揺らぐ月の揺り籠(浄宗)「宗雲、入っていいかい?」
言いながら休憩室のドアを左手でノックする。右手にはトレイの上に乗ったティーポットと温めたティーカップが二つ。ホットドリンクは別に用意しているが、この陶器達は客には出さない、お疲れ気味なことが多いこの店の支配人様の為に用意しているものだ。
シンプルだが品の良い質感のそれらが中の液体ごと冷める前に、室内にいる自分の声に気付いたその人から了承の言葉が聞こえた。
返事に少々時間がかかったことが引っ掛かりつつも扉を開けると、仕事が嫌と言うほど詰まったタブレットをテーブルの上に無造作に置き、休憩室のソファーの背もたれに寄りかかって天井を仰いでいる高級ラウンジウィズダムの総支配人、宗雲がいた。
「……随分お疲れのようだね」
思っていた以上だ、と言外に含ませると、いつもより光をなくしたペリドットの瞳がゆっくりとこちらを向く。……と、思いきや再び天井を見つめ出したので、限界だな、と思いながら堪らず苦笑いを浮かべた。
ここ最近忙しかったし、彼はこちらには見せない気苦労や負担を背負っている。趣味の生け花や家庭菜園などで息抜きはしているようだが、社畜気質なのか限界が来るか誰かが止めない限り動き続けてしまう癖がある。先日休むように進言したはずだが、知らぬ間に何かまた負担を増やしたのだろう。全く仕方のないものだ。
だが、彼はきっと自分以外にはこんな姿は見せない。
優越感が労りたい気持ちに勝ちそうになるのを抑えながら、表面上はいつも通りの表情で彼の隣に座り、ティーポットからりんごに似た香りの茶を注いだ。
「……それは」
「カモミールティーだよ。お疲れの支配人様のために淹れてきたのさ。さぁ、どうぞ」
ほのかに湯気の立ったそれを差し出すと、彼は小さな声でありがとう、と言いながらいつもより血色のない手でカップを受け取った。
……元から細身だとは思っていたが、最近また痩せたように思う。その証拠に、スーツの袖から見える手首が以前より細くなっているのか腕時計に隙間が出来ている。これは回復したらウィズダム自慢の料理人にスタミナがつくものでも作ってもらわねばならないな。
そんなことを思いながら、カモミールティーをゆっくり喉へ流し込む宗雲を見つめていた。
カップへ流し込んだ量の半分ほど飲み進めたあたりで宗雲は飲むのを止めて、ローテーブルの上にカップを置いた。それと同時に、今度は肘を大腿について項垂れてしまった。そしてつくことすら珍しいため息まで聞こえてくる始末。どうやら相当参っているようだ。
ふむ、と頷いて、肩にかけているジャケットを濃い紫色の髪を隠すように被せてやった。
「……?!浄、何のつもりっ……!」
何のつもりだとでも言いたかったのだろうが、最後まで言わせずに腕を引っ張ってやはり幾分か細くなった体を己の身の内に収めた。自分の肩に彼の顔が埋まるような形で抱き寄せる。
「……宗雲のその頑張り屋なところは美徳だと思うけど、そればかりでは潰れてしまう。誰かに甘えることも大切だよ」
ぽんぽんと赤子をあやすように優しく背を叩いていると、腕の中で強張っていた体の力がふっ、と抜けた。そして、おずおずと背中に腕が回され、シャツを掴む感覚がする。ようやく彼が自分に体を預けきったところでもう少しだけ深く抱き込んだ。
……しばらくの間ゆっくりと背中を撫でていると、おもむろに宗雲が顔を上げた。麗しい相貌に浮かぶペリドットは、普段には劣るが先程よりも光が戻ったように思う。そして、口元には柔らかな笑みが添えられていた。
「……ありがとう、浄」
「どういたしまして」
宗雲が頭から被せていたジャケットをいつも自分が着ているように肩にかけたので、乱れた髪を直してやるついでに頭を撫でていると、彼はせっかく浮かべていた笑みを消して宗雲は美眉を下げてしまった。
「しかし……すまないな」
「何が?」
「女性以外に、こういうことをするのは好きではないだろう」
その発言に、頭を撫でていた手を止めた。彼は律儀な面があるので、こういった場面でも絶妙に空気の読めない発言をすることがある。
まぁ、普段はそんなこともないので、これも自分だけに見せる顔だと思って我慢しよう。
頭にあった手を滑らせて、ティーカップを受け取った指先と同じように血色のない頬に添わせる。
「確かに、触れて慰めるならレディにやりたいね。男にやるなんて御免だ。……だが」
親指で、薄く整った唇をそっとなぞる。
「宗雲は、別だよ」
「……?」
それこそレディなら一発で虜になるほどの甘い口説きだったのに、肝心の宗雲は不思議そうに首を傾げていた。さすがに想定外過ぎる。
「はは、参ったな」
苦笑を隠すこともせずにそのまま彼の血色のない頬を撫でる。相も変わらずよくわかっていないような顔をしている彼は、疲れて思考が鈍っているのだろう。そう思いたい。諦め悪く肌触りの良い頬を愛撫していると、突然宗雲が己の手に擦り寄ってきた。
「……ッ!」
「……お前の手は温かいな。安心する」
甘く響いた声と、驚くほど柔らかな笑顔から発されたセリフに、ぴたりと手が止まった。すでに本日二回目だ。予想以上のカウンターを食らって思わず固まっていると「浄?」と怪訝そうにまた首を傾げている。どうしてそんな態度が取れるんだ。
ため息や頭を抱えそうになるのを何とか耐えつつ、腕を伸ばしてやや乱暴に抱き締める。おい、という文句の声が上がったが無視してやった。
全く、こちらの口説き文句には一切靡かなかったくせに。
「お前には敵わないよ、本当」
「何のことだ」
「こっちの話さ」
宗雲自身はこの返しに納得がいっていないようだが、また同じようにぽんぽんと背中を叩くと、最初よりずっと素直に体重をかけてくる。
こんな姿も、こんな仕草も。見せてくれるのはおそらく、いや、今は確実に自分だけ。
で、あれば。多少こちらの愛が通じなくとも許そう。いつもは不動の月が、揺らいでしまった時の揺り籠になることも厭わない。
だが完全に脈無しなのも堪えるので、それはそれとして別で進めさせてもらおう。
腕の中でうとうとしかけている宗雲を見て、やれやれと言わんばかりに肩をすくめた。