湿気を含んだ穏やかな風が吹いた。
その風はひとり、小さな漁船の上で波に揺られている男の前髪と吐き出した煙を攫っていく。
男は操舵室に背を向ける格好で椅子に浅く腰掛け、しばらく前に日が昇り明るくなってきた空をぼんやりと眺めていた。
定時の無線の音がした。なんとなく目を向けた魚群の位置を示す画面は古すぎてその機能とは関係ないノイズが混じっている。
短くなったタバコの火を灰皿に押し付ける。いつもの癖で皮の厚い指を唇から頬へ滑らせると数日前に剃ったきりの髭が中途半端に爪に引っかかった。
「……今日はもうだめだな」
エンジンを切って小一時間、これといったあたりもなく、長年の勘もこれ以上は燃料の無駄だと告げていた。網にかかったのは中型の魚数匹と小魚、それで仕舞い。この船には男ひとりしかいないが、あえて声に出すことで仕事の終わりどころを線引くことにしていた。
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