ。
血を拭う事もしない男はあくまでも正常だ。
当たり前に死神と生きている。
そうして簡単に殺意を当然のものにしてしまう事を何故か知っていた。
だから耳を塞いでいてやりたかった。
どうせこの先二人で生きていくのであれば、他人の命を踏み台にするのは自分だけで間に合う。
金はいくらでも手に入る。
日陰でも、極道でも、怨みと悪意と正義に追われながらでも…飛段の手を汚す必要はないはずだった。
死神はいつまでも寝ていれば良いと…――――――。
飛段がふと驚きで目を見開く。
何処となく僅かに悦びを孕んだ後悔が角都に圧し掛かる。
怨みと欲望が狙っている事を知っていて放っておいた。
アイツらには手を出せやしないと見下していた。
結末は見えていただろうと苛立ちが涙を押し出す。
「ッ…」
「何で…?」
耳を塞ぎたい自分の陰に死神に呑まれることを望む自分がいた。
「…なんで…。何でそんな顔するんだ?」
飛段にはただ哀しくて泣いているように見えた。
ただただ憐れみをもって泣いているように見えた。
「お前のそんな顔見たくねぇっ!」
巻き込んですまないと謝罪されているように思えた飛段は業とはなにかを考える。
冷えたペンダントトップが、苛立ちと焦りで熱くなった血塗れた手に当たった。
赤を浴びた三角はとても嬉しそうに光っている。
これは…――――――
「何で泣くんだよ、角都ッ…」
これは…俺自身の業だ――――――…!
「なんだよっ…!憐れみなんかお前には似合わねぇって…」
「誰がコレを憐れみだと云ったんだ。騒ぐな飛段」
叫んだ飛段の口元から落ちた煙草は血溜まりに落ちて消えた。
終
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怨み妬みを角都に向ける事でペインは自ら手を下さずに
組にとって不都合な連中を淘汰している…
それについて飛段が文句言いに行く日が来るかもだけど
そしたら組員として引き込まれそうだな