隣の家のガキ隣のガキは不登校で虐待児だ。
だからなんだという話だがそれで迷惑を被っているのだから文句のひとつやふたつ言ったっていいだろう。隣といってもあちらは戸建ての道場でこちらはアパートだ。問題は数十cmしか離れていない上にアパートの壁は少し力を入れたら破りかねん薄さだということ。アパート側の人間の生活音も気にはなるが割愛する。道場もそうたいして離れていない上に薄い壁のせいでまあまあ聞こえるのだ、聞きたいわけでもない音が。ガキの泣き叫ぶ声が聞こえたならそれはそれで近所のお節介が気を回すだろうに、殴打と父親の怒鳴り声、押し殺した啜り泣き、たまに食器だかの割れる音。抑えられた喧騒と道場だという外面、それもあって表立っていないだけだろう。これが昼夜問わずだから他の家庭なんぞ興味のない俺でも「ああ、虐待か」と断じれる。実はお節介どもも介入したことがあるのかもな、俺には関係のない話だが。だがこれが改められることはない。これがこの区画の日常なのだから。そう、そう思っていた。顔を突き合わせたことのないガキだったのだ。
タバコを吸うために開け放ったこの部屋唯一の窓に腰掛け紫煙を吐き出す。2階の角部屋だから隣接した道場が視界に入る。庭と呼ぶのも烏滸がましい軒下でうずくまるガキと目があった。だからなんだという話だが腫れぼったい目と細っこいが棒切れというほどなよっちいわけでない腕に巻かれた包帯、そこかしこに散ったアザだったりが目に入る。2階と平家なのだから言葉も交わさぬ目視だけだったが見知らぬガキが見たことのあるガキになった。
茹だる暑さの夏だ。辟易としながらゴミ出しのためにまだマシな暑さである早朝にフラフラゴミ袋を持って階段を降りた時だ。隣の道場からガラガラと横開きの戸が開けられる音がする。小さい体躯のガキがえっちらおっちらゴミ袋を抱えて出てくる。なんとなしにその姿を見ていたがまた、目が合う。チラリと見上げた瞳がうろついて伏せられたあとまた目が合う。もごついた薄い唇が「、おはよう、ございます…」とボソリと挨拶を落とす。流石に目があってもいるのでおざなりではあるが会釈を返す。父親以外と喋ることもないだろう声は高くまだ声変わりも迎えていないようだった。そそくさとゴミ袋を置き帰る後ろ姿をなんとなしに見送る。アザと瘡蓋は変わらずあちらこちらに塗られていた。顔を知ったガキになった。
夕方が長く少し風が涼しい日だった。所要を済ませ帰るところだった。顔を知ってるガキが玄関先で項垂れて座っているのが目に入る。素知らぬ顔で通り過ぎようとも思ったが気が向いた。
「ガキ、こんなところで何してる」
俯いていた顔は片頬が腫れ少し輪郭が変わっていた。凡そ父親に殴られたのだろう。
「隣の、にーちゃん…?」
訝しげに漏れ出た声は掠れている。
「帰らんのか、帰れないのか」
恐らく後者だろうなと分かりながらも声を掛けたのだから聞く。ありがちな話だろう。
「へへ、親父怒らせて帰れねえんだ」
ぎこちなく笑ったことで口端が痛んだのだろう。それでも笑みの形を作ろうとする。馬鹿なガキだ。従うことしかできないガキだ。
「…うちに来るか」
俺も大概なバカだ。そう思いながら提示する。一晩くらい外に出たままになるのが見えている。治安が良いわけでもない都会でガキひとりだ、なけなしの良心とやらが刺激されたのだろう。哀れなガキだ、と。
「いーの?」
普通なら断る提案をほのかな期待でこちらを見る瞳。ある意味純粋なままなのだろう。ああ、そう育てられたのだろう。
「俺が言ったんだ、いいさ」
寝食を共にしたガキになった。
肌寒い日が増え上着がいる季節になった。隣のガキは閉め出された日は俺の家の戸を叩くようになった。泊まっていくといっても早朝に父親が戸の鍵を開けるのを待たなければならないのでそう大して滞在時間が長いわけじゃない。だが、流石に会話はする。何が好き、何が嫌い、いつも何してる、答えたくない質問は適当に返し気が向いたらちゃんと返すを繰り返す。ガキは問わずともペラペラ喋る。親父の嫌なところ、親父の好きなところ、──本当はどうなりたいか、など。現状のままでいられるとは思ってもないのだろう。ただの馬鹿じゃないガキだ。
「ホントは、こんなとこじゃなくて、もっとどっか違う場所で…ンー、まあ?ハヤトみたいにフラフラすんのも悪かねェかも!」
ひと言多いガキだがきっと本音だったのだろう。遠いところに視線をやり、実現出来ない絵空事として自由を口にする。哀れなガキだ。そんなガキを悪く思わない俺もどこか可笑しくなっているのだろう。ガキは流竜馬という。
寒い冬だ。雪が降らないのがおかしなくらい寒い日だ。道場の玄関先でぐったりしたガキを、寒いというのに熱を持ったガキを狭い自分の巣に持ち帰った。打撲痕が熱を持ち身体が発熱しているのを備蓄のない部屋で急いで買ってきた冷却シートで冷やしていく。自分に人を思いやる、人に何かをするココロなんてものが備わっていたのにびっくりする。他人なぞ路肩の石も同然だったというのに。
「ハ、ヤト…?」
熱に浮かされて辛いだろうガキは潤んだ瞳を薄く開けてこちらを見やる。会話も辛かろうとその汗ばんで火照った手を握る。途端に眉尻を下げ顔から力を抜くのだから居心地が悪い。
「ハヤト、俺、おれさ、」
──親父にハンコー、しちゃった
ガキが当たり前のことを言う。凡そ世間一般では当たり前の、ガキには到底難しかったことを。何故、など言えるはずもない。当たり前の事だ。
「家、出たいって言ったんだ、ホントはちがうこともしてみてェって」
「そしたらこんなん、なっちまった」
「へへ、メーワクかけてごめんな、ハヤト」
ガキが、当たり前を許されなかったガキが、あまりにも哀れで、きっと哀れすぎたのだ。
「ここから出るか、竜馬」
俺ならお前を救えるのだと、思ってしまった。