湿気を含んだ穏やかな風が吹いた。
その風はひとり、小さな漁船の上で波に揺られている男の前髪と吐き出した煙を攫っていく。
男は操舵室に背を向ける格好で椅子に浅く腰掛け、しばらく前に日が昇り明るくなってきた空をぼんやりと眺めていた。
定時の無線の音がした。なんとなく目を向けた魚群の位置を示す画面は古すぎてその機能とは関係ないノイズが混じっている。
短くなったタバコの火を灰皿に押し付ける。いつもの癖で皮の厚い指を唇から頬へ滑らせると数日前に剃ったきりの髭が中途半端に爪に引っかかった。
「……今日はもうだめだな」
エンジンを切って小一時間、これといったあたりもなく、長年の勘もこれ以上は燃料の無駄だと告げていた。網にかかったのは中型の魚数匹と小魚、それで仕舞い。この船には男ひとりしかいないが、あえて声に出すことで仕事の終わりどころを線引くことにしていた。
おもむろに椅子から立ち上がって、網やロープを片付け始める。最後に網に入り込んだ商品にならない魚やら貝やらを捨てようと、それらが入ったバケツを持ち上げる。
――ピチャ
波が船底を滑る水音に紛れ、どこかで海面を軽く叩くような音がした。男はきっと魚が飛び跳ねたのだろうと、船縁へと移動する。
――ピチャ、ピチャ
しかし海へ向けてバケツを返そうとしたところで、水音が不自然にも一定のリズムで、しかも徐々にこちらへと近づいていることに気づいた。男は一度手を止めて、それに耳を澄ませる。水音はそれから二、三回続くと、
――トンッ
男のいる場所とは反対側、船首の床板の上に何かが乗る音がした。海鳥にしてはそれなりの重量を感じて後ろを振り返るも今の位置からは様子がわからない。放っておくことも出来たが、なんとなく気になってバケツを片手に船首側を覗き見た。
「こんにちは」
「おわっ!?」
操舵室の脇から首を伸ばした瞬間、突然目の前に人の顔が現れて男は叫んだ。
後ろによろけたのと同時に後退りした足が船の縁に引っかかってバランスを崩す。何かに掴まろうとした手が空を切って、反対の手に持ったバケツは邪魔なだけなのだからすぐに放り出せばいいのにこんなときに限って縫いとめたみたいに手のひらが開かない。
まずい、落ちる――っ
「あ、だっ、……っ」
このあと背中に受ける衝撃を覚悟してぎゅっと目を閉じた。
「…………」
しかし、いつまで経っても身体を打ちつける感覚も、冷たい水の感触もやってこない。
「……?」不思議に思って恐る恐る目を開いてみる。視界に広がるのは晴れた空だった。すぐ近くで水がゆったりと揺らめく音がした気がして、首を動かして背後を確認する。そこには自分が落ちるはずだった海面が目と鼻の先にあった。朝日がまだ馴染み切らない黒々とした海水の色に、本能的にぞっとする。
「ちょっと、どこへ行く気ですか」
ふいに声がしてそちらに視線を投げる。見えたのは自分の船とその上に立つ謎の青年。その手前には何故か自分のつま先があり、つまりはそれらを見下ろすような格好になっている。
自分の置かれている状況がわからず混乱していると、ふわりと身体が浮くような感覚とともに足裏が船の床の上についた。
「訊きたいことがあって声をかけたのに、いま泳ぎに行こうとしたでしょう」
呆然としている男には構わずに、突然現れた赤毛の青年は言う。一体ついさっき何が起きて、いま何が起きているのか。「あ、あんたどこから……」「どこ? あっちの方ですけど」「あっち……」有り余る疑問の中からようやく絞り出した問いも指差された先にある水平線にかき消されてしまった。
「そんなことはどうでもいいですから、質問に答えてください。賢者様はどこです」
「けんじゃさま……?」
「こちらに来たのはいいんですが、あの人がどこにいるのか聞き忘れていたので。あなた、賢者様の居場所を知らないですか。ああ、こっちだと賢者じゃないのか、晶はどこです」
言葉は通じているのだが青年が話している内容がまったく頭に入ってこない。もしかして本当はうたた寝でもしていてこれは夢なのではと思う。
「はあ、ここでも駄目か」
首を傾げるしかない男に対し、青年はため息をついて遠くを見た。
これが夢だと思えば、ようやく目の前の青年をちゃんと認識する余裕が出てくる。すらりと立つ姿や物憂げな表情は薄ぼんやりした朝の空に美しかった。
「……それにしても腹が減りました」
青年は腹を押さえてこちらに目を向ける。その視線は、男がずっと後生大事に持ち続けていたバケツに注がれていた。
「それ、うまそうですね」
「えっ、あ、ああどうぞ」
「どうも」
赤毛の青年は受け取ったバケツに手を突っ込み、鷲掴んだ中身をそのまま骨も殻も構わずぐちゃぐちゃと食べ始める。
口の周りに鱗や魚の肉片をくっつけている様子は化け物じみていたが、青年の綺麗な顔との印象がちぐはぐなことも相まってやはりどこか現実味がなかった。
「あんた、人を探してるのか?」
「ええ、まあ。晶について何かわかったら教えてください」
まともに会話ができたと思ったのも束の間、青年はそう言い残すと歩き出した。「お、おい、そっちは」海めがけて迷いなく足を進める相手に声をかけた瞬間、青年のつぶやきとともに突如扉が現れた。
その扉を青年が跨ぎ越える。
「な……」
男が声を出した頃には、青年もその扉も跡形もなく消えてしまっていた。
「……なんだったんだ?」
船の上でひとり立ち尽くしながら、疑問を総まとめにして口にしたがもちろん答えは誰からも返ってこない。
時計をみればもう陸に戻るはずの時間だった。
今度こそ夢を見ていたのだと結論づけて、男はいつもの仕事に戻ることにする。夢か波間が見せた幻。そうでもなくちゃあんな不思議なこと、誰かに話したところで頭をやったのだと疑われるだけだ。
男は片付けの途中だったことを思い出し、それを再開しようとしてあることに気づく。
「あ……」
バケツ、持っていかれた……