神様に気に入られた子は、神様に連れられていなくなっちゃうんだって。
子供の頃、近所の鬱蒼とした森にそんな噂があった。
朽ちた神社があったから、根も葉もない噂が立ったんだろう。
そもそも神様に気に入られるような子がいたら、家族に愛されてて学校でも人気者だし、行方不明になったら大騒ぎになる。
あの森はすごく静かで優しいのに。
「なるほど、獅子神君は神様に見初められていたのだろうな」
「はぁ!?」
今の話聞いてそう思うか?
ふらりと家にやってきた天堂が相変わらず自分のことを神だ何だと言うものだから、少し揶揄ってやろうと昔話をしてみたら、機嫌を悪くするどころか慈愛の表情に磨きがかかってしまった。
まったく、こいつと話していると調子が狂う。いやオレの友達全員そんな感じだけど、そうじゃない。
表の顔、もしかしたら表も裏もなく、天堂は神父だ。
迷える人の子の手を取って、愛を以て導くのが仕事なわけだから、とにかく距離の取り方や優しい言葉を選ぶのが上手い。
──その優しさに絡め取られてしまったら、オレは何処にだって向かってしまうだろう。
「そう気を張るな、私は君を何処かへ連れて行く気はない」
一人分くらいの距離を空けて座って話を聞いていた天堂が、心なしか近づいてきている。オレが不快にならないように、じわじわと。
怖い。こいつは嘘を吐いていない、怖い。
「この国の神は、おそれから崇められるものも多い。そう、君が怖がればおそろしいものになるかもしれない。
だが怖がらなければそうはならない」
気づいた時には右手をそっと天堂の両手で包まれていた。
母に乱暴に掴まれた時とも、下心しか抱いていない金持ちや女達との握手とも違う。
オレを安心させる為に手を握ってくれている。
『神様』
思わず口にしてしまいそうになった言葉を飲み込む。そんなことを言ってしまえば天堂の思う壺だ。
「離せよ」と手を振り解くと、一瞬きょとんとした顔をしたのち、寂しそうな表情になる。やめろ、そんな顔するな。
「大体、神様に愛されて何だっていうんだよ」
「……私は、獅子神君が語ってくれた森に神様は居たと思う。君に静かで穏やかな空間を与えて助けてくれていただろう」
「へぇ、一神教の天堂様がそんなこと言っていいのか?」
「私は、」
私を助けてくれる神様は居なかった。
物心ついた時には既に母は居なかった。
父は生まれてきた罰と称して私を虐げた。
盲目の修道女達はあんな父に騙くらかされて慕っていた。
だから、毎日神様に祈った。私を赦して、と。
そのお蔭か私は天使の歌声を授かり、ひとたび讃美歌を口ずさめば、顔のない人々は持て囃してくれた。
しかしそれも、声変わりが始まれば消えていった。
私を助けてくれる人間は居なかった。
私を助けてくれる神様も居なかった。
だから、私は神様を創った。私を守って、と。
「私の神は私の中から出られない。故に私の肉体を神に捧げ、私が神として振る舞っている」
「それは、」
「君だから話した。獅子神君なら、何となく分かってくれるだろうと思った」
それは防衛機制じゃねぇか。
子供が、抵抗手段を持たない者が、支配から心だけでも逃れる為の無意識の行動。
ひどく人間的な反応。
「私は神を見た。父に虐げられている私を見下ろしている私を見た。私だけの神は私の姿をしていた。
そう、その通り。性的虐待を受けていた子供によく見られる症状だ。
シズム、私は分離した」
「……どうしてそんなことをオレに話した」
「君は、優しい神様に守られていたことがあるし、今は優しい人の子らに恵まれている」
獅子神君は愛されている。
思わず天堂を突き飛ばした。
咄嗟のことで力の加減を出来なかったから、天堂はバランスを崩して床に倒れ込み咳き込んだ。
慌てて手を伸ばす前に、逆にその手を掴まれ、謝罪の言葉はもう一方の手で遮られる。
「神は君を赦そう。謝る必要はない、先の言葉は失礼を承知の上で口にしたからな」
起き上がった天堂は「嫌ならまた突き飛ばしてくれていい」と言い、
オレは真正面から抱きしめられた。
抱きしめられた経験くらいある。適当な女を抱いた時、女ってこんなに柔らかくて壊せそうなのかと思った。
挨拶として外人の男にハグされたこともある。その時はもう成人して身体も鍛えていたから、やろうと思えば男も壊せるかもしれないと思った。
それでも親は壊せなかった。
「あ……」
天堂は、オレが抵抗出来るように腕は拘束せず胴体だけを抱きしめていた。
背中に回された腕の力はとても弱く、身体はそっと接していて、微かに心臓の動きが伝わる。
右肩にそっと乗せられた頭は、右目を失っている天堂の死角の筈だ。まぁコイツは視えているんだろうが、物理的には見えない場所に他人の頭があるなんて、そんなことオレは怖くて出来ない。
穏やかな呼吸が聞こえる。
あたたかい。
「隠したいことは隠せばいい。人の子にはそうする自由がある」
優しい言葉が、優しい声色で、耳をくすぐる。
オレが受け入れたのを感じ取ったのか、身体を包む腕の力が少しだけ強くなる。怖くはない。
天堂の鼓動は落ち着いたままだ。きっと神父様はこの程度、当たり前のように出来るんだろう。
いや、当たり前のように愛を与えるなんて、虐げられていた奴に出来ることじゃないだろう。
ならどうして、こんなに優しいんだ。
「神の愛は平等、なんて嘘だ。
私の神は私だけに優しく、今の私は獅子神君だけに愛を与えている」
「お前は何なんだよ」
「神の器だ」
「話が通じねぇのは素か」
行き場のない状態の両腕を、同じように天堂の背に回す。頭も肩に預けてみる。
側から見たら異様な光景だろうな。なんて思いながらも、そうしている内に頭が重く、熱くなる。
何だ、と声を出そうとすると、口から漏れたのは言葉にならない音だった。
「好きなだけ泣くといい」
ああオレ、今、泣いてるのか。
あんまりにも久しぶりすぎて分からなかった。声を出して泣けば怒られたから。
抱きしめ合ったまま床にへたり込んで声を上げて泣いた。その間ずっと、天堂は背中をさすってくれていた。